堀内長玄覚書(第三集)十七番十九番二十番二十一番

堀内長玄覚書十七番
宝永元年(1704年)当村の大橋が崩れました。
この橋の古木を入札のより、人々へ売り、その代金を村方で預かり、仮橋を作り
その往来に一銭、二銭づつ取り留め、この積銭で新たな橋を作る予定でした。
ところが、そのお金が紛失になりました。
仮橋を作る費用や人足代、そのほか色々と費用が掛かります。
私も少々預かっていましたが、庄屋の助七郎さんが、自分が預かって置くとの事で、
九兵衛殿(村の金融業者)にも話を通し、助七郎さん渡し、その受取書も所持しています。その後、仮橋は村の費用で架けました。
※注 長玄さん、あらぬ疑いを掛けられぬよう、書留められたと思われます。

堀内長玄覚書十九番
宝永二年(1705年)富士山が噴火し、宝永山出来たと聞いています。
※注 宝永山は宝永四年の噴火で出現しています。長玄さんまだ7~8歳頃で
聞き間違いか記憶間違いと思います。

堀内長玄覚書二十番
宝永二年(1705年)この年に、伊勢神宮への、大ぬけ参りがありました。
この年は、お金が一銭も無くとも、思い思いにぬけ参りし、当村の伊勢街道は伊勢へ上る人、伊勢から下る人で賑わい、隙間もない有様でした。
※注 ぬけ参りとは、家の人や奉公先に無断で伊勢参りをすることで、江戸時代には
1650年、1705年、1771年、1830年の四回あった様です。明和八年(1771年)には
曽我の東口、柳原(場所不明)で、今井から接待場が設けられた、と覚書291番に
あります。

堀内長玄覚書二十一番
宝永三年(1706年)から、いねこきによる農作業が始まりました。(注 今はいねこきとは稲の脱穀のことを指しますが、長玄覚書では、千歯こぎ、と言う江戸中期に発明された脱穀用の農機具の事を言っています)
それまでは、こき箸にて一日に7~10束程度、こいでいましたが、”千歯こぎ”ができてからは、賃こぎが無くなり、”千歯こぎ”のことを、やまめ(寡婦やもめ)たおしと申しました。
当村へ初めて来たのは、この年の十月頃で、庄屋の北林彦七さんのところへ、三丁来たのが最初です。
その後、段々と唐箕(とうみ)や千石とうし、なども来るようになりました。
※注 稲刈りは刈った後、何日か天日干しするので、2~3日かかっても構いません
稲こきは、天気回りもあり一気に済ましてしまう必要があったので、その作業
に後家さんが動員され、良いアルバイトだったようです。それが無くなったの
で、全国的に後家殺しとも呼ばれていました。白土三平の漫画カムイ伝にも
後家さんが千歯こぎを壊して回るシーンが有ります。
ところで、こき箸の作業効率ですが、一日当たり7~10束(そく)と書かれて
います。この束(そく)とは、稲束の単位で、稲の株を大体12株刈り、藁で
たわせ(束ねる)ます。これが一束(たば)、それを四つ集めた物をちょっぽ、と
言い、そのちょっぽを六つ集めたものを一束(そく)と言います。
それが、7~10程度、こいだ様です。