堀内長玄覚書(第十七集)九十四番九十五番

堀内長玄覚書第九十四番
(九十三番で江戸から帰ったあと)あくる日の八月九日に当地大雨が降り、大高水となりました。この時、すずめど(雀堂)の堤が切れかかりましたが、すんでのところ、何とか持ちこたえ、先ずは別条が有りませんでした。

堀内長玄覚書第九十五番
宝暦四年(1754年)亥の二月上旬に、江戸の御屋敷の月の賄金の仕送りが無く、これについて、当村の庄屋助七郎(北林助七郎)、年寄半兵衛、組頭半次郎お、同孫七、茂平らがお殿様から呼び出されました。お殿様からは、月々の賄金がもうどう仕様もなくなっている、ついては曽我村の知行米から六十石を特に売れば代銀が銀三十匁程になるだろうと思う。早速、村に帰って村役人ともよく相談をいたす様にと申されました。
この時、半兵衛、半次郎、茂平の三人と、川元半兵衛様、藤井宇忠太様、が相談されましたが、この五人は宗我都比古彦神社の新町座の座中の方々で、今回の賄金の便宜を図る見返りとして、今年から、曽我太神宮の御榊を新町座に移し、今後は毎年九月朔日に座の頭人方に御仮屋立て、そこに移し奉り、今まで曽我座が行ってきたとおりにお祭りするよう願い出されました。お殿様は、昔より前例のない事とは思われましたが、お聞き入れられ、今後、曽我座と同様にするようにとのお墨付きを与えられました。
※注 宗我都比古彦神社の新町座は江戸時代に新たにできた座で、神社創設以来の座である曽我座とは歴史が違いますが、何とか格上げを願っていた様です。これが後々曽我座と新町座の確執につながって行きます。ついには、曽我座からお殿様に
恐れながら口上書と言うものが出され、解決をお願いすると言う事態に発展します。