堀内長玄覚書(第十五集)九十一番九十二番

堀内長玄覚書第九十一番
十四集で述べた江戸出張の際、お殿様より私共と大福村の藤助に対し、以下の様な仰せが有りました。
今、京都名目の借金が六百両余りあるが、これについて、こちらで問合せ、御公義の役人の筋を持って片付けようとしているが、その間、百姓共には難儀が掛からないようにしようと考えている。ついては、その様に心得て帰国の上惣百姓へその旨を説明するようにと、仰せつけられました。
※注 領主の借金は実質、百姓の負担ですが、領主からは度々この様な懐柔的な話があります。実際の所は全て百姓の負担となっています。この様な不満が後の一揆へと繋がっていきます。

堀内長玄覚書第九十二番
九十一番で述べた際、お殿様から以下の様な話がありました。
新兵衛(長玄さん)その方には、これまで度々御用金を申し付け、それに対し神妙にこたえてくれた事、また今に至るまで返済なく、その方、難儀いたしておる事、十分に承知しているが、今しばらく待って欲しい。こちらの台所事情が持ち直し次第、返済するので、との誠に有難いお言葉を頂戴しました。
一方、藤助に対し、これまでその方には御用金の申し付けはしなかったが、今後はその方にも申し付けることがあるかと思うので、相働くように、との話がありました。
これで、今回の出張の要件も片付き、翌二十五日より帰国となり挨拶に出向いたところ、殿様より、来る時は東海道を下ってきたようだが、川止めなどが度々あり、ついては大切な百姓が怪我でもしたらいけないので、この方より下人の六蔵を付け、中山道の起点の板橋まで案内させるので、木曽街道から帰るようにと申され、二十五日に木曽街道に入るべく、板橋を目指しました。
※注 上方と江戸への往還は東海道が主流と思われがちですが、川止め等が度々あり距離的には遠いですが、中山道の方が往来がスムーズで、そちらを使う方が多かったようです。