堀内長玄覚書(第十四集)八十八番九十番

堀内長玄覚書第八十八番
宝暦三年(1753年)戌の七月三日に江戸のお殿様より当村の村役人一人と惣代一人と
大路堂屋弥助と大福村庄屋藤助とに対し、江戸に下向するようにとの思し召しがあり中略 この時、私は二度目の江戸道中でしたが、七月九日に大雨が降り箱根山に登るときは殊の外なる大雨で、暮れ方に跳ね馬が駆け来たり、私共をすす竹にはね込み
さてさて、恐ろしき事に出会いました。それより、箱根御本宿に泊まりました。
この宿は火災の類焼の後で、戸障子も閉まらない様な有様でしたが、この家は殊の外なる大家でした。
明くる朝、座敷から見渡せば、富士山を見越し、前には箱根の海を引入れ、見事な景色でした。
ところが、十日の八時分に小田原に到着しましたが、佐川が殊の外なる高水で、川越人足も引き上げ、是非なく十日から十四日まで、小田原に逗留しました。ようよう、十四日八ツ時分に佐川が明きました。台に二人づつ乗って、その台は六人の人足が担いで渡しましたが、波の荒い所は人が沈む事もあり、さてさて恐ろしき事でした。この渡し賃は銭千五百匁(約四万円)でした。
十四日に戸塚につき、十五日夕刻に江戸に着きました。以下略
※注 川止めを除けば江戸まで約八日で着いています。非常な健脚と言えます。

堀内長玄覚書第九十番
(八十八番での江戸出張の際検地帳を見せられています)
曽我領田地惣反数 九十一町二反四畝十九歩半
この御高千三百四十六石二斗一升七合
大福領田地惣反数 四十町三畝二十六歩
この御高五百八十八石九斗六升八合
以下略
※注 この数字から、当時の一反(約12アール)当たりの米の収穫量は一石五斗弱です。現在では一反(10アール)当たり悪くても三石五斗くらいは収穫できます。
当時は如何に収穫効率が悪かったわかります。
別の項にありますが、二石三斗収穫できた時は大豊作との記載があります。
これとて、現在の一反では二石弱です。
時代劇でよく秋の田圃のシーンが出ますが、あの様な黄金色の田圃では絶対ないと思います。草ぼうぼうの中で貧弱な稲がひょろひょろ、が実態ではないでしょうか。

堀内長玄覚書(第十三集)八十五番八十七番

堀内長玄覚書第八十五番
宝暦元年(1751年)当国、十市郡の百姓が芝村の御屋敷を相手取り、強く免願されました。田圃の刈取りをせず、又江戸に下向されましたが、仕損じて皆々、
闕所・流し者(島流し)になり、さてさて笑止千万の事でございます。
当国、これを仕損じと申しました。
※注 有名な芝村騒動です。天領であった内膳村・木原村・八釣村など八か村が
支配代行の芝村藩の圧政に対し箱訴(目安箱に訴状を入れる真っ当な告訴)を行いました。年貢の徴税は出来高法で行われていまして、平均的な田圃を基準にすべきところ
最も出来栄えの良い田圃を基準にしたため、証拠を残すため、庄屋の命により刈取りをしませんでした。これが一揆と見なされ、奈良奉行所において拷問を含む厳しい
取り調べがあり、獄中死した農民も多くいました。しかし百姓たちは誰が首謀者かは頑として口を割りませんでした。この事件は今も耳成小学校では、歴史の重要な出来事として教えられています。
ただ、曽我など、この辺りでは、やり方が拙かったと批判的に見ていた様です。

