堀内長玄覚書(第二十集)百十一番百十四番百十五番

堀内長玄覚書第百十一番
宝暦十年(1760年)二月二十三日より、親鸞聖人五百遠忌で吉野の飯貝本善寺で二十八日までご法要をされるという事で、妻子を連れ参詣にまいりました。
その日の八ツ(午後二時頃)の法事に間に合い、その日は飯貝に泊まりました。その夜は
初夜参りし、明くる朝に参詣し、四ツ時分(午前十時頃)に吉野山に行きました。折から一目千本花盛りで、あまりに嬉しく桜の下で弁当を広げ、一首よみました。
五百年(いもとし)の祖師の御影で見吉野の花の下得てのミ込ぞする
※注 この頃には吉野の桜の一目千本と言う言い方があった事がわかります。長玄さん結構よく短歌を詠んでいます。掛詞などを多く取り入れ、洒脱な作品が多いです。

堀内長玄覚書第百十四番
宝暦十一年(1761年)六月十五日から八月五日まで五十日の間、鳴り物・音曲、御停止(ちょうじ)のお触れがでました。これは御公義様の儀で、世上誠に静かな事でした。どこの国でも盆踊りなど一切なく、大坂では米相場もなく、十五六日のあいだ相場状も参らず、諸商いも静かな事でした。当村にも役人が来て、夜回りをいたしておりました。
※注 前年に九代将軍家重が死去しています。その喪に服した様子が書かれています。また、大坂では米相場が盛んで(これは世界初の先物取引と言われています)その状況を知らせる、今風に言えば株価速報みたいなものが通常、長玄さんの手元に届いていたようです。

堀内長玄覚書第百十五番
宝暦十一年巳年、当村の中土橋が石橋に替わりました。これは大坂伊勢屋道寿老が再興されたもので、人足は残らず村方より出し、石屋は寺口村で、殆どの石は当村から寺口村まで取りに行きました。
※注 今に残る中橋町の橋です。今も一部、この時の石材が残っています。将来何らかの形に架け替えられる事もあるでしょうが、この石材部分は何かの形で、その由来とともに残しておきたいものです。