堀内長玄覚書(第九集)六十番六十一番

堀内長玄覚書第六十番
享保十四年(1729年)酉の九月朔日、私の息子の喜平次こと小市良が座(曽我座)の当人でしたが、この年は綿方が豊年でした。その日、私は曽我座の皆様に以下の様な事を申しました。
曽我大神様は当六日が夜宮ですが、このところ毎年あまりにもさびしく、夜宮と言っても遠路ゆえか氏子の参詣もあまり無く、暮れ方までに御湯かぐらを仕舞い、提灯等も暮方に持ち帰る有様で、もし雨でも降ろうものならわけて参詣人も無く、甚だ気の毒に思っています。ところで、幸いな事に東楽寺(今の真菅小学校の場所)に昔より鎮守の森があり、ここへ杉葉にて御神輿をこしらえ、毎年九月六日の夜宮に御さか木を移し、このところで御湯かぐら等をあげ、そのほか絵馬、提灯等も上げたなら、たとえ雨天でも皆々様が参詣されると思いますが如何でしょうと、曽我座の皆様に相談したところ、なるほど、これは賑わしくなり御尤もな意見と思います。
ならば、どうするか神様に聞いてみては如何でしょうと座の皆様がおっしゃったので、さっそく神主の四良三郎殿が玉ぐしを上げられたところ、曽我大神様御機嫌になられた様で、神輿の方に玉ぐしが上がりました。
それより、相談を相極め明くる二日より我が家の東の空家に座中の皆様が集まり、杉葉がこいの神輿を作り、飾り等、色々付け、殊の外見事に出来上がりました。
其の外、氏子より御迎え提灯を人々にこしらえ、太鼓・鉦にてはやしかけ、やたいの担いもの神輿かきの人々は、段だら鉢巻に浴衣を揃えて、殊の外道筋の送り迎え賑わしく、これはきっと神様も御機嫌に入られるでしょうと、皆々様よろこび申しました。
これより、御旅所にては、新町座からも提灯、そのほか立山人形や狂言等をいたされ、御神輿の御前にて、御湯かぐらが上がりました。
これは元々曽我森にて上がるはずですが、この六日の夜宮より、鎮守の森で上がるようになり、大層な賑わいで、氏子や両座中の人々共、大いに喜ばれました。
それより、七日の神事の夜、御さか木を神輿に移し、お迎えの時と同様に神社にお送りし、七日の夜も大層な賑わいでした。
ところで、この年の閏九月(祭りの有った通常の九月の後、暦の関係でもう一回九月が繰り返されます)四日夜、殊の外なる大風雨で、曽我の森の宮の後ろに有る大木の大きな枝が裂け、宮の上に倒れ掛かりました。ところが不思議な事にその時、宮も台座ごと前に押しやられ、被害は全くありませんでした。
この宮を直すに当たり、又また閏九月六日に鎮守の森に移し、湯かぐら、提灯等を差し上げました。曽我大神様、よほどこの御旅所がお気に入りなさられた事と氏子の方々はおっしゃり、神慮にかなったことと、座中の皆々様も大喜びで、それ以来、毎年、この通りに取り行われるようになりました。  以下略
※注  昭和三十五年まで、秋祭りは両神社からえべっさんの広場(今の第一防災倉庫のある場所)に有った御旅所に神様が動座され、そこで行われていました。広場には多くの屋台が出、それはそれは大層な賑わいで、クライマックスは太鼓台の巡幸でした。この時の写真は「曽我町思い出の記録」のDVDに多く納められています。
享保十四年より232年に渡り執り行われてきた神事が今途絶えているのは誠に残念ではありますが、心に留めておいていただければ、と思います。
ところで、昔の人々は信仰心が篤く、また今の様に多くの楽しみが無い時代だったので祭りなどは非常に大切にされた、と何となく思いがちですが、何の事はありません。曽我のいわゆる本村から宗我都比古神社まで距離があるとの理由で、お参りを怠けていらっしゃいます。何だかちょっと笑えます。

堀内長玄覚書第六十一番
六十番で述べた通り、享保十四年に初めて神輿を作りましたが、この時の神輿は高さ五尺、幅二尺八寸で四方の高欄は赤く塗り、柱は青くし、其の外全て杉の青葉にし、荷い棒は二間半で、享保十八年までの四年間毎年、上記の様に作りました。
しかし、毎年お世話される方々の負担も大きく、気の毒な事でした。

そこで、享保十九年丑の年、図の様な神輿を新調いたしました。
これより毎年、九月朔日に、この神輿にて座の仮屋に御さか木を移し、九月六日の夜宮に神主四郎三郎(しらざぶろう、漢字は四良と書く場合もあり、適当と言うかいい加減なところがあります)殿、守り奉じ御旅所に移し、七日の夜、神社に帰られるようになりました。   以下略