堀内長玄覚書(第一集)一番四番六番

堀内長玄覚書一番
慶長の頃、我が家は北曽我(現在の出屋敷)から別れました。
(中略)その頃までは、この所は大路堂村市場と言っていましたが、その後、段々と曽我村と言うようになりました。(後略)
※注  大路堂は今も小字として地名が残っています。
今は廃業されていますが井上酒店から大神宮さんの手前当たりの道の両側が
大路堂という小字です。

堀内長玄覚書四番
寛文五年(1665年)布木綿の丈や幅が広がりました。
この年に、布木綿の丈や幅に関して、お上から書付が回り、木綿一疋(一反)はくじら尺で丈が五丈四尺、幅が九寸五歩に広がったと聞いています。
※注  この当時、色々な寸法基準や重さの基準がまちまちで、それらの統合いわゆ
    度量衡の統一がなされたようです。

堀内長玄覚書六番
寛文ニ年寅の年(1662年)村は洪水に見舞われました。代官の庄田自應七兵衛様が
若年の折ですが、その日の早朝から村内の見回りに出られました。
その時、どこから来たのやら、盗賊が三人荷物をもって、当村本郷に住む久助と言う
貧家に入るの目撃されました。
そこで久助を吟味されましたが、久助、殊の外抗い腹立ちしましたので、久助の家を
家探ししたところ、つし(天井裏)に隠れているのを見つけられました。久助もとうとう
白状し、その日のうちに打首となりました。その際、久助は「おのれ庄田が家、七代の間に取りつぶしてやる。覚えていよ」と代官の庄田氏をにらみつけて切られました。また辻さんの先祖にも盗賊を打ち殺したことがあり、この時は今井や八木からも大勢の見物人が来たそうです。