堀内長玄覚書(第十集)六十八番六十九番七十番

堀内長玄覚書第六十八番
元文三年(1738年)当村光専寺の本堂の傷みが余りにもひどく、柱を五本入れ替えその歪みを直そうと相談が決まりました。
この本堂は、内間が五間四方で、以前天和年号までは本堂の屋根は藁葺きと聞いています。その後、享保年号の内に瓦葺きになったと聞いています。
それより凡そ六十年が過ぎ、元文三年に惣門徒が村々で寄合い色々と相談したところ、とてもの事、本堂は新しく立て直しが然るべくと申し、相談が一決いたしました。
この時の光専寺留守居僧は当国田村法林寺出身の了勧と申し、この御坊は高田の専立寺の白知様の御弟子で、この御坊が大変苦労なされて色々と諸事を取り捌き門徒の人々からの寄進の奉加帳を回す事などを当村の門徒衆に申し合わせ、大阪にて欅柱を買い付け、其の外、各地にて材木を買い整え、大工は坊城村の四郎衛門を棟梁とし、秋本村の次郎右衛門を脇棟梁とし、其の外大工五六人づつ入り、元文四年に古い本堂をほどき、土持地づきを行いました。

堀内長玄覚書第六十九番
元文五年(1740年)三月中旬に光専寺の石つきが行われました。
十八日から二十四日迄の七日間に大御法事を行われました。
この時、子供に狂言をさせようと門徒衆が寄合い相談され、私がお世話をするように皆様が申されました。ちょうどこの時、大阪からゆう助と申す芝居役者が当村に度々来ていまして、この者を呼び入れ、この者と私が相談し、取組狂言を子供に教えました。
込山の前に舞台を拵え、娘子供はかせやのおもと、私の方はおつる、酒や与平次の娘おさん、辻おはん、北ノ伊兵衛の娘おきく、金六の娘小ふじ、この六人が思い思いに衣装を拵え、この狂言の次第は浄瑠璃から舞い、また太夫いで立ちで歌踊り、花笠舞い、またその頃のはやり歌「雲にかけ橋、霞に千鳥、およびないとて惚れまいものか、賤ケ伏せ屋の月、おみやなしてなアおみやなしてなアよいしてなア」其のほかうた事、さん下がり節、色々あって殊の外なる大出来で、群衆の人々の褒めない人は無いといった状況でした。
さてまた男子供は前後に十二人出、内七人は大阪出羽芝居子供通りにいで立ち、黒装束にて奴踊り、舞台にて約束替わり狐踊り、其の外色々、やすし踊り、これまた大当たりでした。
さてまた、浄瑠璃は信州中島合戦二段目、直江大和助時綱に油屋長四郎、高坂弾正に桶屋の加七、この狂言は込山の前に辻堂を拵え、込山より鉄砲を放ち、この二人の身拵え、浄瑠璃の文句、口上、大音のせりふ、芝居役者も及ばぬ出来でした。
其の外、国姓爺合戦、和藤内に長四郎、其の外うば山めぐり、勘兵衛の子供勘六、墨田川道行はこの勘六、これまた大出来、この時、この親ども、子供に浮かされ余念なく加勢しておりました。
この時の光専寺は、昔より聞いたことが無いような繁盛ぶりで、この街道筋に人々が押し合い、道端の草も踏み枯れてしまうような有様でした。
光専寺繁盛にて賽銭と瓦奉加等、毎日、銀十四五匁程づつ上がり、門徒衆は大喜びいたしました。日数七日、障りなく終わりました。
これより、その後、百済村・田原本などでも、子供狂言が始まり、村の神事でも子供狂言をいたすようになりました。

堀内長玄覚書第七十番
元文五年(1740年)閏七月十七日、当国は大洪水に見舞われました。
御所町は半分ほど流され、だいぶ死人も出たようで、目も当てられず、哀れなることは筆にも尽くされません。