堀内長玄覚書(第二十四集)百五十二番

堀内長玄覚書第百五十二番
明和元年(1764年)申の十月上旬に川原惣右衛門(注 多賀氏の郡代(代官)で曽我村大福村の行政を行う総責任者。但し多賀氏の家来ではなく丹波もしくは丹後出身の渡り役人で、渡り役人とは自らを売り込んで大名や旗本のブレーンとなる人物で、多賀氏の場合たいていは下市の浪人の庄田氏を郡代として200石の家格で雇っています。200石の知行もしくは切米(現金支給の給料)を与えていた訳ではなく、あくまで格で、江戸時代の武士はこの格によって例えば外出の際の供の人数や、騎馬、槍持ちを付けるとか色々な特典がありました。この川原氏の就任以後、村では苛政が続き、ついには一揆へと繋がっていきます)殿、江戸へ登られ霜月中旬に曽我・大福の両村の村役を呼び付けられました。そこでの話は江戸のお殿様は物入りが多く、お手元不如意につき大福村又作に二十両、平兵衛に三十両、同村庄屋藤助に六十両、曽我村九兵衛に
二十両、庄屋助七良に七十両、新兵衛(長玄さん)に百両を差し出す様にとの事でした。
急な事で甚だ驚き入りました。今までも御用金や先納金など度々差し出しているのにこれは如何なる思し召しか、これはお詫びの上お断りするしかない、という事でその場はお断りを入れ、皆々立ち帰りました。
ところが極月十日にまたまた上記の六人の者が陣屋に呼び出され、川原惣右衛門殿が申されるには、先だっての御用金都合三百両、この十五日までにきっと差し出す様にとの事で、甚だ困り難儀迷惑なことと六人の者、会所にて色々と相談するも致し方無く、当村光専寺の御住職様にお頼みしようとなりました。ご住職様、色々と申し入れなされましたが川原氏一向に聞き入れず、ようよう、三百両の内、五十両は来年酉の二月まで引き延ばすが残る二百五十両はすぐ差し出せ、との事でまたまた光専寺の
ご住職さまの頼みお詫びをお願いいたしました。その結果、ようよう二百両はすぐ差し出せ、残り百両は来年の二月まで引き延ばす。また利息は月三朱(一朱は一両の十六分の一、従って月約16%)のところ、年に五朱まで引き下げる、これ以外は如何なる要望も聞き入れない、と川原氏、ご住職に申し切りに申され、ご住職も致し方なく、これきりにて引き上げなされました。
さてさて、六人の者難儀迷惑、わけても私一人に百両もの大金を申し付けられ、途方に暮れておりましたがその日七つ時分に(午後四時頃)川原氏より六人の者すぐに陣屋に来るようにと厳しく呼び出しがあり、六人の者、一緒に陣屋へ出向きました。
そこでの川原氏の話ですが、その方共、今回の御用金について不承知の様だから、 一人づつ呼び出し吟味いたす、残りの者は会所におれ、との事で足軽の藤井伊兵衛を番につけられました。
先ず初めに大福村の又作が呼び出され、上記の二十両について早速請合いの印形をいたされ陣屋より下男一人を付け会所に送り戻られました。
さてさて腹立たしいのは、まるで我々を咎人のように扱い、残りの五人にはどのような様子であったかは口止めし、次に大福村の平兵衛が行き、同じ様に印形し、その次に当村の九兵衛が同様に二十両の請合い印形をし、その次に大福村庄屋藤助が同じように六十両請合印形され、その次に当村庄屋助七良も同様に七十両請合印形されました。その後、私が呼び出され、川原惣右衛門殿がおっしゃるには、上記五人の者、
皆この度の御用金、相違なく請合印形致した。その方も百両、相違なく請合印形致す様にきっと申し付ける、との事。
私は嘆きながら、私は近年不幸続きで妻子共、大病が続き、その上、相果て不幸せな事で、これまで何度か御用金を差し上げ、殊の外金回りが悪くなっております。どうかこの度の御用金については、ご容赦下さいます様と申し上げました。また恐れながら私は先年戌の七月に村方御用で江戸に下向した際にお殿様から、新兵衛その方はこれまで度々御用金に精出しし誠に神妙である。今に返済しておらず、その方が難儀していることは尤もである。勝手向き持ち直し次第、返済いたすので、今少し待って欲しい、左様心得よ、と有難いお言葉を頂戴いたしました。
そう言う事もあり、また度々これまで御用金を差し上げております故、今回の御用金は何卒、ご容赦下さりませ。とは言いましてもこの度はわけても御大切な御用と心得ますので二十両はご用意させていただきます、と申し上げたところ、
続く