堀内長玄覚書(第三十八集)二百三十七番、二百三十九番

堀内長玄覚書第二百三十七番
明和六年二月十一日、去年暮れに庄田七兵衛様が道中中六日で急ぎ江戸に下りお殿様にお会いになった件ですが、これは堺の杉田氏と言う人に江戸への仕送りを頼まれた様で杉田氏が当村に来て当村の様子を見た結果、仕送りは出来ずとの事で庄田氏も気の毒な事です。先年より江戸では家老の石原仙右衛門殿、欠落された由、江戸より連絡があり、さてさて江戸屋敷ではどうなっている事やら、毎度毎度お役人が入れ替わり立ち代わりなさられ、新お役人が出来、百姓方も気の毒に思っていましたが、そこで庄田氏は同月二十三日に下市にて金策されましたがこれも旨く行かず、江戸の月の賄金を、ようよう百姓方より借りだし、御月の賄金、その他の切米金(現金支給の給与)等を二月二十六日に百姓方より出す様申され、百姓方、精出しし当座は相収まりました。これより町支配の八人から庄田氏、その金を取り出し、江戸へ下られた事です。
※注 毎度毎度、江戸の賄金の調達に代官の庄田氏は苦労されています。それにしても、当時武士が仕官を外れる事は死活問題でしたが、家老が失踪しまた役人が入れ替わるなど、尋常では無いと考えられます。新規の召し抱えは、武家の次男や三男などは二つ返事で仕官したでしょうが、辞めた者も多くいたのは非常に稀有な事と思います。

堀内長玄覚書第二百三十九番
明和六年丑の二月に至り、去年暮れに村々一揆を起こし、家をこぼったりしましたが、この度、御地頭様より、一揆の頭取人の御吟味が有り、村々で頭取をいたした人々を捕らえ閉門、手錠(てぐさり)になり、入牢になった人も有りました。
さてさて難儀な事になりました。其れに付け今井町に昨年の暮れに借家人が家賃を半分に下げる様にとの願いを出し、町中の借家人が残らずそんぼ(現在の蘇武橋のあたり)に集まり、この要求をのまない大家が有れば、打ち壊しに行きといった有様でした。さて又、おびや屋与右衛門の家を半壊にしましたが、これは、銀札と交換すべき銀を取り込みにし、その恨みゆえ、半こぼちにしたものでした。この件も頭取人七八人
芝村(現桜井市)に召し出し、吟味の上、数人の頭取人が入牢に及び難儀なこと、この入用銀ばかりが借家人の負担となり、難儀が重なり、七月になっても事が治まらず、さてさて気の毒千万と皆が申しておりました。
※注 明和五年の百姓一揆は、大和では興福寺領、旗本神保氏領、旗本平野氏領、多武峰社領、旗本多賀氏領郡山藩領、幕府領、柳本藩領の都合九例ですが、これとは別に今井町で家賃値下げ闘争が起こっています。
この後、幕府から一揆の際に飛び道具使用許可令が出ています。