堀内長玄覚書第八十七番
宝暦二年(1752年)正月に江戸の山田屋伊右衛門の手代で利兵衛と言う者が来ました。
この利兵衛、江戸にてお殿様に二百両を貸し出しており両村(曽我・大福)百姓に借受証文判子を付くよう要求してきました。
百姓の方は預かり知らぬ事とて、判子を付くことは有りませんでした。
結果、利兵衛は長逗留をいたし、御陣屋に満田村の、おぎん、と言う売女を引入れ、
誠に不行儀なありさまで、この事は江戸の御屋敷にも知る所となり、お殿様も殊の外の腹立ちをされている旨、役人衆より申し来たりました。
然るに、この利兵衛、十年後に小倉わたると改名し、お殿様に奉公に出ておりましたが、後にまた利兵衛と成り返り、当村の西養寺(現在の東楽寺は元々西養寺で明治41年に東楽寺と合併)で勧進坊主(乞食坊主)になりました。
※注 なんとも不思議な人物が出てきました。陣屋で長逗留したり、のみならず娼婦を引入れるなど、常識外れな事をしていますし、また役人も黙認していたように思います。十年後にまた召し抱えられたり、何か殿様が弱みを握られていたのか、と勘繰ってしまいます。

堀内長玄覚書(第十二集)八十一番八十二番八十三番

堀内長玄覚書第八十一番
今般、お殿様が我々村役を呼び出されたのは、三百両余りのお金が緊急に必要になった事によります。
これは、近頃、お殿様の勝手向きの世話を上総の国の笠井玄番という方がしてくれいましたが(注 明確には書かれていませんが笠井玄番から三百三十両の借金があり、その返済が差し迫った様です)川元半平(多賀氏の家来と思われる)と同行し、庄屋の
助七郎、年寄新兵衛(長玄さん)、九兵衛が笠井玄番のところへ行き、先方と色々相談をするように、と仰せつけられました。
そこで、笠井へ行きましたが、この道筋に御公義の鷹野場が有り、鶴、がん、かも、などが夥しくおり、手取りでも出来そうな有様でした。途中、小さな川があり、そこの所は舟に乗って行きましたが、南西方向に富士山が見えました。
玄番の所で一夜の宿を借りました。この玄番はこの地方の郷士のようで大百姓と見えました。御用金の件につき川元氏から我々に話があり、明日、江戸に戻り曽我の村役と曽我村で三百三十両の決済をするべく相談する、となりました。
結局、村方でその借金を肩代わりし、当申の年から酉戌の三年の毎年、年貢時に村に返済との事になりました。
曽我に帰り、村の皆様方と相談をいたしましたところ、百姓衆が申されることに、上記のお金は江戸の御屋敷で急用とのことで、ならば各々分担し、至急に用意すべし、とのことになりました。
そこで、庄屋・年寄から多い目にお金を出し、比較的金持ちの家から少しづつ出し、もし年貢時に返済が無ければ、何年かかっても返済する旨の証文を村方に取り置きました。
しかるに、百三十両は年貢時に決済されましたが、残る二百両は今にいたるまで未決済で、毎年の村算用出しております。

堀内長玄覚書第八十二番
上記、江戸出張時、江戸の御屋敷にて、我々三人に、お殿様からお料理の接待を受け
そのうえ、御はかまを頂戴し、有難き幸せな事でございます。

堀内長玄覚書第八十三番
上記、江戸出張の際に、公方様の鷹狩りがあり、我々よそ者は江戸かわらけ町に大和屋武助表に生鳥屋があり、この庭から、ありありと公方様を拝しました。
昼四つ時分でしたが、お供に大名衆二頭(馬に乗っておられたか?)御はた本衆は数知れず、其の外のお役人衆の方々は御約束木綿物にて、御もも引きや、半わらじを召し、
夥しきことは筆にも尽くされません。
公方様は乗物に乗られ、その時は御はおりは、そらいろに白がたを御召しと見えました。御還御は七つ時分で、この生鳥屋の前で少し御乗物が止まり、生鳥を少しの間ご照覧あそばされました。この時、私共、ありありと拝し奉りました。
これより、お役人衆が今日の獲物の、ごいさぎ、ばん、かも等を色々青竹に飾り、
武人づつ夥しくおられ、その有様は筆にも尽くされません。
その時の私の思いは、かようなる大切な事は、盲亀の浮木と申すようなる稀有な事と有難く拝しました。
※注 長玄さん、出張先で時の将軍の鷹狩りに出会った時の感激を伝えてます。現在で言えば、たまたま旅行先で天皇陛下の巡幸に出会って、親しく陛下を見た、と言う感じです。ちうなみにこの時の将軍は第九代、徳川家重です。

