堀内長玄覚書(最終集)第二百九十一番

堀内長玄覚書第二百九十一番
明和八年四月末頃より伊勢大抜け参りが始まりました。これは天皇の即位(後桃園天皇)の日にちが定まった事などにより何処からともなく抜け参りが段々と出現しだしました。五月の一日頃になると、京都・大阪より、夥しく人々が出、かか達は子供を負い、前掛けをしながら参り、親父共は鍬を担ぎながら参る人も有りました。六十年以前にもこの様な事が有り今年、大坂を出た人は何十万人とも筆に尽くされぬ有様です。この街道(曽我の伊勢街道)へも何万人とも知れぬ人が通り、街道筋に接待場を設け、村々より米・麦・柴・薪などを持ち出し、曽我の東口、今井の柳原にも接待場が出来、俵物などは百斗も集まり、御馳走駕籠、御馳走馬(駕籠や馬などを無償提供したと思われる)なども夥しく出ました。
当村も西口寺前(光岩院の前か?)に接待場が有り、私共も、茶やはったい粉などを出しましたが、その他の村々からも色々な物を夥しく持ち寄り、その有様は筆にも尽くされません。
※注 世に名高い伊勢の抜け参りの様子です。当時の人々の有り様が良く分かります。

堀内長玄覚書(第四十一集)二百八十四番

堀内長玄覚書第二百八十四番
明和七年寅の卯六月晦日の夕方に雨が少々降りましたが、その後、閏六月の一か月少しも雨が降らず、七月になっても降りませんでした。この時、七月四日に法印坊と申す山師が当村のこげつ庵にやって来て七日七夜のうちに雨を降らせましょう、と当国の村々に書付をを回し、大口をたたき、七日七夜のうちに雨が降れば、礼銀を心持ち次第に下されます様と書付をを出しましたところ一向に全く雨は降りません。
さてさて法印坊、面目も申し分も無く、其れに付け当村御地頭様より、斯様なる売僧坊主が当村に逗留している事は誠によろしくなく、当村より追放されました。
それからも段々照り続き七月二十一日の夜、北の方角に雲焼けと申す一片の雲が出、丹波焼けの様な赤い筋が立ち、京都が大火の様と人々が申し、その後、少し鎮まりましたが、半時ほど後に雲焼けが段々と広がり、火の雨が降る様と諸人申し怖がる様子は筆にも尽くされません。
それより所ところで、日待ちを行い百万遍の念仏を唱え、色々の事を申し暮らしていましたが、この時は日照りが百日も続き、西国方、東国方、諸方にてもその様な有様で、相変わらず不思議な雲焼けが続きました。
ところで、この大日照りで当国の植田は半分ほど枯れ諸人は難儀されました。
これより世上、見物やそのほかの楽しみなど一切なく、分けて盆踊りなども無く、百姓は日々水替えに身をこがし、村々盆どころではなくなりました。水替え等色々と行いましたが、結局一反当たり五六斗位の出来となりました。
(中略)然るに翌年の卯の年も同様の大日照りとなりました。
※注 天候不順になると人の弱みに付け込む輩が出るのは、今も昔も変わらない様です。この様な大日照りは度々起こった様で、また大雨による水害も多々発生しています。昨今異常気象という事がよく言われますが、それは果たして本当に異常なのか、時々異常な事が起こるのは、ひょっとしたら正常な自然なのかと考えさせられます。

堀内長玄覚書(第四十集)

