堀内長玄覚書(第十一集)七十三番七十五番七十九番八十番

堀内長玄覚書第七十三番
延享元年(1744年)子の春、光専寺柱立棟上げに当たり、惣門徒衆が寄合い相談を致したところ、すぐに銀三千匁が無ければ棟上は出来ないとなり、皆々様は気の毒に思召されました。そこで、門徒衆の方々が申されるに、九兵衛殿(村の金融業者)より千五百匁、私が千匁、金六殿より五百匁を立て替えて下されば、そのお金をこの秋からニ三年の内に、惣門徒衆より取り集め、幾ばくかの利息を添えて返済いたします、との事で三千匁を都合し、無事、柱立棟上が出来、惣門徒衆は大いに喜ばれました。
その銀子ですが、秋になり門徒衆へ催促いたしましたが、この世話をする人もなく、その後、瓦屋根や内づくりに費用もかさみ、今になっても返済はございません。
私にしてみますと、この様な事がない限り、銀一千匁を出すといった事は無く、後々において一生の徳と考えれば、この一千匁は、差し上げた事と思い、むしろ有難い事と幸せに思いました。

堀内長玄覚書第七十五番
延享四年(1747年)卯の七月五日頃ほうけほし(ほうき星)が出現しました。
毎日暮れ方より西のほうに登り、一丈ばかり明るく輝き、この年は豊年にて皆々喜んだ事でございます。

堀内長玄覚書第七十九番
宝暦元年(1751年)申の正月二十八日、当村より百姓惣代に甚七、孫七、伝七、庄兵衛、弥兵衛が夜半に出立で江戸に下りました。
その訳は、村方の未進が重なり、困窮がひどくなり、致し方なく、未進分を何年かの年賦にしていただくよう、お願いするためです。
お殿様、後の多賀豊後守様の御代の事ですが、上記の旨を願書にし、お殿様に差し上げましたところ、お殿様より、当村庄屋年寄残らず三人にお尋ねが有り、庄屋助七郎と年寄中ノ九兵衛と年寄新兵衛(長玄さん)の三人が江戸に下り、先の願書の件につきお殿様に委細申し上げたところ、この件お聞き届き頂き、有難い事と大いに喜びました。

堀内長玄覚書第八十番
上記の未進に関して、五年賦にしていただき、地味の悪い田は一反につき、一石三斗の出来に引き下げられました(注 検地帳では一反当たり一石五斗強の出来の計算です)
この結果、引き下げられた石高は九十七石余りとなり、更に百石づつ永々お引き下されました。余り端米は毎年村算用に繰り入れ、惣百姓有難く存じたところです。