堀内長玄覚書(第二十三集)百五十番百五十一番

堀内長玄覚書第百五十
明和元年(1764年)申の三月より、殊の外、天気は雨が続き百姓方随分と勝手が良く
植田は五月中旬までに植付ができ、その後段々と雨が続きこの年は川ばり、水替え等一度も無く、さてさて珍しき年で野作の廻りも殊の外よろしく、有難いことでした。
別けても近年難儀していた京都名目金も(幕府から今なら約4億円の借金をしており、この利払い等で大変難儀をしていました)三十年賦になり、御公義の御慈悲と有難く当村の百姓も今年は少し心の休まることでした。
そこで、この年の七月晦日に町々に分かれ当村六ヶ所にて日待ちを行い祈祷をいたしました。
※注 日待ちは、今は正月明けの行事のようになっていますが、元々は何か喜びごとや悲しみごとが有ったとき、神社等に集まり、夜を徹して祈祷をし夜明けを待った、即ち日を待ったのが始まりと聞いたことが有ります。

堀内長玄覚書第百五十一番
明和元年申の八月二日夜、七つ(午前4時頃、今風に言えば三日の午前4時)頃から明くる三日明け六つ(午前6時頃)まで今まで覚えが無い様な殊の外なる大風雨で、丑寅風が吹き、その後、未申より吹き返し、大風雨で、さてさて恐ろしき大風でした。
当村の西養寺(今の東楽寺の所、元々東楽寺は今の真菅小学校の所にあり、明治41年に小学校建設のため、西養寺と合併し今の場所に移転しました)の大松を吹き倒し、
太子堂と庫裏とがこの松にてつぶれ、東口制札等(お触書を掲示した場所か)も吹き飛ばし、西口の藤四郎の家がつぶれ、北の文四良の家がつぶれ、其の外、村方の屋根の瓦家々に吹き飛ばし、曽我の森の神木おびただしく吹折れ、二抱え程の櫟の木が中頃より折れ、枝木は殊の外なる量になり、神主四良三良へ取り入れ、残る木や枝を十二日に宮で売り、村方で買い入れ、新町座の方々が残らず売りに行かれました。曽我の森の分で銀五百匁(九十万円ほど)ほど売り出し、また、八幡さんの神木は銀七八十匁程になり、また東楽寺神社(真菅小学校の所に東楽寺があり、そこに鎮守の森があり、そこに秋祭りの御旅所を拵えていました)の杉が中折れになっており、これは七匁で売り、その三か所の売上金の半分を四良三良に渡し、残りは宮に渡すことになりました。
然る所、東楽寺の住持から、前述の吹き折れた杉の木を庫裏の修理の普請に使いたいとの要請があり、曽我座中で相談のうえ、東楽寺に渡しました。
当国(大和)のいたる所で宮々の神木が夥しく吹き折れましたが、不思議な事に宮々の
社(やしろ)は無事で神力相見え、有難く、当村西養寺の太子様(現在、東楽寺所蔵の、橿原市指定文化財の聖徳太子像)は御座所ともども無事で、其の外、仏具等にいたるまで、少しも損害を受けませんでした。しかしながら、大和の国の在々の古い家は多くが吹き倒され圧死する人も多かったようです。
そういった折、三日朝から諸方の米商人が来、今井八木の米相場が大いに上がると読み、大坂へ飛脚を仕立て、米の買い取りの手を打ちました。ところが四日朝になって、米相場は下落し、米の買い占めを画策した人々は大変な損害を出しました。
と言うのは、西国北国は悪風は一切なく、また大阪も少しの風で、米相場も段々下がり、加賀米で三日四日頃は一石あたり五十四匁であったのが、十五六日頃は四十八九匁まで下がりました。
私も大不覚で、世上、今回の大風は一時は強く吹いたものの、極めて短時間で収束した故と申し、田畑の被害も少なく百姓方は大いに喜びました。
※注 東日本大震災の時も、地震直後に建設関係の株が高騰するなど、いつの時代でも災害を横目に金儲けに走る輩がいるものです。長玄さんも一口乗ったものの、大損したと反省されてます。
米の価格ですが、基準となる米があった様で、今回は加賀米換算での価格ですが、時によっては筑前米などが出てきます。今でも、コシヒカリ、ヒノヒカリ、キヌヒカリでは微妙に値段が違いますが、江戸時代も産地により価格差があった様です。