堀内長玄覚書第二百八十一番
明和七年寅の五月四日に、池尻御屋敷にて成敗の事が有りました。
これは、明和五年の暮れにに起こった一揆(二百二十七番参照)に関するもので、首謀者と思しき畝火村(原文通り)惣次郎、大谷村の半兵衛の両人の吟味にかかり、段々と取り調べ、江戸御公義よりの申し付けにより、打首となりました。笑止千万の事で(愚かなる裁定との意味か)さて、成敗の場所に土を段々に直り(いわゆる土壇場を作り)この両人は代々の御宗門にて(浄土真宗の門徒)その際に正信偈と白骨の御文章といただき、念仏もろともに両人首打たれ、その時、そこに居合わせた人々はさてさて、痛わしく不憫なる有様、申すばかりも無くと思われました。
また、一揆に関して芝村(現桜井市)の北ノ兵庫村の大庄屋が、この人は芝村藩の御屋敷に度々御用金を上げかねてよりお役人衆とご昵懇にされていましたが、自分の支配下の村から四五人の百姓が成敗されると聞き、これを気の毒に思い、自分が身代わりになると申し出られました。
この人お役人衆とも懇ろなのでそれで相済むようにと慈悲の心で身代わりを申し出られましたが、江戸御公義より成敗する様にとの沙汰が下り、是非もなく打首になりました。
それとは別に、六月十四日に今井町でも六人の咎人があり(一揆発生の際、今井町でも百姓一揆とは別に打ち壊しの暴動有り)内一人、鳥屋藤七と申す人が打首となり、残り五人は所払いとなりました。
※注 一揆の結果、百姓の言い分が通った部分も有りますが、けじめとして首謀者は罰せられています。それが打首でありやはり一揆は命がけだった様です。幸い、曽我村からはそう言った咎人は出ていませんが、長玄さんをはじめとして村内運営がよろしかった様です。

堀内長玄覚書(第三十九集)二百五十一番、二百七十二番

堀内長玄覚書第二百五十一番
明和六年亥の八月五日に曽我の森に亥年の願い上げの催しにあやすり(操り人形か、浄瑠璃のような物と思われる)を興行致しました。従来、座席は正面に庄屋・年寄の桟敷をとり、その次に曽我座、町座、新町座その次に組頭役となっていましたが、色々と言う人があり、やかましくなってきました。
そこで、当年は庄屋が助五郎、年寄は新兵衛(長玄さん)、半兵衛、村役人は三人なので、御用床の前から少し正面からずらし西北に桟敷を取り、正面に曽我座、左に町座、右に新町座、その次に組頭、と言うように桟敷をとりました。結果、皆々了見し目出度く行事が済みました。
※注 今でも葬式の焼香順などで揉める事がありますが、当時も色々と悶着があった様です。特に曽我座と新町座では色々と確執があった様で、曽我座から領主の多賀氏へ揉め事の仲裁を願う口上書が宗我都比古彦神社に残されています。

堀内長玄覚書第二百七十二番
小綱村に新池が出来た事。
明和七年(1770年)寅の二月中旬より池を掘り始め、これより川下の村に対し何の相談もなかったため、当村と妙法寺村とが申し合い、その他の下郷も村々も迷惑のため、 高取土砂奉行人に小綱の池掘りの中止を願い出ました。それより、当村と妙法寺村と小綱村とで論争になり、さてさて、やかましき事が勃発しました。小綱村からは、他村や高取土砂奉行への根回しもなく、当村と妙法寺村とが土砂奉行に強くお願いに上がったところ、土砂奉行も、もっともとの事で、今後、五月一日より八月下旬までは、如何なることが有っても池に水を入れない事、もし万一その間に水を入れる事が有ったら、池の水は曽我、妙法寺の両村が抜き取り、好きに使わせてもらう、と言えば、小綱村は一言もなく、その申し分を認め、証文が出来、もしこの裁定に不満があれば、京都二条の御番所(京都所司代のこと。京都奉行・なら奉行はその管轄下に入ります)さまへ申し出ますと強く申し出たところ、高取お役人衆もお聞き入れ下され、証文を両村で取り置きとなり、解決いたしました。
※注 小綱池が出来た時の経緯です。水に関しては当時色々と悶着のあった曽我と妙法寺が、今回は結託しています。なお、仲裁に高取土砂奉行が出てきていますが、その理由は良く分かりません。当時は水源地の位置づけの領主が管掌していたのでしょうか

