堀内長玄覚書(第五集)二十九番三十番三十一番三十二番

堀内長玄覚書第二十九番
正徳三年(1713年)四月七日に、当村の古手屋太郎兵衛が、雷につかまり死にました。
所は林の内で、その時いかきや(笊屋)善兵衛と両人連れ立ち妙法寺村帰るとき分かれて
そのままつかまりました。死んだ太郎兵衛は黒仏の様になり、古手ふろしきも青い火を出し、あわれなる事でした。
※注  当時は着るものは一般に古手屋から今で言うリサイクル品を買うのが普通でした。また、いかき屋ですが、明治大正頃の生まれの方は笊の事を「いっかけ」と呼んでいました。隣の小綱町は江戸時代は竹細工が盛んであった様です。

堀内長玄覚書第三十番
正徳三年(1713年)この時、慶長銀と同様の極上銀、これは享保銀とも言いますが、
上々の銀が出回りました。この銀子は板一丁が小は二十四五匁より大は三十ニ三匁
小玉銀は四五分より一匁二三分、大は一匁六七分で、この銀は百匁で四ツ宝銀二百匁
と替わりました(同じ銀貨でも二倍の価値) 二ツ宝銀も三ツ宝銀も同様に取引されました。さて、諸色大高低下有り、世上騒がしい事でした。
※注  当時一文銭は一文と書かれているから一文です。今の通貨と同様、表記金額で流通していました。これを計数貨幣と言います。それに対し、銀は重さを計ってその価値を算出していました。これを秤量貨幣と言います。七月に
そもそもは一両=銀60匁=銅4000匁が大体の基準でしたが、銀貨はその品質でかなり価値が変動し、物価もその影響を相当受けていた様です。
ところで、一両の価値を現在に換算は不可能ですが、10万円と考えると、当時の屋台の蕎麦、これは「ニ八そば」と言い16文で約400円となります。
肌感覚で、そんなものかとも思います。

堀内長玄覚書第三十一番
正徳四年(1714年)七月に大高水(大洪水)が起こり、大橋の東詰にて大切れし、
大木の榎とれん入坊の家が流れ、夥しく砂が入りました。
その時、我が家では綿作をしていましたが、行市三反(場所不明)
ひかい田一反五畝(場所不明)油取りにて大肥致され(原文通り、油粕等の肥料をたくさんやり、と言う意味か)大極上の収穫が見込まれましたが、泥まみれになり、大損になり、さてさて、残念なこととなりました。

堀内長玄覚書第三十二番
正徳四年(1714年)午の八月に川下の土橋村、妙法寺村と当村の間で南川水廻しに関し
水論が出来しました。この事で、京都まで出向き双方とも物入りな事でした。
この件、京都お裁きにて、相済ませました。
※注  なぜ京都での裁判になったか、またどう決着したかは不明