堀内長玄覚書(第四十集)

堀内長玄覚書第二百八十一番
明和七年寅の五月四日に、池尻御屋敷にて成敗の事が有りました。
これは、明和五年の暮れにに起こった一揆(二百二十七番参照)に関するもので、首謀者と思しき畝火村(原文通り)惣次郎、大谷村の半兵衛の両人の吟味にかかり、段々と取り調べ、江戸御公義よりの申し付けにより、打首となりました。笑止千万の事で(愚かなる裁定との意味か)さて、成敗の場所に土を段々に直り(いわゆる土壇場を作り)この両人は代々の御宗門にて(浄土真宗の門徒)その際に正信偈と白骨の御文章といただき、念仏もろともに両人首打たれ、その時、そこに居合わせた人々はさてさて、痛わしく不憫なる有様、申すばかりも無くと思われました。
また、一揆に関して芝村(現桜井市)の北ノ兵庫村の大庄屋が、この人は芝村藩の御屋敷に度々御用金を上げかねてよりお役人衆とご昵懇にされていましたが、自分の支配下の村から四五人の百姓が成敗されると聞き、これを気の毒に思い、自分が身代わりになると申し出られました。
この人お役人衆とも懇ろなのでそれで相済むようにと慈悲の心で身代わりを申し出られましたが、江戸御公義より成敗する様にとの沙汰が下り、是非もなく打首になりました。
それとは別に、六月十四日に今井町でも六人の咎人があり(一揆発生の際、今井町でも百姓一揆とは別に打ち壊しの暴動有り)内一人、鳥屋藤七と申す人が打首となり、残り五人は所払いとなりました。
※注 一揆の結果、百姓の言い分が通った部分も有りますが、けじめとして首謀者は罰せられています。それが打首でありやはり一揆は命がけだった様です。幸い、曽我村からはそう言った咎人は出ていませんが、長玄さんをはじめとして村内運営がよろしかった様です。