堀内長玄覚書(第三十八集)二百三十七番、二百三十九番

堀内長玄覚書第二百三十七番
明和六年二月十一日、去年暮れに庄田七兵衛様が道中中六日で急ぎ江戸に下りお殿様にお会いになった件ですが、これは堺の杉田氏と言う人に江戸への仕送りを頼まれた様で杉田氏が当村に来て当村の様子を見た結果、仕送りは出来ずとの事で庄田氏も気の毒な事です。先年より江戸では家老の石原仙右衛門殿、欠落された由、江戸より連絡があり、さてさて江戸屋敷ではどうなっている事やら、毎度毎度お役人が入れ替わり立ち代わりなさられ、新お役人が出来、百姓方も気の毒に思っていましたが、そこで庄田氏は同月二十三日に下市にて金策されましたがこれも旨く行かず、江戸の月の賄金を、ようよう百姓方より借りだし、御月の賄金、その他の切米金(現金支給の給与)等を二月二十六日に百姓方より出す様申され、百姓方、精出しし当座は相収まりました。これより町支配の八人から庄田氏、その金を取り出し、江戸へ下られた事です。
※注 毎度毎度、江戸の賄金の調達に代官の庄田氏は苦労されています。それにしても、当時武士が仕官を外れる事は死活問題でしたが、家老が失踪しまた役人が入れ替わるなど、尋常では無いと考えられます。新規の召し抱えは、武家の次男や三男などは二つ返事で仕官したでしょうが、辞めた者も多くいたのは非常に稀有な事と思います。

堀内長玄覚書第二百三十九番
明和六年丑の二月に至り、去年暮れに村々一揆を起こし、家をこぼったりしましたが、この度、御地頭様より、一揆の頭取人の御吟味が有り、村々で頭取をいたした人々を捕らえ閉門、手錠(てぐさり)になり、入牢になった人も有りました。
さてさて難儀な事になりました。其れに付け今井町に昨年の暮れに借家人が家賃を半分に下げる様にとの願いを出し、町中の借家人が残らずそんぼ(現在の蘇武橋のあたり)に集まり、この要求をのまない大家が有れば、打ち壊しに行きといった有様でした。さて又、おびや屋与右衛門の家を半壊にしましたが、これは、銀札と交換すべき銀を取り込みにし、その恨みゆえ、半こぼちにしたものでした。この件も頭取人七八人
芝村(現桜井市)に召し出し、吟味の上、数人の頭取人が入牢に及び難儀なこと、この入用銀ばかりが借家人の負担となり、難儀が重なり、七月になっても事が治まらず、さてさて気の毒千万と皆が申しておりました。
※注 明和五年の百姓一揆は、大和では興福寺領、旗本神保氏領、旗本平野氏領、多武峰社領、旗本多賀氏領郡山藩領、幕府領、柳本藩領の都合九例ですが、これとは別に今井町で家賃値下げ闘争が起こっています。
この後、幕府から一揆の際に飛び道具使用許可令が出ています。

