堀内長玄覚書(第十四集)八十八番九十番

堀内長玄覚書第八十八番
宝暦三年(1753年)戌の七月三日に江戸のお殿様より当村の村役人一人と惣代一人と
大路堂屋弥助と大福村庄屋藤助とに対し、江戸に下向するようにとの思し召しがあり中略 この時、私は二度目の江戸道中でしたが、七月九日に大雨が降り箱根山に登るときは殊の外なる大雨で、暮れ方に跳ね馬が駆け来たり、私共をすす竹にはね込み
さてさて、恐ろしき事に出会いました。それより、箱根御本宿に泊まりました。
この宿は火災の類焼の後で、戸障子も閉まらない様な有様でしたが、この家は殊の外なる大家でした。
明くる朝、座敷から見渡せば、富士山を見越し、前には箱根の海を引入れ、見事な景色でした。
ところが、十日の八時分に小田原に到着しましたが、佐川が殊の外なる高水で、川越人足も引き上げ、是非なく十日から十四日まで、小田原に逗留しました。ようよう、十四日八ツ時分に佐川が明きました。台に二人づつ乗って、その台は六人の人足が担いで渡しましたが、波の荒い所は人が沈む事もあり、さてさて恐ろしき事でした。この渡し賃は銭千五百匁(約四万円)でした。
十四日に戸塚につき、十五日夕刻に江戸に着きました。以下略
※注 川止めを除けば江戸まで約八日で着いています。非常な健脚と言えます。

堀内長玄覚書第九十番
(八十八番での江戸出張の際検地帳を見せられています)
曽我領田地惣反数 九十一町二反四畝十九歩半
この御高千三百四十六石二斗一升七合
大福領田地惣反数 四十町三畝二十六歩
この御高五百八十八石九斗六升八合
以下略
※注 この数字から、当時の一反(約12アール)当たりの米の収穫量は一石五斗弱です。現在では一反(10アール)当たり悪くても三石五斗くらいは収穫できます。
当時は如何に収穫効率が悪かったわかります。
別の項にありますが、二石三斗収穫できた時は大豊作との記載があります。
これとて、現在の一反では二石弱です。
時代劇でよく秋の田圃のシーンが出ますが、あの様な黄金色の田圃では絶対ないと思います。草ぼうぼうの中で貧弱な稲がひょろひょろ、が実態ではないでしょうか。