4月の回覧板

令和4年度総会資料回覧の結果について

桜の木の消毒について

クリーンデーについて

粗大ごみ・資源ごみの収集日について

露張りについて

第一回防災委員会・防災会総会資料について

粗材ゴミ収集日

明日4月26日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は19時から21時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第三十七集)二百三十一番、二百三十二番

堀内長玄覚書第二百三十一番
明和五年の十二月末に新たに郡代となった庄田氏がにわかに江戸に下られました。
道中早打ちにて、極月二十五日暮れ六つ(午後5時~6時頃)に出立され、大晦日(十二月三十日)に着くよう昼夜五日切りの予定で出立されました。
出立に先立ち持参金百両か五十両を村方に用意するよう仰せ付けなされましたが、前書の通り百姓は行き詰り状態で百姓からは少しの金も出さなかったので、庄田氏より田原本の安部田屋から金を借りこの証文を村方に差し出す様仰せ付けられましたが、役人が申すに、先年お指図により安部田屋から銀三千匁(約五十両、五百万円ほど)を村方印形にて借りましたが、お殿様より返済が無く、段々と返金の催促が来て更に南都の奉行所に出訴されました。村方も迷惑し、ようよう大坂の伊勢屋平兵衛に借り換えして安部田屋に返済しましたが、大坂への借金は残ったままの状態で、またまた村方印形にての借金は出来ませんと言ったところ、庄田氏殊の外なる御腹立ちでしたが理詰め故(村方に理があるので)是非なく安部田屋へは庄田氏の一判にて借用し、急ぎ江戸に出立されました。その際、庄田氏は陣屋に残る役人の森田甚太夫、竹田安高、井上長兵衛らに、庄田が留守の間、どの様な催促が来ても、一銭も出すことが無い様に,村方にもよく心得させ(百姓から催促が来ても金を出さない様に)と言い置かれ、極月二十五日暮れ六つに出立され、晦日の夕方に江戸に着かれました。
今回の江戸への出立は、庄田氏がどの様な思し召しか、江戸の殿様からの御呼出しも無く、百姓方から頼んだことも無く、庄田氏一人の思案で行かれた様です。其れより、明くる丑の二月十一日に当村にお帰りになられました。
※注 急いで行けば、江戸までまる五日で行っています。それにしても当時の人は
相当の健脚だった様です。

堀内長玄覚書第二百三十二番
明和五年子の極月三日、孫のおでんが疱瘡で死にました。法名は釈尼妙好で、この子の母親も死んでおり、後添えの母も亡くなっており、妹のおるいも死んでおります。
残るは、このおでん一人で父親の喜平次はこの子一人を楽しみに可愛がっておりましたが、力落としの様は筆にも尽くされません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、御催促(仏が迎えに来る)の事と皆々相心得ることと存じます。
※注 天然痘は奈良時代の大爆発的大流行以来、肺結核と並びまさに国民病と言えるものでした。幕末に日本に来た外国人は、あばたの子供が多い事に驚きの目をもって見ています。昭和20年4月という終戦直前の混乱期においても、この地で種痘が行われており、その証明書が残っています。
江戸時代は、人生、まさに死と隣り合わせだった事が良く分かる記述です。

曽我川堤防の桜並木の消毒について

曽我町の皆様にお知らせ致します。

曽我川堤防の桜並木の消毒を本日午後1時より実施致します。

近隣のご家庭に於かれましては、戸外での子供さんの遊び又、

洗濯物等の干し物、窓の戸締り等にご配慮いただきますよう

宜しくお願い致します。

 