堀内長玄覚書(第三十七集)二百三十一番、二百三十二番

堀内長玄覚書第二百三十一番
明和五年の十二月末に新たに郡代となった庄田氏がにわかに江戸に下られました。
道中早打ちにて、極月二十五日暮れ六つ(午後5時~6時頃)に出立され、大晦日(十二月三十日)に着くよう昼夜五日切りの予定で出立されました。
出立に先立ち持参金百両か五十両を村方に用意するよう仰せ付けなされましたが、前書の通り百姓は行き詰り状態で百姓からは少しの金も出さなかったので、庄田氏より田原本の安部田屋から金を借りこの証文を村方に差し出す様仰せ付けられましたが、役人が申すに、先年お指図により安部田屋から銀三千匁(約五十両、五百万円ほど)を村方印形にて借りましたが、お殿様より返済が無く、段々と返金の催促が来て更に南都の奉行所に出訴されました。村方も迷惑し、ようよう大坂の伊勢屋平兵衛に借り換えして安部田屋に返済しましたが、大坂への借金は残ったままの状態で、またまた村方印形にての借金は出来ませんと言ったところ、庄田氏殊の外なる御腹立ちでしたが理詰め故(村方に理があるので)是非なく安部田屋へは庄田氏の一判にて借用し、急ぎ江戸に出立されました。その際、庄田氏は陣屋に残る役人の森田甚太夫、竹田安高、井上長兵衛らに、庄田が留守の間、どの様な催促が来ても、一銭も出すことが無い様に,村方にもよく心得させ(百姓から催促が来ても金を出さない様に)と言い置かれ、極月二十五日暮れ六つに出立され、晦日の夕方に江戸に着かれました。
今回の江戸への出立は、庄田氏がどの様な思し召しか、江戸の殿様からの御呼出しも無く、百姓方から頼んだことも無く、庄田氏一人の思案で行かれた様です。其れより、明くる丑の二月十一日に当村にお帰りになられました。
※注 急いで行けば、江戸までまる五日で行っています。それにしても当時の人は
相当の健脚だった様です。

堀内長玄覚書第二百三十二番
明和五年子の極月三日、孫のおでんが疱瘡で死にました。法名は釈尼妙好で、この子の母親も死んでおり、後添えの母も亡くなっており、妹のおるいも死んでおります。
残るは、このおでん一人で父親の喜平次はこの子一人を楽しみに可愛がっておりましたが、力落としの様は筆にも尽くされません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、御催促(仏が迎えに来る)の事と皆々相心得ることと存じます。
※注 天然痘は奈良時代の大爆発的大流行以来、肺結核と並びまさに国民病と言えるものでした。幕末に日本に来た外国人は、あばたの子供が多い事に驚きの目をもって見ています。昭和20年4月という終戦直前の混乱期においても、この地で種痘が行われており、その証明書が残っています。
江戸時代は、人生、まさに死と隣り合わせだった事が良く分かる記述です。

堀内長玄覚書(第三十六集)二百二十九番二百三十番

堀内長玄覚書第二百二十九番
明和五年子の年、江戸で謀反人が出ました。この人は大弐(山形大弐、江戸時代の儒者で思想家)と申す剣術指南で先年の由井正雪、丸橋忠弥に勝る人との事です。有難くも御公義様の御威光にて取り納められました。諸人、有難く思った事です。
※注 世上名高い由比正雪の乱や山形大弐の事件など江戸で起こった事が、赤穂浪士  の件もそうですが、結構こちらにも伝わってきています。

堀内長玄覚書第二百三十番
明和五年子の極月、前に述べた庄田氏が下市に帰られました。是までは浪人で、あちこちに住まいされていましたが、この度、お殿様が当村に入部された折、二百石の格式で郡代にお召し抱えになられました。下市に帰られる際、駕籠に乗られ、挟み箱に槍持ち中間、そのほか足軽に草履取りなど十人ばかり従え下市町に帰られました。それより三日の逗留の後、極月二十二日に当陣屋にお戻りされました。
※ 多賀氏の領地を治める郡代(代官)は多賀氏の家来と思われがちですが、実際は下市の浪人の庄田氏が世襲の様に召し抱えられています。時には川原惣右衛門の様な
渡り役人を召し抱えた様な事もありました。