堀内長玄覚書(第十一集)七十三番七十五番七十九番八十番

堀内長玄覚書第七十三番
延享元年(1744年)子の春、光専寺柱立棟上げに当たり、惣門徒衆が寄合い相談を致したところ、すぐに銀三千匁が無ければ棟上は出来ないとなり、皆々様は気の毒に思召されました。そこで、門徒衆の方々が申されるに、九兵衛殿(村の金融業者)より千五百匁、私が千匁、金六殿より五百匁を立て替えて下されば、そのお金をこの秋からニ三年の内に、惣門徒衆より取り集め、幾ばくかの利息を添えて返済いたします、との事で三千匁を都合し、無事、柱立棟上が出来、惣門徒衆は大いに喜ばれました。
その銀子ですが、秋になり門徒衆へ催促いたしましたが、この世話をする人もなく、その後、瓦屋根や内づくりに費用もかさみ、今になっても返済はございません。
私にしてみますと、この様な事がない限り、銀一千匁を出すといった事は無く、後々において一生の徳と考えれば、この一千匁は、差し上げた事と思い、むしろ有難い事と幸せに思いました。

堀内長玄覚書第七十五番
延享四年(1747年)卯の七月五日頃ほうけほし(ほうき星)が出現しました。
毎日暮れ方より西のほうに登り、一丈ばかり明るく輝き、この年は豊年にて皆々喜んだ事でございます。

堀内長玄覚書第七十九番
宝暦元年(1751年)申の正月二十八日、当村より百姓惣代に甚七、孫七、伝七、庄兵衛、弥兵衛が夜半に出立で江戸に下りました。
その訳は、村方の未進が重なり、困窮がひどくなり、致し方なく、未進分を何年かの年賦にしていただくよう、お願いするためです。
お殿様、後の多賀豊後守様の御代の事ですが、上記の旨を願書にし、お殿様に差し上げましたところ、お殿様より、当村庄屋年寄残らず三人にお尋ねが有り、庄屋助七郎と年寄中ノ九兵衛と年寄新兵衛(長玄さん)の三人が江戸に下り、先の願書の件につきお殿様に委細申し上げたところ、この件お聞き届き頂き、有難い事と大いに喜びました。

堀内長玄覚書第八十番
上記の未進に関して、五年賦にしていただき、地味の悪い田は一反につき、一石三斗の出来に引き下げられました(注 検地帳では一反当たり一石五斗強の出来の計算です)
この結果、引き下げられた石高は九十七石余りとなり、更に百石づつ永々お引き下されました。余り端米は毎年村算用に繰り入れ、惣百姓有難く存じたところです。

堀内長玄覚書(第十集)六十八番六十九番七十番

堀内長玄覚書第六十八番
元文三年(1738年)当村光専寺の本堂の傷みが余りにもひどく、柱を五本入れ替えその歪みを直そうと相談が決まりました。
この本堂は、内間が五間四方で、以前天和年号までは本堂の屋根は藁葺きと聞いています。その後、享保年号の内に瓦葺きになったと聞いています。
それより凡そ六十年が過ぎ、元文三年に惣門徒が村々で寄合い色々と相談したところ、とてもの事、本堂は新しく立て直しが然るべくと申し、相談が一決いたしました。
この時の光専寺留守居僧は当国田村法林寺出身の了勧と申し、この御坊は高田の専立寺の白知様の御弟子で、この御坊が大変苦労なされて色々と諸事を取り捌き門徒の人々からの寄進の奉加帳を回す事などを当村の門徒衆に申し合わせ、大阪にて欅柱を買い付け、其の外、各地にて材木を買い整え、大工は坊城村の四郎衛門を棟梁とし、秋本村の次郎右衛門を脇棟梁とし、其の外大工五六人づつ入り、元文四年に古い本堂をほどき、土持地づきを行いました。