曽我川堤防の桜並木の消毒について

曽我町の皆様にお知らせ致します。

曽我川堤防の桜並木の消毒を明日4月23日午後1時より実施致します。

近隣のご家庭に於かれましては、戸外での子供さんの遊び又、

洗濯物等の干し物、窓の戸締り等にご配慮いただきますよう

宜しくお願い致します。

堀内長玄覚書(第三十六集)二百二十九番二百三十番

堀内長玄覚書第二百二十九番
明和五年子の年、江戸で謀反人が出ました。この人は大弐(山形大弐、江戸時代の儒者で思想家)と申す剣術指南で先年の由井正雪、丸橋忠弥に勝る人との事です。有難くも御公義様の御威光にて取り納められました。諸人、有難く思った事です。
※注 世上名高い由比正雪の乱や山形大弐の事件など江戸で起こった事が、赤穂浪士  の件もそうですが、結構こちらにも伝わってきています。

堀内長玄覚書第二百三十番
明和五年子の極月、前に述べた庄田氏が下市に帰られました。是までは浪人で、あちこちに住まいされていましたが、この度、お殿様が当村に入部された折、二百石の格式で郡代にお召し抱えになられました。下市に帰られる際、駕籠に乗られ、挟み箱に槍持ち中間、そのほか足軽に草履取りなど十人ばかり従え下市町に帰られました。それより三日の逗留の後、極月二十二日に当陣屋にお戻りされました。
※ 多賀氏の領地を治める郡代(代官)は多賀氏の家来と思われがちですが、実際は下市の浪人の庄田氏が世襲の様に召し抱えられています。時には川原惣右衛門の様な
渡り役人を召し抱えた様な事もありました。