堀内長玄覚書(第三十五集)二百二十八番

堀内長玄覚書第二百ニ十八番
前略(明和五年十二月十二三日頃と書かれています)
是より惣百姓下地よりの訳合いに腹立ち致し、当村惣百姓腰をかがめ、一同に申し合わせ候は、下地より割付銀、御用金、銀札引替等、書付まで御取り置きなさられ、御年貢時に下しなさられ候約束の所に、困窮の百姓に訳立下しなさらず、最早この上致し方之無く候えば、御請け申し候事相成り申さず。何事に寄らずこの後川原惣右衛門申し付けられ候事、聞き入れ申さずと惣百姓より口々に悪しく申し立て候に付き、惣右衛門、段々不首尾に相なり候て極月十六日に惣右衛門、丹州へ罷り帰り候由を百姓方に承知致し候に付き、当村方百姓申し合せ、御陣屋に詰めかけ申し候は明日より丹州に御帰りなさられ候由承り及び候、其れにつけ五年以前申の年、御用金厳しく仰せ付けられ候に付き、差し上げ置き候此の金子の儀、其の節川原氏申され候は、此の金子に付きこの惣右衛門申し付けべく候義、如何様なる儀出来致し候えども、我等役儀相勤め候えば百姓方に一分も難儀かけ申さず、これ迄の役人の申し付け候は相替わり、きっと返済致し遣わし候所きっと差し上げ致し候様と御申し付けの事、なお又銀札引替の儀も村中の書付御取置きなさられ、この儀も戌の御年貢次に下しなさられ候はずの約束、今日に至りそのままに捨て置き下され候事、引替所九兵衛となれ合いになされれ候や、右の口々早々訳立候はば故郷へ帰し申し候。もし訳立相済み申さず候はば、この村方へ惣右衛門もらい候て我々共の様に百姓致され相続なり候ものか、ならざるものか、為見致したく候事と惣百姓口々に申し候へば川原惣右衛門一言も無く、一揆の百姓方申し候は、最早この後、井上氏申し付けられ候義も知らず請け申さず候、これまた口々に申し候。其れに付け惣百姓口々に申し候は、腰を据え、おのれ惣右衛門め、是迄は御郡代と存じ奉り候て、何事にても請け候所、ようもようも是迄御百姓を犬か猫の様に、百姓を、どうしおれ、こうしおれと、非人、乞食同然に申し、かりそめにも権威にて(権力を笠に着て)御百姓をたたききめ付けようもいたしたな。おのれ惣右衛門め、どこの牛の骨やら馬の骨やら知れぬせぬやつが、御百姓を存分にようもぬかしたな。最早百姓も命限りに候えば、是まで上げ置き候御用金、先納銀、銀札引替等、訳立済まさず候はば是非共惣右衛門め、もらい候と、口々申しに付き、大勢の人々大音にて余りに厳しく申し候えば、その時川原惣右衛門、色香をちがい(顔を青ざめ)罷りあり候。その時、庄田氏その場に御出でなさられ、、庄田氏のひざ元へにじり寄り、こわがり、さてさてその時惣右衛門が有様、申すばかりと無く候。その時庄田氏より惣百姓へ申し渡され候は、この度我等事御殿様当地へ御入部なさられ候に付き、この庄田召し出でられ、何事に寄らず二千石百姓共この庄田に預けおき候と御意有之候えば御殿同前に我等事存じ候か、然るべく候えばこの庄田が右川原、井上一件の事預り置き候ほどに、惣百姓共、差し控え候様と仰せ付け候えども、百姓方口々に申し候は、庄田様御意に候えども、何分惣右衛門は固く申し付け置き候金子供右申す通りの訳合いに御座候えば、是非今夜中に訳立致され候様に御取り計らいなし下され候えば有難く存じ奉り候。若し訳立相済まず候えば、明日丹州へ帰す事なり申さず候、若し帰り候えども是までの様に、御供廻りの、送り駕籠のと申す事、一切なり申さず候と、大音上にて口々大勢百姓より申し立て候所、庄田氏より色々と申され、ようよう預りになさられ候て、申し詰めなさられ候えば、惣百姓御陣屋より皆々引き帰り申し候。それより右川原惣右衛門、同夜半立ち帰り候様に身拵え致し候えども、一人も送り供に参るもの之無く候へば、主一人うろうろと致し候所、ようよう井上と藤井と世話取り持ちにて、孫八一人雇い出し候て、この時は惣右衛門より自分に質銭三百文、柏原まで送り相頼み候はずにて出立候所に、その時江戸川合吉右衛門申され候は、出立の儀今ひと時御待ちなさられ候が然るべくと、若し百姓方に恨みある人有之候て、如何様なる仇いたし候や、夜半頃に候えば先ず御控えなさられ候て、夜明けに出立なさられ候が然るべくと申され候に付き、夜明け方より裏道はかの尻さして出行き、それより土手屋、灰屋、稲屋等のぞき、忍び出しは、尻からげすごすごと惣右衛門一人と孫八と、こそこそ逃げ帰る有様は心地よかりし次第なりと、皆々申すなり。これより、此の事世上共色々のうわさ有之候事、前代未聞これ無く候事と申す事なり。
※注 堀内長玄覚書のクライマックスとも言うべき場面です。百姓方の不満が爆発しいわゆる尻をまくった状態です。普段は武士に対し、へり下っていますが、ここにきて相当汚い言葉を代官に浴びせています。
天理大学の谷山正道先生が「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」と題して論文を書かれています。天理大学図書館でコピーしてもらえます。