堀内長玄覚書第六十九番
元文五年(1740年)三月中旬に光専寺の石つきが行われました。
十八日から二十四日迄の七日間に大御法事を行われました。
この時、子供に狂言をさせようと門徒衆が寄合い相談され、私がお世話をするように皆様が申されました。ちょうどこの時、大阪からゆう助と申す芝居役者が当村に度々来ていまして、この者を呼び入れ、この者と私が相談し、取組狂言を子供に教えました。
込山の前に舞台を拵え、娘子供はかせやのおもと、私の方はおつる、酒や与平次の娘おさん、辻おはん、北ノ伊兵衛の娘おきく、金六の娘小ふじ、この六人が思い思いに衣装を拵え、この狂言の次第は浄瑠璃から舞い、また太夫いで立ちで歌踊り、花笠舞い、またその頃のはやり歌「雲にかけ橋、霞に千鳥、およびないとて惚れまいものか、賤ケ伏せ屋の月、おみやなしてなアおみやなしてなアよいしてなア」其のほかうた事、さん下がり節、色々あって殊の外なる大出来で、群衆の人々の褒めない人は無いといった状況でした。
さてまた男子供は前後に十二人出、内七人は大阪出羽芝居子供通りにいで立ち、黒装束にて奴踊り、舞台にて約束替わり狐踊り、其の外色々、やすし踊り、これまた大当たりでした。
さてまた、浄瑠璃は信州中島合戦二段目、直江大和助時綱に油屋長四郎、高坂弾正に桶屋の加七、この狂言は込山の前に辻堂を拵え、込山より鉄砲を放ち、この二人の身拵え、浄瑠璃の文句、口上、大音のせりふ、芝居役者も及ばぬ出来でした。
其の外、国姓爺合戦、和藤内に長四郎、其の外うば山めぐり、勘兵衛の子供勘六、墨田川道行はこの勘六、これまた大出来、この時、この親ども、子供に浮かされ余念なく加勢しておりました。
この時の光専寺は、昔より聞いたことが無いような繁盛ぶりで、この街道筋に人々が押し合い、道端の草も踏み枯れてしまうような有様でした。
光専寺繁盛にて賽銭と瓦奉加等、毎日、銀十四五匁程づつ上がり、門徒衆は大喜びいたしました。日数七日、障りなく終わりました。
これより、その後、百済村・田原本などでも、子供狂言が始まり、村の神事でも子供狂言をいたすようになりました。

堀内長玄覚書第七十番
元文五年(1740年)閏七月十七日、当国は大洪水に見舞われました。
御所町は半分ほど流され、だいぶ死人も出たようで、目も当てられず、哀れなることは筆にも尽くされません。

