堀内長玄覚書(第三十四集)二百二十六番二百二十七番

今回から三話連続で一揆の話になります。長くなるので二集に分けて掲載いたします。非常に緊迫した場面が続きますが、現代語訳では迫力が有りませんので、原文の書き下し文で紹介します。原文は漢文調で書かれている部分が多くあり、また助詞、送り仮名、主語等の省略が多くそれらは可能な限り補ってまいります。文中に我等と言う表現が多く出てきますが大抵は複数ではなく私と言う単数です。なお候は「そうろう」とお読みください。
堀内長玄覚書第二百二十六番
明和五年(1768年)子の年、世上共百姓一揆出し候事霜月二十四日夜南都興福寺御下十三ケ村百姓申し合わせて、大安寺村に庄屋代官其の外右御役人へ御出入り之百姓四人と之有り候ところ、この家々共微塵に打ちつぶし大騒動に相成り候事、此の事当国一揆の初りなり。
※注 庄屋はたいていの場合、百姓方ですが、この場合は百姓に敵対した状態です

堀内長玄覚書第二百二十七番
同月二十九日夜、池尻神保様(旗本の神保氏。池尻や畝傍、土橋、北妙法寺、地黄、五井、寺田、大谷、慈明寺などをを領地とした大身の旗本。東京の神田神保町はこの神保氏に由来する)下十五ケ村困窮故一揆出し、同日深田池の堤に寄り集まり、かがり火たき、人数千人余り寄り候て願相談当年の御免定、さて又下地不納銀御領内御定免等の願い御聞き届けなさられ候えば、池尻御屋敷へ押し寄せて、こぼち候て、それより人々村々立ち退き候由の相談相極め候由にて、事すさまじく大騒動相見え候ところ、これより池尻御屋敷より鉄砲打ち放し有之候えども、右百姓散り申さず由にてそれより御代官伊ノ又(猪股か?)殿と申す役人罷り出られ、色々と申され候えども百姓聞き入れず、只今右願いの御聞き届け、御申し渡し下され候へば人々引き戻り候と申し候に付き、然らば右百姓願いの通り御聞き届け相違なく、この猪股が請け合い、刀にかけて江戸表に願いつめ、命限りに申し上げ、惣百姓相続の儀に候えば右願いの趣き固く請け合い候と御事にて、皆々得心致し、引き戻り候事然るべくと百姓申し候は、若しまた右願い御聞き届け御座なく候えば大庄屋衆三人と御代官衆と百姓方へもらい候て、右の通りの百姓なし勤め見たく候事と口々に申し皆々引き戻り候由なり。
それより田原本御下惣百姓申し合わせ御知行所大庄屋等へ詰めかけ是も右同然の一揆起こし、それより芝村(桜井市芝)御下右同然、これは吉野より数千人詰めかけ候由。
それより多武峰御下百済村広瀬村より、藤の森村大庄屋辰巳佐助殿に詰めかけ、家こぼちかけ候儀、この儀承り候所、これは佐助殿に惣百姓より、うらみは之無く候えども、藤の森村方同心致さず候につき多武峰へ相知れ候様に、寄せ掛け候由にて、大庄屋佐助一人の難儀致され候て、それより多武峰より百済村広瀬村、呼び付け御吟味有之候ところ、段々右村々申し訳なく、段々御詫び申され候えども御聞き入れ之無く候へば手錠(てぐさり)閉門等の過怠にて右村々役人明くる年四五月頃までにも難儀致され迷惑に及び罷り有候由 。
それより、郡山御下右極月十七八日頃に至り御知行所村々大庄屋へ詰めかけ、これも右池尻の御下の通りなり。百姓願筋の由、段々に人数集まり、所々方々の森の内、又は宮森等に寄り村々へ寄せ掛け心得ずの村にては大勢の人々養いくられ候様と申しかけ候て心得の人これ無く候えば大勢の人暴れ、食い致して難儀いたし、それより段々人数二三万人も集まり、鉦・太鼓・ほら等吹きたて候由にて、さてさて大騒動。郡山御門前まで詰めかけ候由にて、段々御役人罷り出で、御挨拶有之候由候ところ、人々口々に申して事済み申さず、それより右の頭取人数御吟味有之由にて相済み申さず由なり。
然るに当村にてその節、惣百姓段々寄合い、御陣屋へ詰めかけ候上にて、当村方に
二三人惣百姓へもらいたく願い申し上げたく由にて相談相極め候由、いかなる事に候や戸屋孫兵衛の家こぼちかけ、れんじ戸、障子、竃(へっすい)、なべ、かま等を打ち砕き、さてさて恐ろしき事にて、村中大勢より集まり候へば、夜分の事、顔も相知れず
その時、村役人方会所に詰め合わせ候て、村役人方より段々声掛けしずめ候て、ようようと引き去り帰り候事なり。然るに右の通り成る一揆おこし国々までも有之候由、色々にうわさ有之候事なり。
※注 文中の右とあるのは原書は縦書きで先に述べたの意で横書きなら上とすべきものです。
一揆の発生は、どこかで火が付けば連鎖反応的に各地に広がった様です。ついには曽我村にまで派生します。次回は曽我村の一揆の実情となります、