堀内長玄覚書(第三十四集)二百二十六番二百二十七番

今回から三話連続で一揆の話になります。長くなるので二集に分けて掲載いたします。非常に緊迫した場面が続きますが、現代語訳では迫力が有りませんので、原文の書き下し文で紹介します。原文は漢文調で書かれている部分が多くあり、また助詞、送り仮名、主語等の省略が多くそれらは可能な限り補ってまいります。文中に我等と言う表現が多く出てきますが大抵は複数ではなく私と言う単数です。なお候は「そうろう」とお読みください。
堀内長玄覚書第二百二十六番
明和五年(1768年)子の年、世上共百姓一揆出し候事霜月二十四日夜南都興福寺御下十三ケ村百姓申し合わせて、大安寺村に庄屋代官其の外右御役人へ御出入り之百姓四人と之有り候ところ、この家々共微塵に打ちつぶし大騒動に相成り候事、此の事当国一揆の初りなり。
※注 庄屋はたいていの場合、百姓方ですが、この場合は百姓に敵対した状態です

堀内長玄覚書第二百二十七番
同月二十九日夜、池尻神保様(旗本の神保氏。池尻や畝傍、土橋、北妙法寺、地黄、五井、寺田、大谷、慈明寺などをを領地とした大身の旗本。東京の神田神保町はこの神保氏に由来する)下十五ケ村困窮故一揆出し、同日深田池の堤に寄り集まり、かがり火たき、人数千人余り寄り候て願相談当年の御免定、さて又下地不納銀御領内御定免等の願い御聞き届けなさられ候えば、池尻御屋敷へ押し寄せて、こぼち候て、それより人々村々立ち退き候由の相談相極め候由にて、事すさまじく大騒動相見え候ところ、これより池尻御屋敷より鉄砲打ち放し有之候えども、右百姓散り申さず由にてそれより御代官伊ノ又(猪股か?)殿と申す役人罷り出られ、色々と申され候えども百姓聞き入れず、只今右願いの御聞き届け、御申し渡し下され候へば人々引き戻り候と申し候に付き、然らば右百姓願いの通り御聞き届け相違なく、この猪股が請け合い、刀にかけて江戸表に願いつめ、命限りに申し上げ、惣百姓相続の儀に候えば右願いの趣き固く請け合い候と御事にて、皆々得心致し、引き戻り候事然るべくと百姓申し候は、若しまた右願い御聞き届け御座なく候えば大庄屋衆三人と御代官衆と百姓方へもらい候て、右の通りの百姓なし勤め見たく候事と口々に申し皆々引き戻り候由なり。
それより田原本御下惣百姓申し合わせ御知行所大庄屋等へ詰めかけ是も右同然の一揆起こし、それより芝村(桜井市芝)御下右同然、これは吉野より数千人詰めかけ候由。
それより多武峰御下百済村広瀬村より、藤の森村大庄屋辰巳佐助殿に詰めかけ、家こぼちかけ候儀、この儀承り候所、これは佐助殿に惣百姓より、うらみは之無く候えども、藤の森村方同心致さず候につき多武峰へ相知れ候様に、寄せ掛け候由にて、大庄屋佐助一人の難儀致され候て、それより多武峰より百済村広瀬村、呼び付け御吟味有之候ところ、段々右村々申し訳なく、段々御詫び申され候えども御聞き入れ之無く候へば手錠(てぐさり)閉門等の過怠にて右村々役人明くる年四五月頃までにも難儀致され迷惑に及び罷り有候由 。
