堀内長玄覚書(第四集)二十ニ番二十四番二十五番二十六番

堀内長玄覚書第二十ニ番
宝永四年(1707年)十月四日八ツ時分より七ツ前まで(午後二時ごろから三時過ぎ)
この大地、大地震ゆり、大地は大波打つごとくの状態で、さてさて恐ろしい有様です。あちらこちらの家々は夥しく倒れ、大地より泥吹き出し、その時は人々は
生きた心地せず、ただただ、念仏を唱えるばかりでした。
この後、人々は家を出て、外に仮屋を建て、十日ばかりの間、その仮屋で過ごしました。私共も、はとや市兵衛と申す人の裏の畑を借り、そこに仮屋を建て、母様と兄弟
子供と下女が暮らし、家の方は父様が下男と留守居し、昼夜、村方の火廻り等、色々
お世話されました。恐ろしき事、筆にも尽くされません。
この時、高田御坊(専立寺)が倒壊しました。
※注 宝永の大地震で、有史以来、トップクラスの大地震です。
奈良地方気象台で頂いた資料に拠りますと、この辺りの震度は6~7との
ことです。

堀内長玄覚書第二十四番

宝永五年子の年、図の様な大銭が出ました。
この一枚で、一文銭十枚となります。
この大銭は一年余り通用しましたが、段々評判が悪くなり、廃っていきました。
その時、この銭を所持していた人々は損になり、鋳つぶして売りにかけられました。
その後、宝永八年(実際は宝永三年)から二ツ宝銀が多く出回りました。(これは丁銀という貨幣の一種で重さが一定せず、両替商で重さを計り、銅銭に
交換して使用します)これは中の上でした。その後、三ツ宝銀が出てきました。
これは中の中で、通用は二ツ銀と同様ですが、諸色が段々と高騰し、世情も騒然となってまいりました。(質の悪い貨幣が出たことでインフレが起こっています)
その後、四ツ宝銀が出てきましたが、これは下で、上は白く中は赤がねと見受けられます。(銅の含有量が非常に多く、表面付近だけを銀を使った感じ)です。
板一枚につき(丁銀の事を板と呼んでいました)四十匁から五六十匁、七八十匁くらい
大板小玉銀は三四匁から七八から十匁くらい(小玉銀とは俗に豆板銀とも言い、丁銀よりだいぶ小さく、これも両替商で銅銭に両替して使っていました)で世上銀がたくさん出回り、にぎわしく、諸色は段々と高直(こうじき)になり、段々と相場が大高下してきました。米一石が大体、銀百三十もんめくらいです。
※注 江戸時代は貨幣の改鋳(改悪)が度々行われ、その結果、たびたびインフレが
発生しました。色々な質の色々な貨幣が出、当時の人々がそれに振り回された様子が伺えます。

堀内長玄覚書第二十五番
宝永五年(1708年)当村の地蔵前(夏祭会場のサッカー場辺り)の稲の田中で狼を捕まえました。平九郎が鍬で打ち、庄九郎がやまおうこ(荷物を担ぐ天秤棒)でたたき、捕まえました。この二人、大手柄にて陣屋から褒美をいただきました。

堀内長玄覚書第二十六番
正徳元年(1711年)当地の地頭様は多賀御家で石高二千石、この時は
多賀佐右衛門の御代でお子様は兄君が後の豊後守、弟君が源十郎様、この方も後に
豊後守と称されます。
当村の御代官は森田源大夫様、同じく庄田七兵衛様(後に自應様と言う)
この時の村役人は
庄屋  北林 彦七
年寄  井上 源兵衛
同   堀内 喜兵衛門
同   吉田 助七郎
同   北林 又市郎
同   藤井 庄兵衛
同   奥の 茂平次
同   吉田 吉兵衛
同   堀内 助三郎
この頃は江戸の御屋敷は言うに及ばず、下々百姓共、安気に相踊り
百姓方に御上ミ金銀筋之義は一向に存ぜず、相踊り候・・・以下略
※注  最後の二行はほぼ原文通りですが、要はこの頃は世情も安定し、呑気に
暮らせていた様です。