堀内長玄覚書(第七集)四十番四十二番

堀内長玄覚書第四十番
享保四年(1719年長玄さん数え20歳)亥の二月に私、喜太郎は高田の万戈村の七兵衛殿へ、養子に行きました。私は今まで木綿の商いはしてまいりましたが、七兵衛殿の家は百姓一筋の家で、にわかに毎日、野作働きで、水こえを持ち草刈りなどを言いつけられ、慣れぬ仕事で甚だ耐え難いことでしたが、七兵衛殿の家は身代がよろしき家で私の実家はその当時、万事不自由で身上も立ち難く、兄弟子供も多く、庄屋に未進も有り、肥代そのほか色々と借金もあり、実家の相続もたえだえの有様で、ご両親の艱難されていること、万戈村にいても、昼夜心にかかっていました。妻の、おかつとは内々に縁もあるわけですが、その時おかつは「お前様は今まで商いをされてきましたが、こちらに来てからは慣れない百姓の荒働きばかりで、大変に気の毒に思っています。また曽我村の実家はお前様の兄弟も多く、ご両親も大変に苦労されていると聞いています、私とお前様は懇ろな中で大変に残念に思いますが、お前様は曽我に帰り、これまでやってこられた商いに精出しし、曽我村の家を相続なされれば、ご両親様もさぞご安心されるでしょう、と思います。如何でしょう」と言ってくれました。
その時、私はなるほど、曽我の家を人手に売り渡すような事が有れば、私は万戈村で繁盛して暮らしていても、これは本意では無い、ここは曽我村に帰り、如何ようなる艱難苦労をしても、曽我村の堀内の家を相続するのが然るべく、と思い、享保五年四月中旬に曽我に帰ることと致しました。
その時、七兵衛様、持参金の銀一千匁(150~200万円位)をそのまま、持たせてくれました。その銀でなんとか借金と未進を払いましたが、手元には一銭も残らずの有様でした。そこで、煙草を買い内々で売ったり、また古手などを売り買いし、色々工夫し木綿の商いも段々と軌道に乗り始めるようになりました。
この事、毎年の算用帳に書き記した通りです。
※注  庄屋に未進とは、当時の年貢は庄屋がまとめて領主に払い、個々の百姓は庄屋に対し、相当額の年貢を納めていました。それの滞りを言います。
ところでこの話は大変、人情味のある話で、仲の良い妻のおかつさんは長玄さんの事を思い、別れを決意します。また義父の七兵衛さんも持参金をそのまま渡すなど、心温まる話です。
ここから長玄さん艱難辛苦の末、村一番の金持ちになります。

堀内長玄覚書第四十二番
享保五年、喜太郎(長玄さんの幼名)改め新兵衛と改名しました。(堀内家は代々当主は新兵衛を名乗っています。)
この時から私は木綿商いに精出しいたしましたが、元手銀が一切ありませんでした。
しかし、従来からの馴染みのある人々もおられ、銀子を持参せずとも仕入れをしていただきました。その頃は南都の木綿市は月に六日、五日・十日・十五日・二十日・二十五日・月末となっていましたが、一日たりとも行かなかったことは有りません。
荷物持ち人に一荷二荷と持たせ、私も十七八匹背負い、頭にも乗せ、郡山で三四軒の屋敷商いをし、翌日南都(奈良)の市で商いをし、その翌日には売掛金の回収など毎市のたびに忙しく相務めました。
それにつけ、極月五日の市日に大雪降り積もり、あつさ八九寸も積り、荷持に三平と言う者に一荷持たせ、私も十五六疋ほど背負い、八木街道へさして行くところ、新ノ口村の藪の竹が道筋へ倒れ込み、通れない状態で、仕方なく堤の下へ降り田の中を、さぐりさぐり漸く道筋へ出るようなことでした。また雨風が如何様に降ろうとも、定めの市日に参らず、という事は一切ございませんでした。