堀内長玄覚書(第三十五集)二百二十八番

堀内長玄覚書第二百ニ十八番
前略(明和五年十二月十二三日頃と書かれています)
是より惣百姓下地よりの訳合いに腹立ち致し、当村惣百姓腰をかがめ、一同に申し合わせ候は、下地より割付銀、御用金、銀札引替等、書付まで御取り置きなさられ、御年貢時に下しなさられ候約束の所に、困窮の百姓に訳立下しなさらず、最早この上致し方之無く候えば、御請け申し候事相成り申さず。何事に寄らずこの後川原惣右衛門申し付けられ候事、聞き入れ申さずと惣百姓より口々に悪しく申し立て候に付き、惣右衛門、段々不首尾に相なり候て極月十六日に惣右衛門、丹州へ罷り帰り候由を百姓方に承知致し候に付き、当村方百姓申し合せ、御陣屋に詰めかけ申し候は明日より丹州に御帰りなさられ候由承り及び候、其れにつけ五年以前申の年、御用金厳しく仰せ付けられ候に付き、差し上げ置き候此の金子の儀、其の節川原氏申され候は、此の金子に付きこの惣右衛門申し付けべく候義、如何様なる儀出来致し候えども、我等役儀相勤め候えば百姓方に一分も難儀かけ申さず、これ迄の役人の申し付け候は相替わり、きっと返済致し遣わし候所きっと差し上げ致し候様と御申し付けの事、なお又銀札引替の儀も村中の書付御取置きなさられ、この儀も戌の御年貢次に下しなさられ候はずの約束、今日に至りそのままに捨て置き下され候事、引替所九兵衛となれ合いになされれ候や、右の口々早々訳立候はば故郷へ帰し申し候。もし訳立相済み申さず候はば、この村方へ惣右衛門もらい候て我々共の様に百姓致され相続なり候ものか、ならざるものか、為見致したく候事と惣百姓口々に申し候へば川原惣右衛門一言も無く、一揆の百姓方申し候は、最早この後、井上氏申し付けられ候義も知らず請け申さず候、これまた口々に申し候。其れに付け惣百姓口々に申し候は、腰を据え、おのれ惣右衛門め、是迄は御郡代と存じ奉り候て、何事にても請け候所、ようもようも是迄御百姓を犬か猫の様に、百姓を、どうしおれ、こうしおれと、非人、乞食同然に申し、かりそめにも権威にて(権力を笠に着て)御百姓をたたききめ付けようもいたしたな。おのれ惣右衛門め、どこの牛の骨やら馬の骨やら知れぬせぬやつが、御百姓を存分にようもぬかしたな。最早百姓も命限りに候えば、是まで上げ置き候御用金、先納銀、銀札引替等、訳立済まさず候はば是非共惣右衛門め、もらい候と、口々申しに付き、大勢の人々大音にて余りに厳しく申し候えば、その時川原惣右衛門、色香をちがい(顔を青ざめ)罷りあり候。その時、庄田氏その場に御出でなさられ、、庄田氏のひざ元へにじり寄り、こわがり、さてさてその時惣右衛門が有様、申すばかりと無く候。その時庄田氏より惣百姓へ申し渡され候は、この度我等事御殿様当地へ御入部なさられ候に付き、この庄田召し出でられ、何事に寄らず二千石百姓共この庄田に預けおき候と御意有之候えば御殿同前に我等事存じ候か、然るべく候えばこの庄田が右川原、井上一件の事預り置き候ほどに、惣百姓共、差し控え候様と仰せ付け候えども、百姓方口々に申し候は、庄田様御意に候えども、何分惣右衛門は固く申し付け置き候金子供右申す通りの訳合いに御座候えば、是非今夜中に訳立致され候様に御取り計らいなし下され候えば有難く存じ奉り候。若し訳立相済まず候えば、明日丹州へ帰す事なり申さず候、若し帰り候えども是までの様に、御供廻りの、送り駕籠のと申す事、一切なり申さず候と、大音上にて口々大勢百姓より申し立て候所、庄田氏より色々と申され、ようよう預りになさられ候て、申し詰めなさられ候えば、惣百姓御陣屋より皆々引き帰り申し候。それより右川原惣右衛門、同夜半立ち帰り候様に身拵え致し候えども、一人も送り供に参るもの之無く候へば、主一人うろうろと致し候所、ようよう井上と藤井と世話取り持ちにて、孫八一人雇い出し候て、この時は惣右衛門より自分に質銭三百文、柏原まで送り相頼み候はずにて出立候所に、その時江戸川合吉右衛門申され候は、出立の儀今ひと時御待ちなさられ候が然るべくと、若し百姓方に恨みある人有之候て、如何様なる仇いたし候や、夜半頃に候えば先ず御控えなさられ候て、夜明けに出立なさられ候が然るべくと申され候に付き、夜明け方より裏道はかの尻さして出行き、それより土手屋、灰屋、稲屋等のぞき、忍び出しは、尻からげすごすごと惣右衛門一人と孫八と、こそこそ逃げ帰る有様は心地よかりし次第なりと、皆々申すなり。これより、此の事世上共色々のうわさ有之候事、前代未聞これ無く候事と申す事なり。
※注 堀内長玄覚書のクライマックスとも言うべき場面です。百姓方の不満が爆発しいわゆる尻をまくった状態です。普段は武士に対し、へり下っていますが、ここにきて相当汚い言葉を代官に浴びせています。
天理大学の谷山正道先生が「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」と題して論文を書かれています。天理大学図書館でコピーしてもらえます。

堀内長玄覚書(第三十四集)二百二十六番二百二十七番

今回から三話連続で一揆の話になります。長くなるので二集に分けて掲載いたします。非常に緊迫した場面が続きますが、現代語訳では迫力が有りませんので、原文の書き下し文で紹介します。原文は漢文調で書かれている部分が多くあり、また助詞、送り仮名、主語等の省略が多くそれらは可能な限り補ってまいります。文中に我等と言う表現が多く出てきますが大抵は複数ではなく私と言う単数です。なお候は「そうろう」とお読みください。
堀内長玄覚書第二百二十六番
明和五年(1768年)子の年、世上共百姓一揆出し候事霜月二十四日夜南都興福寺御下十三ケ村百姓申し合わせて、大安寺村に庄屋代官其の外右御役人へ御出入り之百姓四人と之有り候ところ、この家々共微塵に打ちつぶし大騒動に相成り候事、此の事当国一揆の初りなり。
※注 庄屋はたいていの場合、百姓方ですが、この場合は百姓に敵対した状態です

