堀内長玄覚書(第三十一集)二百二番、二百十三番

堀内長玄覚書第二百二番
明和五年(1768年)子の正月二十七日に郡代の川原惣右衛門様と添役人の井上長兵衛様が当村の庄屋年寄惣代其の外、裕福な人々を残らず呼び出され、今年より村方の諸事を改め、ついては庄屋の北林助七良は病気故、息子の助五郎に役目を継がせ、年寄、
半兵衛と村役を勤め、そのほか丁支配人は八人で勤め、東丁は清八と新治郎、西丁は小兵衛と平兵衛、いぬい新町は金六と市兵衛、曽我と新地は孫七と喜三良と四丁に分かれ二人づつで毎月の江戸の月賄銀を取り集め世話するよう、また何事に寄らず村役人に相談するようにと申され、皆々承知をいたしました。
是より、庄屋年寄三人と井上長兵衛様が会所にて相談いたされ、当年より村方は倹約のため会所にて酒肴を会食することは、無く銘々自分の家で食べること、また是より町支配人は一人に付き米一石づつ、年寄は米二石づつ村より給付になりました。
※注 この頃より曽我町の区分は今風に言えば、東町・西町・北町・出屋敷および出屋敷新町に分かれ運営されるようになっています。
また諸事倹約のため、今風に言えば自治会のの定例会のあと食事が出ていたがそれも中止になり、役員手当も減額となった、と言う風な事が行われています。

堀内長玄覚書第二百十三集
明和五年四月十五日より雨天が続き百姓方非常に困っていました。
十五六日頃は少々天気が良かったので諸方、菜種の刈り干しをし、私の所でも菜種を一町分ばかり刈り干ししましたが、その後、雨が降り続き、麦も菜種もだいぶ腐らし綿も出来が悪く、六月五日の土用入りにようやく綿に肥料をやりましたが、時期が遅く、さてさて難儀な状態となりました。
ところが、五月晦日から今度は晴天続きで七月九日になって漸く雨が降り、六月の
一か月は照りこし、畑作は日やけ状態となり、稲作は大変良く、一反当たり二石から二石四五斗も取れましたが、綿作は一反当たり、六七十斤から八九十斤の出来でした。
※注 長玄さん菜種だけで一町以上も畑を持っており、そのほか綿作・稲作等、かなりの素封家です。