堀内長玄覚書(第三十三集)二百十九番

堀内長玄覚書第二百十九番
明和五年(1768年)子の七月中旬に、当村へ備後の国、安部伊予の守様の百姓の十四歳になる娘がお伊勢参りに行く途中に連れ人から離れ、その上病気なって弱々しい状態でやってきました。そこで、当村から送ってやろうと、色々と世話をいたしましたが、段々と弱ってきました。当村の医者の安戈が色々と療治いたしましたが、段々病気が重くなり、ついに病死いたしました。
そこで、大坂の安部伊予の守様の御蔵屋敷に届けを出しましたところ、当村にお役人が一人来られて、当地にて後処理をお願いしたいとの事でございます。
そこで、南都の御番所に届けを出し、当村の光岩院にて土葬いたしました。
その後、大坂蔵屋敷から役人一人が来られ、光岩院と庄屋助七郎と年寄新兵衛と同じく半兵衛に金子百匹づつ、御礼として差し出されました。
この様な事はこれまで無かった事なので、江戸のお殿様に報告すべきと思い、当方の役人の渡辺友右衛門様に申し上げたところ、この様な事の報告は無用との事でした。なお、村方の者が貰った金子は村算用に繰り入れました。
※注 氏素性の分かっている他国の者が行き倒れた場合、どの様に処置したのか、色々と良く分かる記録です。こう言ったことは歴史書や教科書にはなかなか載っていない貴重な記録です。