堀内長玄覚書(第二集)七番十二番十六番

堀内長玄覚書第七番
寛文三年(1663年)この頃から座頭が当村へ祝儀を取りに来ることがなくなりました。
この経緯はどういうことかと言うと、当村の東口で貧家の女の寡(やもめ)が一人で暮らしていました。
ある夜中一人の座頭がその家に忍び込んできました。
村の人々は、それを見とがめ、盗賊と言い立て、打ち殺してしまいました。
さあそれから段々と難しい事になり、大和の国中の座頭が当村に押し寄せ、その結果
奈良奉行所(原文は、南都御番所)扱いの大公事(裁判)となり、殊の外なる大騒動と
なりました。
この時、我が家の先祖、喜平衛様がわけて精出しされ、御番所にて随分と働きかけ
大勢の座頭と競り合い、御前にて対決されました。
結果、この裁判は当村の勝ちにて終わりました。
それより、当村へは座頭仲間は、何事によらず祝儀を取りに来ることは相なり申さず、との一札証文を村方に取り置き、これより永々今に至るまで、座頭仲間が当村へ
祝儀を取りに来ることがなくなりました。
また、仮に当村で盲人が出ても、座頭仲間には入れない、との事で決着しました。
この件で、喜平衛様は御地頭様(多賀の殿様)からご褒美に預かったと聞いています。
※注 江戸時代の社会保障の一端が伺えます。
例えば、目の不自由な人たちに対し、事につけて祝儀(義援金)を渡していた
様です。また、目の不自由な人は座頭仲間に入り、按摩・琵琶法師などの
特殊職業を独占的に行っていた様です。
ところで、村では多賀の殿様を一般に「御地頭様」と呼んでいた様で、
長玄覚書では、ほとんど全て殿様の事を「御地頭様」と言ってます。
戦後の火事で焼失しましたが、光岩院の本尊の胎内からが
「御地頭様御武運長久・・」と書かれた文書が見つかったと、戦前の資料に
あります。

堀内長玄覚書第十二番
元禄二年(1689年)当村の大橋(豊津橋)が架け替えられました。
以前の橋は、妙法寺村の宗順というお坊さんがお一人の努力で架けられたと聞いて
います。
今回の架け替えに際して、諸方へ富札(宝くじ)を出し、小綱村の「なすびたね」が
一番くじを引き当てた、と聞いています。

堀内長玄覚書第十六番
元禄十六年(1693年)江戸で、四十七人がかたき討ちした、との話を聞いています。
※注  赤穂浪士の討ち入りはこの辺りまで聞こえたいた様です。
なお、討ち入りは元禄十五年十二月十四日なので、年が明けてから
伝わったものと思われます。