堀内長玄覚書(第十三集)八十五番八十七番

堀内長玄覚書第八十五番
宝暦元年(1751年)当国、十市郡の百姓が芝村の御屋敷を相手取り、強く免願されました。田圃の刈取りをせず、又江戸に下向されましたが、仕損じて皆々、
闕所・流し者(島流し)になり、さてさて笑止千万の事でございます。
当国、これを仕損じと申しました。
※注 有名な芝村騒動です。天領であった内膳村・木原村・八釣村など八か村が
支配代行の芝村藩の圧政に対し箱訴(目安箱に訴状を入れる真っ当な告訴)を行いました。年貢の徴税は出来高法で行われていまして、平均的な田圃を基準にすべきところ
最も出来栄えの良い田圃を基準にしたため、証拠を残すため、庄屋の命により刈取りをしませんでした。これが一揆と見なされ、奈良奉行所において拷問を含む厳しい
取り調べがあり、獄中死した農民も多くいました。しかし百姓たちは誰が首謀者かは頑として口を割りませんでした。この事件は今も耳成小学校では、歴史の重要な出来事として教えられています。
ただ、曽我など、この辺りでは、やり方が拙かったと批判的に見ていた様です。

堀内長玄覚書第八十七番
宝暦二年(1752年)正月に江戸の山田屋伊右衛門の手代で利兵衛と言う者が来ました。
この利兵衛、江戸にてお殿様に二百両を貸し出しており両村(曽我・大福)百姓に借受証文判子を付くよう要求してきました。
百姓の方は預かり知らぬ事とて、判子を付くことは有りませんでした。
結果、利兵衛は長逗留をいたし、御陣屋に満田村の、おぎん、と言う売女を引入れ、
誠に不行儀なありさまで、この事は江戸の御屋敷にも知る所となり、お殿様も殊の外の腹立ちをされている旨、役人衆より申し来たりました。
然るに、この利兵衛、十年後に小倉わたると改名し、お殿様に奉公に出ておりましたが、後にまた利兵衛と成り返り、当村の西養寺(現在の東楽寺は元々西養寺で明治41年に東楽寺と合併)で勧進坊主(乞食坊主)になりました。
※注 なんとも不思議な人物が出てきました。陣屋で長逗留したり、のみならず娼婦を引入れるなど、常識外れな事をしていますし、また役人も黙認していたように思います。十年後にまた召し抱えられたり、何か殿様が弱みを握られていたのか、と勘繰ってしまいます。