堀内長玄覚書(第十七集)九十六番九十七番

堀内長玄覚書第九十六番
右の五人衆(九十五番で述べた五人の人々)が江戸より帰国されて御徳米売り付けについて、当村村役人にお殿様の申された趣旨を話されたところ、庄屋・惣代・年寄らが集まり、お殿様が徳米を売ることは甚だ大切な事であり、また月々の賄い金が不足しているならば、何とか米を売って現金を用意せねば、となり出作方(当村以外のところ)へ売ろうとしましたが、どこにも売れず、また本作方にも買う人が無く、仕方なく、
庄屋・年寄その他の人々が買い付け、漸う四十二石を売り、代銀二十一匁を作りました。これより、村役人方が申されるに、この銀子を日歩まわしに両替屋に預け、月々の賄金は両替屋より取り出し、毎年毎年十月まではその銀子でやりくりし、十一月、十二月は段々と御蔵米も納まり、如何様にもなるだろう。また前述の銀二十一匁については毎年毎年の新たな年貢が納まった中から引き戻し、また明くる年に新たな銀子を用意し、両替屋に預けておけば、その利息金もつくだろうし、何とか江戸御屋敷の賄いもやっていけるだろう。これまでとは違い、仕送り人の付け届け、扶持・切米・利合い等、大分にゆとり出ると思われるので、この仕切りについて村方百姓にお任せ下さるようお願いしたところ、お聞き入れ下さいました。
また、江戸より買い人の希望通り江戸より証文を発行するので、早々に銀子を調達するようにとの仰せでした。
その後、江戸より証文も届き、惣百姓皆々江戸の賄金については片付いたものと、安心いたしました。是より江戸も少々倹約され、預金も増やされば、前述の徳米の代金も近年のうちに回収できると思ったことでした。
ところが、お殿様、何を思った事か、徳米の代金は江戸では調達できないので、残らず差し出す様に(村方が自分達の米を自分たちで買い、その金を賄金に充て、今後の年貢時に少しづつ回収しようとしたところ、それを取り上げたと言う事)と厳しく仰せられました。惣百姓まことに気の毒で色々と嘆きを申し上げましたが、全く聞き入れられず殊の外のお叱りを被りました。
この暮れより明くる二月までに残らず江戸に、先の銀子を差し出す様にとの事で、
役人の藤井宇忠太様が残らず取り立て、江戸に持っていかれました。
百姓ども、どうしようもなく、途方に暮れ、なおまた京都名目金の借金も相まって誠に嘆かわしい事でございます。
※注 この頃から領主の金詰りが激しくなり、年貢以外に色々とお金の取り立てが厳しくなり、村人に大きな負担となってきます。これらが重なり、後の一揆へと繋がる伏線となっています。

堀内長玄覚書第九十七番
その頃、御代官の森田利兵衛様から、宗我都比古彦神社の曽我座の年寄助三良、
伊兵衛、利助、喜兵衛、神主四郎三郎らを呼び出し、曽我太神宮の御榊を新町座の当人方へ仮屋を建て、そこに移す様にとの沙汰がありました。
曽我座としては突然の、新しいやり様で皆々驚き、寄合を持ち、この事に関して、昔より曽我太神の事は曽我座が支配してきたことで、その事はお殿様のご先祖も十分に承知されている事であり、今回のお沙汰は承知できませんと森田様に返事いたしました。森田様は言うとおりにするよう厳しくお叱りされましたので、曽我座の人々は致し方なく、今井の堀内金兵衛、当村の北林又七、北林幸助、この三人が江戸へ下りました。
この三人、昔よりの曽我座の古文書等、其のほか京都禁裏の油小路大納言様の御書付曽我太神縁起等を持参し、お殿様にお聞き入れなさるようにしました。
然るに、当村において、この九月朔日、新町座の庄兵衛方で青杉葉で御仮屋が出来ましたが、神主の四郎三郎は御榊を移さず、その旨を曽我座中に申し聞かせ、やむなく新町座では仮屋を解き、世間への面目丸つぶれとなりました。
是より、両座おお騒動となりました。江戸に下った三人は、お殿様より、曽我座にて行うようにとの下知書をもらい、殊の外なるおお騒動も収まりました。
この御下知書は曽我座の宝物でございます。