堀内長玄覚書(第六集)三十七番三十八番三十九番

堀内長玄覚書第三十七番
享保二年(1717年長玄さん数え18歳)当国の二上山で金掘り(金鉱や銀鉱など試掘)が有りました。所は岩屋通りより少し北の方で、山の中腹から直径五尺ばかりの穴を掘っています。私は友達(原文、供立)と三人連れで見物に行きました。
この金堀りの人足は以下原文「じばんにおいずるかけ、ふじのくくツをせおい」(要は背負子の様な物を背負い、と言う意味か)穴の奥にある岩の木っ端を運び佐治ていました。人を案内に頼み、四人連れで穴の奥に入りました。
一丁(約110m)ばかり行くと栄螺殻に油を入れともし火にしてあるところが有り、少し明るくなっています。そこから段々と下の方へ石段掘りにしてある所を下り半丁ばかり行くとともし火があり、少し明るくなっています。
年の頃、三十歳ばかりの男、おいずるかけて、鉢巻をし、八百屋お七の歌を歌いながら、あわれなる声をあげ、岩をカチカチ掘っていましたが、恐ろしとも、あわれとも、心細くなり、怖くなり、引き返しました。所々のともし火の無い所は真の闇で
両の手で穴の両脇を探り探り、出てきました。岩の少ない所は丸木で、わくさしし、
大山の底ゆえ、穴に居ると言うより、地獄の底に居るような心地で、一足づつ表に
近づく事うれしく、皆々表に出たときは地獄からこの世に戻ったように思い、
こわさ、うれしさ、限りなく感じました。
ところで、この金堀りですが、結局大したことなく、次第に人足の足も遠のき、
麓に大きな仮屋もありましたが段々と悪所になり、また穴も狐・狼・狸などの
ねぐらになって来たので、一二年のうちに、付近の村人によって、潰されました。

堀内長玄覚書第三十八番
享保二年(1717年)この年、大日照りで、五月に手遣りたおし(田植えの事か)しましたが、ミほ筋打上ケ粟大豆等植えました。(原文を踏まえました。要は田植えをしたが大日照りのため急遽、畑に転作したという事か)
綿作大むしが入り、横木・あまみ田(小学校の東、メロディタウンのところ)筋、
植田かり捨て、すき込みしました。大不作でした。
※注  この後も度々、日照りの話は出てきますが、都度、畑作に転換したり、色々と工夫をされています。稲作で残す田、畑にする田、などの取り決めには、よほどしっかりしたリーダーが居るか、人々の協調性があったか、と思います。そうやって度々の危機を乗り越えてこられました。

堀内長玄覚書第三十九番
享保三年(1718年)戌の三月に南都元興寺の塔の屋根に登りました(1859年に焼失するまで元興寺には大きな五重塔が有りました)この日諸人が参詣しました。
私も塔の屋根に登り、空なる環へ出て、金輪を段々に登り上にある、玉を抱かえました。さてさて、これも恐ろしい事で、高い空の事、風が強く、下を見れば恐ろしく
心もとない心地でした。
その時、思いましたのは、ご両親のいる私の一生の過ちで、今回を限りに二度とこのような事はしないと、誓いました。
さてさて、無事であった事のうれしさ、忘れ申さず、と思った事でした。
※注  元興寺には1859年に焼失するまで大きな五重塔が有りました。記録からすると高さは72.7m(日本最大の東寺の塔は54.8m、興福寺の塔は50.1m)と言う巨大な塔でした。ただし、一説では48mともあります。
その一番上の屋根から相輪の金輪を登り、先端の玉に触った経験を記されています。