堀内長玄覚書(第十六集)九十三番

堀内長玄覚書第九十三番
(九十二番までの江戸出張の帰り)
宝暦三年亥の七月二十五日江戸を出立し木曽街道(中山道)板橋宿より岩ふち村へと行きました。この所、折からの大高水で家の屋根まで水が乗り、村の中の田圃の中を皆々、舟渡しで、さてさて、恐ろしい事でした。
それより、み田村と言う渡辺綱(源頼光の四天王の一人)の里があり、この所に渡辺の宮が有りました。
二十六日夕刻、上尾に泊まりました。その後、熊谷と申す宿場町を通りましたが大層繁盛な所で熊谷れん正坊(平敦盛を討った熊谷次郎直実)の塚が有り、この所に熊谷寺と言う浄土宗の寺が有りました。
翌二十七日本庄で宿泊。それから岡部村と言う大きな村を通りましたが、ここに岡部の六弥太(一の谷の合戦で平家の武将、平忠度を討ち取った源氏の武将)の塚があり、それから、かんな川と言う大きな川を渡りました。
ここまでが武州の地で、ここからは上州の地となります。
からす川と言う大きな川を舟で渡りましたが、この辺りでは畑の縁に残らず桑を植え養蚕が盛んなところです。
さらに、高崎と言う七万石の城下町に入りましたが、繁盛の地で、絹問屋にて白嶋を一反買い求めました。この代金が十七匁(恐らく銀で三万円弱くらい)大層安いと思いました。それより、段々と行くと横川と言う所に関所があり、通行手形を見せ通りました。二十八日は坂本に泊まりました。ここからは信州の地です。
うすい(碓氷)峠と申す大きな山があり、さだみつ(碓氷貞光、頼光四天王の一人)の塚がありました。
それより、追イわけ(追分)と申す本宿があり、ここは遊女が多くおります。ここまでの道は道幅も広く、およそ二十間とも感じました。(※ちょっと広すぎる様に思います)
ここが、北国西国の分かれ道です。それより、あさまがだけ(浅間山)峰より煙が立ち昇り、この辺りは広い原で、そば・稗などが栽培されています。
さて、この辺の女どもは老いも若きも尻をまくり立ちしょんべんする所で、それより村々に、馬の子取所(意味不明原文通り)にてむさ苦しい所です。茶屋に入り、飯を食べると蝿が黒胡麻を振りかけた様な有様です。
二十九日に望月と言う所に泊まりました。ここから下諏訪と言う厳しい峠があり、 春日大明神大社(諏訪神社)が有り、この辺りに水海(湖)があります。
それより和田峠になり、和田の吉森(和田義盛、鎌倉殿の十三人の一人)の塚があります。この山に黒水晶と言う石が有ります。
それより、塩尻峠となり、ここから越中の立山が望めます。三十日の夕刻に塩尻に泊まりましたが、ここへは信州の松本から、米酒など色々な品物が届きます。
八月朔日夕刻に福嶋に泊まりました。この辺りのの家は丈夫な材木で作り、壁は板張りで竹は使わず、建てられています。名物の蕎麦きりは結構ですが、汁はいただけません。そば餅も名物です。
それより木曽殿(木曽義仲)の屋敷の跡があり、ともゑ・山ふき(巴御前・山吹御前)の
定念仏寺が有り。樋口の次良(木曽義仲の家来の樋口次郎兼光)の塚があり、今井四郎兼平(樋口次郎の弟)の塚が有りました。この所に今井村と言う在所が有りました
それより、木曽のかけ橋が有り、それより段々登った所に津嶋太郎つり場が有り、谷川に見事な大岩が有り、ここの大淵で水を飲み景色は誠に見事な物でした。
二日の夕刻、大井に泊まり、ここから尾張に入り、三日夕刻、菊名に泊まり、四日夕刻かふとに泊まり五日夕刻に名張に泊まり、八月六日、無事に当村に帰りました。
八日に当村会所に庄屋年寄惣代組頭、残らず寄合い、江戸のお殿様の趣旨を話し
村々(曽我・大福)承知なさられ、それより段々寄合いの上、相談いたし、その内容は別紙、帳面に記載の通りです。
※注 なかなか見事な紀行文です。また頼光四天王や源平の合戦などにまつわる人々についてよく知っておられ、それゆえ、そのゆかりの地に興味を持って記載されています。その当時、そういった物語やそれに関する事が広く流布されていた事が伺えます。しかし、今日の様に色々な書物やテレビなど無い時代にどうやって、そういった知識を得られたのか、その点にも興味が湧きます。