堀内長玄覚書(第八集)五十番五十五番五十六番

堀内長玄覚書第五十番
享保八年(1723年)極月二十日に、郡山から奈良にかけて、書出しを配りに回っておりましたが、大安寺村西の大川が、この年の八月の洪水で堤が切れ、大きな淵になっていました。そこに年の頃五十くらいの男が、この高堤を通るとき深みに、真っ逆さまにはまり込みました。私は半丁ばかり手前で見ておりましたが、辺りには誰もおらず、男が這い上がるかと思っていましたが、頭が泥の中に入り込み、泡を吹き出し、足ばかりが見苦しく出ておりました。このままでは水死すると見えたので、私も淵まで行き、その人の足を引き寄せ、堤の草を左手に巻き付け、右の手でようよう引き上げ、堤の上まで引き上げました。その頃、段々と人々も集まってきて、気付け薬等、色々用意して下さったので、男は泥水を吹き出し、少し心ついたように見えました。そこで私は大声でどやいたところ、郡山の岡町の者と言う声がかすかに聞こえました。
そうしたところ、郡山から奈良へ駕籠に乗って行く人に出くわし、訳を話して、駕籠を譲ってもらい、男を乗せ、郡山へ行かせました。
その後、奈良で用事を済ませ、翌日帰ってご両親にその事を話したところ、殊の外なる事として、ご両親も大層喜ばれました。

堀内長玄覚書第五十五番
享保丑の年(享保6年、1721年)諸国とも、田作りに、さいわい虫と言う大むしが入り殊の外なる大不作となりました。
この年は土用までは田作りも出来ていましたが、段々出来が思わしくなくなり、
(以下意味が不明の部分があるのでほぼ原文借用)いな草五いと類、其の外坊主いねの類むし入り多く、一反に付き二三斗から四五斗取迄、けいね類(くず米のことか)は二石余りもあり(※途中注 当時一反(当時は約12アール)当たり平均で一石三斗から一石五斗くらいの出来、二石二斗も出来れば大豊作。従って平年の二割程度の出来)
西国筋は殊の外大虫が入り、それが段々とこちらに押し寄せてきました。
その結果、米相場が高値になり、九月から十月頃は上銀で一石あたり四十四五匁から五十一匁ぐらいだったものが霜月極月の頃は、九州が大虫の被害が大きいという事で大上がりになり、銀百匁を上回りました。
翌年の正月には諸色俵物が大上がりに上がり、世上、餓死する人が多く、非人等は所々で飢え死にし、町方の貧家の職人等は青ばれになり、道行にも、ひょろひょろとして、倒れていきました。見る目も不憫なことです。
その頃、多くの諸人の、はんまへ(飯米か)に正中栖お餅にいたし(意味不明のためほぼ原文通り)その様な人は中の上、それより下の人は、にでの皮をむき粉にして食べ、池の菱は取り尽くし、藤の若葉をむしって食い、そのほか色々な草木を食にいたし、命をつなぐ様な状態で、恐ろしい事でした。
更に、この前後の年は不作が続き、百姓方も綿に虫が入り、植田は不作が続き困窮しておりましたが、かたじけなくも、小百姓に至るまでも、飢え死にする人は一人も出ませんでした。
それは、かねてより、菜大根・干し菜等を用意し、命をつないだものです。
京・大阪・堺・奈良・郡山・上市・下市・今井・八木・御所・新庄・高田等の場所では身上のよろしき人は施行を出し、白がゆ、茶粥、または切手を出し、白米一人に一合づつ出すも有り、色々に施しをいたされ、ようよう、その年をしのぎ切りました。
※注  世に言う享保の大飢饉の有様です。庶民では、農業をやっていない職人などが真っ先にやられた様です。大虫の被害とありますが、これはウンカの被害のようです。令和2年にこの辺りでもウンカの大被害があり、全滅し全く刈り取りされなかった田圃もありました。現在でもそうなのですから、まして江戸時代の被害たるや如何ほどであったか、容易に想像できます。
それにつけても、色々な工夫と相互扶助によって乗り越えられてきた当時の人々には改めて頭が下がります。

堀内長玄覚書第五十六番
享保寅の年(享保7年1722年)秋作殊の外豊作で、諸色も段々下がり、米麦等も下値になり、その暮れは世上おだやかになってきました。町方は喜んでいましたが、百姓は綿作に虫が入り、ようよう二三十斤から六十斤の出来で、末百姓は困窮しておりました。