堀内長玄覚書(第四十一集)二百八十四番

堀内長玄覚書第二百八十四番
明和七年寅の卯六月晦日の夕方に雨が少々降りましたが、その後、閏六月の一か月少しも雨が降らず、七月になっても降りませんでした。この時、七月四日に法印坊と申す山師が当村のこげつ庵にやって来て七日七夜のうちに雨を降らせましょう、と当国の村々に書付をを回し、大口をたたき、七日七夜のうちに雨が降れば、礼銀を心持ち次第に下されます様と書付をを出しましたところ一向に全く雨は降りません。
さてさて法印坊、面目も申し分も無く、其れに付け当村御地頭様より、斯様なる売僧坊主が当村に逗留している事は誠によろしくなく、当村より追放されました。
それからも段々照り続き七月二十一日の夜、北の方角に雲焼けと申す一片の雲が出、丹波焼けの様な赤い筋が立ち、京都が大火の様と人々が申し、その後、少し鎮まりましたが、半時ほど後に雲焼けが段々と広がり、火の雨が降る様と諸人申し怖がる様子は筆にも尽くされません。
それより所ところで、日待ちを行い百万遍の念仏を唱え、色々の事を申し暮らしていましたが、この時は日照りが百日も続き、西国方、東国方、諸方にてもその様な有様で、相変わらず不思議な雲焼けが続きました。
ところで、この大日照りで当国の植田は半分ほど枯れ諸人は難儀されました。
これより世上、見物やそのほかの楽しみなど一切なく、分けて盆踊りなども無く、百姓は日々水替えに身をこがし、村々盆どころではなくなりました。水替え等色々と行いましたが、結局一反当たり五六斗位の出来となりました。
(中略)然るに翌年の卯の年も同様の大日照りとなりました。
※注 天候不順になると人の弱みに付け込む輩が出るのは、今も昔も変わらない様です。この様な大日照りは度々起こった様で、また大雨による水害も多々発生しています。昨今異常気象という事がよく言われますが、それは果たして本当に異常なのか、時々異常な事が起こるのは、ひょっとしたら正常な自然なのかと考えさせられます。