堀内長玄覚書(第九集)六十番六十一番

堀内長玄覚書第六十番
享保十四年(1729年)酉の九月朔日、私の息子の喜平次こと小市良が座(曽我座)の当人でしたが、この年は綿方が豊年でした。その日、私は曽我座の皆様に以下の様な事を申しました。
曽我大神様は当六日が夜宮ですが、このところ毎年あまりにもさびしく、夜宮と言っても遠路ゆえか氏子の参詣もあまり無く、暮れ方までに御湯かぐらを仕舞い、提灯等も暮方に持ち帰る有様で、もし雨でも降ろうものならわけて参詣人も無く、甚だ気の毒に思っています。ところで、幸いな事に東楽寺(今の真菅小学校の場所)に昔より鎮守の森があり、ここへ杉葉にて御神輿をこしらえ、毎年九月六日の夜宮に御さか木を移し、このところで御湯かぐら等をあげ、そのほか絵馬、提灯等も上げたなら、たとえ雨天でも皆々様が参詣されると思いますが如何でしょうと、曽我座の皆様に相談したところ、なるほど、これは賑わしくなり御尤もな意見と思います。
ならば、どうするか神様に聞いてみては如何でしょうと座の皆様がおっしゃったので、さっそく神主の四良三郎殿が玉ぐしを上げられたところ、曽我大神様御機嫌になられた様で、神輿の方に玉ぐしが上がりました。
それより、相談を相極め明くる二日より我が家の東の空家に座中の皆様が集まり、杉葉がこいの神輿を作り、飾り等、色々付け、殊の外見事に出来上がりました。
其の外、氏子より御迎え提灯を人々にこしらえ、太鼓・鉦にてはやしかけ、やたいの担いもの神輿かきの人々は、段だら鉢巻に浴衣を揃えて、殊の外道筋の送り迎え賑わしく、これはきっと神様も御機嫌に入られるでしょうと、皆々様よろこび申しました。
これより、御旅所にては、新町座からも提灯、そのほか立山人形や狂言等をいたされ、御神輿の御前にて、御湯かぐらが上がりました。
これは元々曽我森にて上がるはずですが、この六日の夜宮より、鎮守の森で上がるようになり、大層な賑わいで、氏子や両座中の人々共、大いに喜ばれました。
それより、七日の神事の夜、御さか木を神輿に移し、お迎えの時と同様に神社にお送りし、七日の夜も大層な賑わいでした。
ところで、この年の閏九月(祭りの有った通常の九月の後、暦の関係でもう一回九月が繰り返されます)四日夜、殊の外なる大風雨で、曽我の森の宮の後ろに有る大木の大きな枝が裂け、宮の上に倒れ掛かりました。ところが不思議な事にその時、宮も台座ごと前に押しやられ、被害は全くありませんでした。
この宮を直すに当たり、又また閏九月六日に鎮守の森に移し、湯かぐら、提灯等を差し上げました。曽我大神様、よほどこの御旅所がお気に入りなさられた事と氏子の方々はおっしゃり、神慮にかなったことと、座中の皆々様も大喜びで、それ以来、毎年、この通りに取り行われるようになりました。  以下略
※注  昭和三十五年まで、秋祭りは両神社からえべっさんの広場(今の第一防災倉庫のある場所)に有った御旅所に神様が動座され、そこで行われていました。広場には多くの屋台が出、それはそれは大層な賑わいで、クライマックスは太鼓台の巡幸でした。この時の写真は「曽我町思い出の記録」のDVDに多く納められています。
享保十四年より232年に渡り執り行われてきた神事が今途絶えているのは誠に残念ではありますが、心に留めておいていただければ、と思います。
ところで、昔の人々は信仰心が篤く、また今の様に多くの楽しみが無い時代だったので祭りなどは非常に大切にされた、と何となく思いがちですが、何の事はありません。曽我のいわゆる本村から宗我都比古神社まで距離があるとの理由で、お参りを怠けていらっしゃいます。何だかちょっと笑えます。

堀内長玄覚書第六十一番
六十番で述べた通り、享保十四年に初めて神輿を作りましたが、この時の神輿は高さ五尺、幅二尺八寸で四方の高欄は赤く塗り、柱は青くし、其の外全て杉の青葉にし、荷い棒は二間半で、享保十八年までの四年間毎年、上記の様に作りました。
しかし、毎年お世話される方々の負担も大きく、気の毒な事でした。

そこで、享保十九年丑の年、図の様な神輿を新調いたしました。
これより毎年、九月朔日に、この神輿にて座の仮屋に御さか木を移し、九月六日の夜宮に神主四郎三郎(しらざぶろう、漢字は四良と書く場合もあり、適当と言うかいい加減なところがあります)殿、守り奉じ御旅所に移し、七日の夜、神社に帰られるようになりました。   以下略

堀内長玄覚書(第八集)五十番五十五番五十六番

堀内長玄覚書第五十番
享保八年(1723年)極月二十日に、郡山から奈良にかけて、書出しを配りに回っておりましたが、大安寺村西の大川が、この年の八月の洪水で堤が切れ、大きな淵になっていました。そこに年の頃五十くらいの男が、この高堤を通るとき深みに、真っ逆さまにはまり込みました。私は半丁ばかり手前で見ておりましたが、辺りには誰もおらず、男が這い上がるかと思っていましたが、頭が泥の中に入り込み、泡を吹き出し、足ばかりが見苦しく出ておりました。このままでは水死すると見えたので、私も淵まで行き、その人の足を引き寄せ、堤の草を左手に巻き付け、右の手でようよう引き上げ、堤の上まで引き上げました。その頃、段々と人々も集まってきて、気付け薬等、色々用意して下さったので、男は泥水を吹き出し、少し心ついたように見えました。そこで私は大声でどやいたところ、郡山の岡町の者と言う声がかすかに聞こえました。
そうしたところ、郡山から奈良へ駕籠に乗って行く人に出くわし、訳を話して、駕籠を譲ってもらい、男を乗せ、郡山へ行かせました。
その後、奈良で用事を済ませ、翌日帰ってご両親にその事を話したところ、殊の外なる事として、ご両親も大層喜ばれました。

