堀内長玄覚書(第三十七集)二百三十一番、二百三十二番

堀内長玄覚書第二百三十一番
明和五年の十二月末に新たに郡代となった庄田氏がにわかに江戸に下られました。
道中早打ちにて、極月二十五日暮れ六つ(午後5時~6時頃)に出立され、大晦日(十二月三十日)に着くよう昼夜五日切りの予定で出立されました。
出立に先立ち持参金百両か五十両を村方に用意するよう仰せ付けなされましたが、前書の通り百姓は行き詰り状態で百姓からは少しの金も出さなかったので、庄田氏より田原本の安部田屋から金を借りこの証文を村方に差し出す様仰せ付けられましたが、役人が申すに、先年お指図により安部田屋から銀三千匁(約五十両、五百万円ほど)を村方印形にて借りましたが、お殿様より返済が無く、段々と返金の催促が来て更に南都の奉行所に出訴されました。村方も迷惑し、ようよう大坂の伊勢屋平兵衛に借り換えして安部田屋に返済しましたが、大坂への借金は残ったままの状態で、またまた村方印形にての借金は出来ませんと言ったところ、庄田氏殊の外なる御腹立ちでしたが理詰め故(村方に理があるので)是非なく安部田屋へは庄田氏の一判にて借用し、急ぎ江戸に出立されました。その際、庄田氏は陣屋に残る役人の森田甚太夫、竹田安高、井上長兵衛らに、庄田が留守の間、どの様な催促が来ても、一銭も出すことが無い様に,村方にもよく心得させ(百姓から催促が来ても金を出さない様に)と言い置かれ、極月二十五日暮れ六つに出立され、晦日の夕方に江戸に着かれました。
今回の江戸への出立は、庄田氏がどの様な思し召しか、江戸の殿様からの御呼出しも無く、百姓方から頼んだことも無く、庄田氏一人の思案で行かれた様です。其れより、明くる丑の二月十一日に当村にお帰りになられました。
※注 急いで行けば、江戸までまる五日で行っています。それにしても当時の人は
相当の健脚だった様です。

堀内長玄覚書第二百三十二番
明和五年子の極月三日、孫のおでんが疱瘡で死にました。法名は釈尼妙好で、この子の母親も死んでおり、後添えの母も亡くなっており、妹のおるいも死んでおります。
残るは、このおでん一人で父親の喜平次はこの子一人を楽しみに可愛がっておりましたが、力落としの様は筆にも尽くされません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、御催促(仏が迎えに来る)の事と皆々相心得ることと存じます。
※注 天然痘は奈良時代の大爆発的大流行以来、肺結核と並びまさに国民病と言えるものでした。幕末に日本に来た外国人は、あばたの子供が多い事に驚きの目をもって見ています。昭和20年4月という終戦直前の混乱期においても、この地で種痘が行われており、その証明書が残っています。
江戸時代は、人生、まさに死と隣り合わせだった事が良く分かる記述です。