堀内長玄覚書(第三十二集)二百十六番、二百十七番

堀内長玄覚書第二百十六番
明和五年子の八月上旬、当村の井上長兵衛殿が江戸のお殿様より、役儀を召し上げられ平百姓に落とされました。この井上長兵衛殿と江戸のお役人との間でお役目の入れ替えが有り、井上殿は入れ替わりの上京をされましたが、そのまま帰村されませんでした。大変気の毒な事と思いましたが、お殿様が後に当村に入部された折、またお役目に復帰なされました。
※注 何らかの理由で武士階級の者が身分を百姓に落とされる、といった事が有った様です。

堀内長玄覚書第二百十七番
同年八月十五日に江戸から御用状が来ました。これは近々お殿様が領地へ入部されるに当たり、御陣屋の坪数と畳数・間数が何程、げつあん(料亭の屋号か?)、光岩院、
堀内新兵衛、畳数・間数が何程、等々委細を相違なく差し出す様にとの事でございます。この時節柄、お殿様の借金も手詰まりの時節柄、気の毒とは思いますが、昔よりこの方、この様な事は聞いたことが無く、またまた物入りな事と百姓方は案じ暮らしました。
※注 お殿様のお国入りに際し、供廻りを含め宿泊場所確保のための調査かと思われます。ただ、その接待は百姓方の負担となり、また幾ばくかの小遣い銭も用意したようでなかなかの物入りだったようです。今回、長いので翻訳は省きますが、お殿様入部の際に、伊勢屋道寿老に、長年色々と寄進したことに対し、お殿様から羽織を賜っていますが、そのお礼に何両かのお金を包んだところ、この様なはした金を差し出しおって、とお殿様が大層立腹した場面があります。この節、要は何かに付け金品の要求があった様です。