堀内長玄覚書第五十五番
享保丑の年(享保6年、1721年)諸国とも、田作りに、さいわい虫と言う大むしが入り殊の外なる大不作となりました。
この年は土用までは田作りも出来ていましたが、段々出来が思わしくなくなり、
(以下意味が不明の部分があるのでほぼ原文借用)いな草五いと類、其の外坊主いねの類むし入り多く、一反に付き二三斗から四五斗取迄、けいね類(くず米のことか)は二石余りもあり(※途中注 当時一反(当時は約12アール)当たり平均で一石三斗から一石五斗くらいの出来、二石二斗も出来れば大豊作。従って平年の二割程度の出来)
西国筋は殊の外大虫が入り、それが段々とこちらに押し寄せてきました。
その結果、米相場が高値になり、九月から十月頃は上銀で一石あたり四十四五匁から五十一匁ぐらいだったものが霜月極月の頃は、九州が大虫の被害が大きいという事で大上がりになり、銀百匁を上回りました。
翌年の正月には諸色俵物が大上がりに上がり、世上、餓死する人が多く、非人等は所々で飢え死にし、町方の貧家の職人等は青ばれになり、道行にも、ひょろひょろとして、倒れていきました。見る目も不憫なことです。
その頃、多くの諸人の、はんまへ(飯米か)に正中栖お餅にいたし(意味不明のためほぼ原文通り)その様な人は中の上、それより下の人は、にでの皮をむき粉にして食べ、池の菱は取り尽くし、藤の若葉をむしって食い、そのほか色々な草木を食にいたし、命をつなぐ様な状態で、恐ろしい事でした。
更に、この前後の年は不作が続き、百姓方も綿に虫が入り、植田は不作が続き困窮しておりましたが、かたじけなくも、小百姓に至るまでも、飢え死にする人は一人も出ませんでした。
それは、かねてより、菜大根・干し菜等を用意し、命をつないだものです。
京・大阪・堺・奈良・郡山・上市・下市・今井・八木・御所・新庄・高田等の場所では身上のよろしき人は施行を出し、白がゆ、茶粥、または切手を出し、白米一人に一合づつ出すも有り、色々に施しをいたされ、ようよう、その年をしのぎ切りました。
※注  世に言う享保の大飢饉の有様です。庶民では、農業をやっていない職人などが真っ先にやられた様です。大虫の被害とありますが、これはウンカの被害のようです。令和2年にこの辺りでもウンカの大被害があり、全滅し全く刈り取りされなかった田圃もありました。現在でもそうなのですから、まして江戸時代の被害たるや如何ほどであったか、容易に想像できます。
それにつけても、色々な工夫と相互扶助によって乗り越えられてきた当時の人々には改めて頭が下がります。

堀内長玄覚書第五十六番
享保寅の年(享保7年1722年)秋作殊の外豊作で、諸色も段々下がり、米麦等も下値になり、その暮れは世上おだやかになってきました。町方は喜んでいましたが、百姓は綿作に虫が入り、ようよう二三十斤から六十斤の出来で、末百姓は困窮しておりました。

