堀内長玄覚書(第二十一集)百十八番百二十一番百二十三番

堀内長玄覚書第百十八番
宝暦十一年(1761年)巳年の極月中旬に、ご公義より大坂中の金持ち人に御用金を申し付けられました。最も金持ち人十人ばかりには五万両づつ、その下の中くらいの金持ち人には二万五千両づつ、その下には一万両づつ、その下五千両、その下三千両、
二千両、千両もあり、大坂中にておよそ百五六十万両ばかり仰せつけられました。
極月に至り、大坂中殊の外厳しく相なり、正月の餅つきも少なくなり、諸事の相場も高下し、前代未聞の珍しい事でございます。
※注 西暦1761年と書きましたが、十二月は実際は1762年になっています。
年号年と西暦年の照合は大部分の一致する年に合わせていますのでご注意願います。

堀内長玄覚書第百二十一番
宝暦十二年(1762年)二月二十六日昼九ツ前(午前11時頃)南都(奈良)で大火事が有りました。火元は芝辻で、御番所様(奈良奉行所、今の奈良女子大の辺り)五間屋敷焼け、それより南北広く焼け手貝町半分焼け、押上町から東の方へ吹き飛び東大寺の大仏前より水屋へ焼け抜け、出茶屋ども焼け、つづら尾山焼け抜け、この東に民家が有りますがこれも焼けました。当国(大和)にてこの様な大火は聞いたことがありません。

堀内長玄覚書第百二十三番
宝暦十二年午の六月、大日照りで、南川(高取川と思われる)より水を回すよう、村役人惣代組頭等が寄合い相談いたしました。私が以前から聞いていたところでは、光専寺の込山の後ろに古い樋があるとの事です。またそれに関し、以前に土橋村・妙法寺村からの書付が庄屋の所にあるとの事で、それらを吟味し、両村立ち合いの元、水廻しを相談し、掘り分けた所、五十年以前前から埋もれていた樋を掘り出しました。
本川(高取川と思われる)かかりの(川の水の水利権のようなものか?)出作本作の田を潤してもなお余り水があるので、それを下の両村(土橋・妙法寺)にも廻し、大変喜んでいただきました。この事、私が同役人中に相談を申し入れ、常駐になり(新たに掘り出した用水路を今後も恒常的に使うという事か)大喜びいたしました。
※注 今も光専寺の南側の用水路は非常に大切な農業用水路ですが、江戸時代初期から有ったものの、長らく埋もれており、上記の年に再整備し、今に続いていることがわかります。