それより、郡山御下右極月十七八日頃に至り御知行所村々大庄屋へ詰めかけ、これも右池尻の御下の通りなり。百姓願筋の由、段々に人数集まり、所々方々の森の内、又は宮森等に寄り村々へ寄せ掛け心得ずの村にては大勢の人々養いくられ候様と申しかけ候て心得の人これ無く候えば大勢の人暴れ、食い致して難儀いたし、それより段々人数二三万人も集まり、鉦・太鼓・ほら等吹きたて候由にて、さてさて大騒動。郡山御門前まで詰めかけ候由にて、段々御役人罷り出で、御挨拶有之候由候ところ、人々口々に申して事済み申さず、それより右の頭取人数御吟味有之由にて相済み申さず由なり。
然るに当村にてその節、惣百姓段々寄合い、御陣屋へ詰めかけ候上にて、当村方に
二三人惣百姓へもらいたく願い申し上げたく由にて相談相極め候由、いかなる事に候や戸屋孫兵衛の家こぼちかけ、れんじ戸、障子、竃(へっすい)、なべ、かま等を打ち砕き、さてさて恐ろしき事にて、村中大勢より集まり候へば、夜分の事、顔も相知れず
その時、村役人方会所に詰め合わせ候て、村役人方より段々声掛けしずめ候て、ようようと引き去り帰り候事なり。然るに右の通り成る一揆おこし国々までも有之候由、色々にうわさ有之候事なり。
※注 文中の右とあるのは原書は縦書きで先に述べたの意で横書きなら上とすべきものです。
一揆の発生は、どこかで火が付けば連鎖反応的に各地に広がった様です。ついには曽我村にまで派生します。次回は曽我村の一揆の実情となります、

堀内長玄覚書(第三十三集)二百十九番

堀内長玄覚書第二百十九番
明和五年(1768年)子の七月中旬に、当村へ備後の国、安部伊予の守様の百姓の十四歳になる娘がお伊勢参りに行く途中に連れ人から離れ、その上病気なって弱々しい状態でやってきました。そこで、当村から送ってやろうと、色々と世話をいたしましたが、段々と弱ってきました。当村の医者の安戈が色々と療治いたしましたが、段々病気が重くなり、ついに病死いたしました。
そこで、大坂の安部伊予の守様の御蔵屋敷に届けを出しましたところ、当村にお役人が一人来られて、当地にて後処理をお願いしたいとの事でございます。
そこで、南都の御番所に届けを出し、当村の光岩院にて土葬いたしました。
その後、大坂蔵屋敷から役人一人が来られ、光岩院と庄屋助七郎と年寄新兵衛と同じく半兵衛に金子百匹づつ、御礼として差し出されました。
この様な事はこれまで無かった事なので、江戸のお殿様に報告すべきと思い、当方の役人の渡辺友右衛門様に申し上げたところ、この様な事の報告は無用との事でした。なお、村方の者が貰った金子は村算用に繰り入れました。
※注 氏素性の分かっている他国の者が行き倒れた場合、どの様に処置したのか、色々と良く分かる記録です。こう言ったことは歴史書や教科書にはなかなか載っていない貴重な記録です。