堀内長玄覚書(第七集)四十番四十二番

堀内長玄覚書第四十番
享保四年(1719年長玄さん数え20歳)亥の二月に私、喜太郎は高田の万戈村の七兵衛殿へ、養子に行きました。私は今まで木綿の商いはしてまいりましたが、七兵衛殿の家は百姓一筋の家で、にわかに毎日、野作働きで、水こえを持ち草刈りなどを言いつけられ、慣れぬ仕事で甚だ耐え難いことでしたが、七兵衛殿の家は身代がよろしき家で私の実家はその当時、万事不自由で身上も立ち難く、兄弟子供も多く、庄屋に未進も有り、肥代そのほか色々と借金もあり、実家の相続もたえだえの有様で、ご両親の艱難されていること、万戈村にいても、昼夜心にかかっていました。妻の、おかつとは内々に縁もあるわけですが、その時おかつは「お前様は今まで商いをされてきましたが、こちらに来てからは慣れない百姓の荒働きばかりで、大変に気の毒に思っています。また曽我村の実家はお前様の兄弟も多く、ご両親も大変に苦労されていると聞いています、私とお前様は懇ろな中で大変に残念に思いますが、お前様は曽我に帰り、これまでやってこられた商いに精出しし、曽我村の家を相続なされれば、ご両親様もさぞご安心されるでしょう、と思います。如何でしょう」と言ってくれました。
その時、私はなるほど、曽我の家を人手に売り渡すような事が有れば、私は万戈村で繁盛して暮らしていても、これは本意では無い、ここは曽我村に帰り、如何ようなる艱難苦労をしても、曽我村の堀内の家を相続するのが然るべく、と思い、享保五年四月中旬に曽我に帰ることと致しました。
その時、七兵衛様、持参金の銀一千匁(150~200万円位)をそのまま、持たせてくれました。その銀でなんとか借金と未進を払いましたが、手元には一銭も残らずの有様でした。そこで、煙草を買い内々で売ったり、また古手などを売り買いし、色々工夫し木綿の商いも段々と軌道に乗り始めるようになりました。
この事、毎年の算用帳に書き記した通りです。
※注  庄屋に未進とは、当時の年貢は庄屋がまとめて領主に払い、個々の百姓は庄屋に対し、相当額の年貢を納めていました。それの滞りを言います。
ところでこの話は大変、人情味のある話で、仲の良い妻のおかつさんは長玄さんの事を思い、別れを決意します。また義父の七兵衛さんも持参金をそのまま渡すなど、心温まる話です。
ここから長玄さん艱難辛苦の末、村一番の金持ちになります。

堀内長玄覚書第四十二番
享保五年、喜太郎(長玄さんの幼名)改め新兵衛と改名しました。(堀内家は代々当主は新兵衛を名乗っています。)
この時から私は木綿商いに精出しいたしましたが、元手銀が一切ありませんでした。
しかし、従来からの馴染みのある人々もおられ、銀子を持参せずとも仕入れをしていただきました。その頃は南都の木綿市は月に六日、五日・十日・十五日・二十日・二十五日・月末となっていましたが、一日たりとも行かなかったことは有りません。
荷物持ち人に一荷二荷と持たせ、私も十七八匹背負い、頭にも乗せ、郡山で三四軒の屋敷商いをし、翌日南都(奈良)の市で商いをし、その翌日には売掛金の回収など毎市のたびに忙しく相務めました。
それにつけ、極月五日の市日に大雪降り積もり、あつさ八九寸も積り、荷持に三平と言う者に一荷持たせ、私も十五六疋ほど背負い、八木街道へさして行くところ、新ノ口村の藪の竹が道筋へ倒れ込み、通れない状態で、仕方なく堤の下へ降り田の中を、さぐりさぐり漸く道筋へ出るようなことでした。また雨風が如何様に降ろうとも、定めの市日に参らず、という事は一切ございませんでした。

堀内長玄覚書(番外)

堀内長玄覚書(番外)多賀氏の履歴について
天理大学谷山正道教授の「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」より抜粋

本論での一主役である領主の多賀氏は、堀内長玄の居村であった高市郡曽我村をはじめ、大和国内で2000石の地を領有する旗本であった。その祖常則(つねのり)は、近江の国の出で「浅井備前守長政につかへ、のち豊臣太閤にしたがひ、大和大納言秀長に属し、大和高市郡のうちにをいて二千石を知行す」というのが「寛政重修諸家譜」に記された略歴である。二代常直(つねなお)の代から徳川氏に仕えて本領を安堵され。
以後家督は、常長ー常良ー常之ー常房ー高但(たかただ)ー高當(たかまさ)へと継承されていった。本論と直接関りがあるのは七代高但で、「寛政重修諸家譜」には   「享保二十年十二月十一日はじめて有徳院殿(注八代将軍徳川吉宗)にまみえたてまつる。時に六歳寛保三年閏四月二日遺跡を継。十八日御小納戸となり、十二月二十一日布衣を着することゆるさるる。(注 布衣とは無紋の狩衣で、式日に着用を許された。布衣着用が旗本の立身の証とされた)延享二年九月朔日西城のつとめとなり、四年八月四日西城の御小姓に転じ、十二月十九日務を辞し、寄合に列す、安永二年四月八日に致仕し、五年九月八日死す。年五十七。法名義慶。妻は横山左門忠知が女」と、その略歴が記されている。

