堀内長玄覚書(第三十九集)二百五十一番、二百七十二番

堀内長玄覚書第二百五十一番
明和六年亥の八月五日に曽我の森に亥年の願い上げの催しにあやすり(操り人形か、浄瑠璃のような物と思われる)を興行致しました。従来、座席は正面に庄屋・年寄の桟敷をとり、その次に曽我座、町座、新町座その次に組頭役となっていましたが、色々と言う人があり、やかましくなってきました。
そこで、当年は庄屋が助五郎、年寄は新兵衛(長玄さん)、半兵衛、村役人は三人なので、御用床の前から少し正面からずらし西北に桟敷を取り、正面に曽我座、左に町座、右に新町座、その次に組頭、と言うように桟敷をとりました。結果、皆々了見し目出度く行事が済みました。
※注 今でも葬式の焼香順などで揉める事がありますが、当時も色々と悶着があった様です。特に曽我座と新町座では色々と確執があった様で、曽我座から領主の多賀氏へ揉め事の仲裁を願う口上書が宗我都比古彦神社に残されています。

堀内長玄覚書第二百七十二番
小綱村に新池が出来た事。
明和七年(1770年)寅の二月中旬より池を掘り始め、これより川下の村に対し何の相談もなかったため、当村と妙法寺村とが申し合い、その他の下郷も村々も迷惑のため、 高取土砂奉行人に小綱の池掘りの中止を願い出ました。それより、当村と妙法寺村と小綱村とで論争になり、さてさて、やかましき事が勃発しました。小綱村からは、他村や高取土砂奉行への根回しもなく、当村と妙法寺村とが土砂奉行に強くお願いに上がったところ、土砂奉行も、もっともとの事で、今後、五月一日より八月下旬までは、如何なることが有っても池に水を入れない事、もし万一その間に水を入れる事が有ったら、池の水は曽我、妙法寺の両村が抜き取り、好きに使わせてもらう、と言えば、小綱村は一言もなく、その申し分を認め、証文が出来、もしこの裁定に不満があれば、京都二条の御番所(京都所司代のこと。京都奉行・なら奉行はその管轄下に入ります)さまへ申し出ますと強く申し出たところ、高取お役人衆もお聞き入れ下され、証文を両村で取り置きとなり、解決いたしました。
※注 小綱池が出来た時の経緯です。水に関しては当時色々と悶着のあった曽我と妙法寺が、今回は結託しています。なお、仲裁に高取土砂奉行が出てきていますが、その理由は良く分かりません。当時は水源地の位置づけの領主が管掌していたのでしょうか