歴史について

曽我町の歴史

古くは弥生中期の遺跡群の中にあり、半世紀前頃までは田畑に土器片や石器が見られました。

曽我の地名は8代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(タケウチノスクネ)の第三子・石川宿禰が“蘇我(そが)“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。曽我町の西北にある宗我坐宗我都比古神社(ソガニマスソガツヒコジンジャ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子(~626年)の頃、推古天皇の御世に創建※1されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。

曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。

また、蘇我氏と有縁であった聖徳太子を追善して伽藍(大楽寺)とその四方に守護寺(南専寺⇒光専寺、東楽寺、西養寺 他)が建立されましたが乙巳の変の時に焼失し、後に曽我の村民により再建され※2、下記4寺へと続いていてます。

飛鳥時代を経て中世以降、竹之内峠から八木、桜井、初瀬を通る伊勢街道沿いに次第に曽我の集落の中心が南の方へと移って行きました。

江戸時代には曽我は城主の居る城下ではなく、江戸に居を構える旗本・多賀氏(2,000石、内曽我はその内1,300石)が治め、その陣屋が今の陣屋会館のところにあり、代官が居て公事を務めていました※3

当時は街道往来の賑わいと併せ、王寺から大和川-大坂に通じる曽我川の水上交通も盛んで、豊津橋(大橋)のところには船着き場、旅館があり、その東の街道沿い(曽我のメインストリート)には食事処や店も並んでいたと伝えられています。

また、「曽我3百軒」と云われ、農村としては大きな集落であり、神社が二社(上記神社、天高市神社)、お寺が四山(光専寺、光岩院、東楽寺、西養寺)を擁し、商工業も盛んで油屋、桶屋、畳屋、瓦屋、建具屋、髪結い、米屋、綿屋、木綿屋、紺屋、うどん屋、鍛冶屋、等々多数のお店や職人が居たといわれています※3

明治以降、鉄道交通(旧国鉄)と経済発展と共に商工業や人々の生活も徐々に変わって行きますが、終戦(昭和20年)後、目覚ましい日本の経済発展と共に近鉄真菅駅、八木駅から大阪への通勤圏として昭和30年以降、曽我町周辺も住宅と人口の爆発的な増加となり、今日に至っています。
市町村の経緯としては、大和国(和州)高市郡曽我村から明治になり周辺地域との幾度かの地域割変遷を経て、明治22年4月奈良県高市郡真菅村字曽我、そして昭和31年2月11日橿原市曽我町となり、現在に至っています※3

〔参考資料〕
※1:宗我坐宗我都比古神社由緒書、高市郡神社誌(大正11年9月22日発行)
※2:紫雲山光専寺由緒沿革
※3:橿原市史(昭和37年5月15日発行)