堀内長玄覚書(第六集)三十七番三十八番三十九番

堀内長玄覚書第三十七番
享保二年(1717年長玄さん数え18歳)当国の二上山で金掘り(金鉱や銀鉱など試掘)が有りました。所は岩屋通りより少し北の方で、山の中腹から直径五尺ばかりの穴を掘っています。私は友達(原文、供立)と三人連れで見物に行きました。
この金堀りの人足は以下原文「じばんにおいずるかけ、ふじのくくツをせおい」(要は背負子の様な物を背負い、と言う意味か)穴の奥にある岩の木っ端を運び佐治ていました。人を案内に頼み、四人連れで穴の奥に入りました。
一丁(約110m)ばかり行くと栄螺殻に油を入れともし火にしてあるところが有り、少し明るくなっています。そこから段々と下の方へ石段掘りにしてある所を下り半丁ばかり行くとともし火があり、少し明るくなっています。
年の頃、三十歳ばかりの男、おいずるかけて、鉢巻をし、八百屋お七の歌を歌いながら、あわれなる声をあげ、岩をカチカチ掘っていましたが、恐ろしとも、あわれとも、心細くなり、怖くなり、引き返しました。所々のともし火の無い所は真の闇で
両の手で穴の両脇を探り探り、出てきました。岩の少ない所は丸木で、わくさしし、
大山の底ゆえ、穴に居ると言うより、地獄の底に居るような心地で、一足づつ表に
近づく事うれしく、皆々表に出たときは地獄からこの世に戻ったように思い、
こわさ、うれしさ、限りなく感じました。
ところで、この金堀りですが、結局大したことなく、次第に人足の足も遠のき、
麓に大きな仮屋もありましたが段々と悪所になり、また穴も狐・狼・狸などの
ねぐらになって来たので、一二年のうちに、付近の村人によって、潰されました。

堀内長玄覚書第三十八番
享保二年(1717年)この年、大日照りで、五月に手遣りたおし(田植えの事か)しましたが、ミほ筋打上ケ粟大豆等植えました。(原文を踏まえました。要は田植えをしたが大日照りのため急遽、畑に転作したという事か)
綿作大むしが入り、横木・あまみ田(小学校の東、メロディタウンのところ)筋、
植田かり捨て、すき込みしました。大不作でした。
※注  この後も度々、日照りの話は出てきますが、都度、畑作に転換したり、色々と工夫をされています。稲作で残す田、畑にする田、などの取り決めには、よほどしっかりしたリーダーが居るか、人々の協調性があったか、と思います。そうやって度々の危機を乗り越えてこられました。

堀内長玄覚書第三十九番
享保三年(1718年)戌の三月に南都元興寺の塔の屋根に登りました(1859年に焼失するまで元興寺には大きな五重塔が有りました)この日諸人が参詣しました。
私も塔の屋根に登り、空なる環へ出て、金輪を段々に登り上にある、玉を抱かえました。さてさて、これも恐ろしい事で、高い空の事、風が強く、下を見れば恐ろしく
心もとない心地でした。
その時、思いましたのは、ご両親のいる私の一生の過ちで、今回を限りに二度とこのような事はしないと、誓いました。
さてさて、無事であった事のうれしさ、忘れ申さず、と思った事でした。
※注  元興寺には1859年に焼失するまで大きな五重塔が有りました。記録からすると高さは72.7m(日本最大の東寺の塔は54.8m、興福寺の塔は50.1m)と言う巨大な塔でした。ただし、一説では48mともあります。
その一番上の屋根から相輪の金輪を登り、先端の玉に触った経験を記されています。