堀内長玄覚書第二百二十七番
同月二十九日夜、池尻神保様(旗本の神保氏。池尻や畝傍、土橋、北妙法寺、地黄、五井、寺田、大谷、慈明寺などをを領地とした大身の旗本。東京の神田神保町はこの神保氏に由来する)下十五ケ村困窮故一揆出し、同日深田池の堤に寄り集まり、かがり火たき、人数千人余り寄り候て願相談当年の御免定、さて又下地不納銀御領内御定免等の願い御聞き届けなさられ候えば、池尻御屋敷へ押し寄せて、こぼち候て、それより人々村々立ち退き候由の相談相極め候由にて、事すさまじく大騒動相見え候ところ、これより池尻御屋敷より鉄砲打ち放し有之候えども、右百姓散り申さず由にてそれより御代官伊ノ又(猪股か?)殿と申す役人罷り出られ、色々と申され候えども百姓聞き入れず、只今右願いの御聞き届け、御申し渡し下され候へば人々引き戻り候と申し候に付き、然らば右百姓願いの通り御聞き届け相違なく、この猪股が請け合い、刀にかけて江戸表に願いつめ、命限りに申し上げ、惣百姓相続の儀に候えば右願いの趣き固く請け合い候と御事にて、皆々得心致し、引き戻り候事然るべくと百姓申し候は、若しまた右願い御聞き届け御座なく候えば大庄屋衆三人と御代官衆と百姓方へもらい候て、右の通りの百姓なし勤め見たく候事と口々に申し皆々引き戻り候由なり。
それより田原本御下惣百姓申し合わせ御知行所大庄屋等へ詰めかけ是も右同然の一揆起こし、それより芝村(桜井市芝)御下右同然、これは吉野より数千人詰めかけ候由。
それより多武峰御下百済村広瀬村より、藤の森村大庄屋辰巳佐助殿に詰めかけ、家こぼちかけ候儀、この儀承り候所、これは佐助殿に惣百姓より、うらみは之無く候えども、藤の森村方同心致さず候につき多武峰へ相知れ候様に、寄せ掛け候由にて、大庄屋佐助一人の難儀致され候て、それより多武峰より百済村広瀬村、呼び付け御吟味有之候ところ、段々右村々申し訳なく、段々御詫び申され候えども御聞き入れ之無く候へば手錠(てぐさり)閉門等の過怠にて右村々役人明くる年四五月頃までにも難儀致され迷惑に及び罷り有候由 。
それより、郡山御下右極月十七八日頃に至り御知行所村々大庄屋へ詰めかけ、これも右池尻の御下の通りなり。百姓願筋の由、段々に人数集まり、所々方々の森の内、又は宮森等に寄り村々へ寄せ掛け心得ずの村にては大勢の人々養いくられ候様と申しかけ候て心得の人これ無く候えば大勢の人暴れ、食い致して難儀いたし、それより段々人数二三万人も集まり、鉦・太鼓・ほら等吹きたて候由にて、さてさて大騒動。郡山御門前まで詰めかけ候由にて、段々御役人罷り出で、御挨拶有之候由候ところ、人々口々に申して事済み申さず、それより右の頭取人数御吟味有之由にて相済み申さず由なり。
然るに当村にてその節、惣百姓段々寄合い、御陣屋へ詰めかけ候上にて、当村方に
二三人惣百姓へもらいたく願い申し上げたく由にて相談相極め候由、いかなる事に候や戸屋孫兵衛の家こぼちかけ、れんじ戸、障子、竃(へっすい)、なべ、かま等を打ち砕き、さてさて恐ろしき事にて、村中大勢より集まり候へば、夜分の事、顔も相知れず
その時、村役人方会所に詰め合わせ候て、村役人方より段々声掛けしずめ候て、ようようと引き去り帰り候事なり。然るに右の通り成る一揆おこし国々までも有之候由、色々にうわさ有之候事なり。
※注 文中の右とあるのは原書は縦書きで先に述べたの意で横書きなら上とすべきものです。
一揆の発生は、どこかで火が付けば連鎖反応的に各地に広がった様です。ついには曽我村にまで派生します。次回は曽我村の一揆の実情となります、