堀内長玄覚書(第三十集)百八十九番、百九十五番、百九十六番

堀内長玄覚書第百八十九番
明和四年(1767年)初九月に曽我森御やしろの上葺きを新しくしました。
大坂のやり屋町ひわだや平兵衛に代銀百二十八匁を渡し、また其の外東楽寺の鎮守の上葺きも致しました。さいしき(彩色か?)は座中の人々が出て行い見事にできました。
曽我森のさいしきは今井のべにや勘兵衛に代銀五十三匁を渡し、これも見事に出来上がりました。
閏九月六日にも東楽寺鎮守へ氏神様が御移りなされ、燈明、神楽、提灯などを上げ 氏子中、大喜びいたしました。

堀内長玄覚書第百九十五番
明和四年極月中旬に当村会所に何者かは分かりませんが、黒い羽織に頬かむりし、
火縄に火をつけ忍び入りました。これを、肝入りの吉兵衛が見咎めると、すぐに二で出しました。ところが、翌夜会所の門やに付け火が有り、少々燃え上がり、村中大騒ぎとなりました。その後、夜四ツ(10時ごろ)まだ村役人が引き上げず、村方算用の相談をしていたところ、会所の門や、屋根が燃え上がり、大騒ぎとなり、釣鐘・太鼓が近隣の村々にも聞こえ、さてさて大騒動になりました。
近村より見舞いの人々がだんだん来られ、気の毒な事です。
この後、会所について、もう売った方が良いとか、いや建てて間もないから、今少し様子を見てはどうか、と言った意見もあり、そのままになっています。

堀内長玄覚書第百九十六番
明和四年極月に当村柴屋小兵衛方に八木村より嫁取り婚礼をされたところ、その夜、祝いの人々が数百人も来、一同、鬨の声を上げ小兵衛の家の近年土蔵とも見事に普請されたのを打ち破り、れんじ戸、障子、なべ、釜等も微塵に打ち砕き、家の内の鳥かごを破り(鶏小屋の事か?)という乱暴狼藉でした。
笑止千万な事、先年よりこの様な婚礼祝いは聞いたことが無く、誠に気の毒な事でございます。
※注 現在でも祭りや成人式で若者らが暴れ回る、といった事がありますが、江戸時代でも同様の事が有った様です。さすがに今回はやりすぎの様です。

粗大ゴミ収集日

明日2月24日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は18時から20時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第二十九集)百七十六番百七十九番

堀内長玄覚書第百七十六番
明和三年(1766年)戌の八月十二日に南都御番所様より有難いお触書が出ました。
その内容はこれまでの様に何事に寄らず出訴に出た場合、そのかかり役人に金銀を以て賂いする事は固く禁ずる、と言うものでした。
もし、村々において、無宿者等の行き倒れがあれば、何事に寄らず、御番所より検死役人を派遣するが、駕籠にて送り迎えは固く禁止する。なお又、内証にて金銀を例え少しでも袖の下へ入れ、賂いするような事が聞こえれば、その村々の役人は言うに及ばず、賂いを渡したものも厳しく咎める。そのほか、村々の番人共、いぬ人になり さる人になり、長吏へ内証にて知らせ、町人に賂いを要求するなどの行為は、
盗賊非人が政道を行うのも同然である。何事に寄らず近年はそう言ったことがあり、不届き千万であると思う。今後は御番所への願いの筋が有った場合、今までの様に宿屋で日を重ね、多くの出費が重なるような事が聞こえた場合は、きっと厳しく吟味するものと心得よ、との事です。
また何事に寄らず願い事が発生すれば諸役人に色々と差支えもあることから、今後は願いの筋は訴状に書き、内に宛名を書き封印して御番所に直に差し出すようとの有難いお指図です。
私はついこの前、八木権七・今井治右衛門の件で訴えた件も、六両ばかり無益に費やしましたが、上記の有難いお触書がもう二十日ばかり早かったら、そんな難儀をしなくて済んだものと、少々残念ではありますが、国中の者どもみな今回のお触れで大喜びでございます。

堀内長玄覚書第百七十九
明和三年戌の九月朔日、私宅の養子小八郎が曽我座の当家でしたが、妻女のおすゑが盆前から病気が段々と悪くなり、毎日案じ暮らしておりました(この時おすゑさんは十八です)しかし小八郎は座のお金も受け取っており、もう日にちも無く(村の秋祭りですがく9月1日から座の当家に当たった家で仮屋立て神様をお迎えし、7日の祭りが済めばまた神社に帰られます。その間に不幸ごとなどがあれば大変です)もし神代(神様がいらしている間)の間に往生するような事が有ったら氏神様への粗末になり、世間で何を言われるか分からない、さあ、どうしたものか、今更ほかの家に当家を頼みも出来ずしかしひょっとしたら病気が快方に向かうかもしれず、凡庸な人間の事ゆえ、心の迷いも悲しく思います。
もし、九月一日から七日の間におすゑが亡くなる様な事が有れば、氏神様の御移りなされている間に何という事、と世間の口も有り案じ暮らしていましたが、もはや早くも八月の晦日になり、是非なくこの家に氏神様の仮屋立て、そのほか米・肴など諸事の拵えをし、座家中へ呼び出しを遣わし、皆々様が集まり来たり、宵宮の箸けずり等首尾よく勤まり、明くる九月朔日早朝、曽我大神宮様をお迎えに、当人の小八郎と私が神社に参り御機嫌よく御仮屋に移られ皆々有難く御礼申し上げました。
四ツ時分(午前10時頃)に座中衆に本膳を出したところ、おすゑも重き枕を上げいう事には「今日は目出度い小八郎様の御膳ですので私も御膳に座りたく」と申し、皆々悦び
早速に本膳に座らせました。病人殊の外機嫌よく、少しずつ食べ、私共も大喜びでしたが、明くる二日に容体が重くなり、医者衆も色々とお薬を加減されましたが、元気なく、気の毒千万に案じくらしておりましたが、四日八ツ(午後二時頃)時分、病人のおすゑが申すに「曽我大明神様がご機嫌よくおいでなされている間、この間は阿弥陀如来様を拝むことは遠慮しておりましたが、心に掛かっておりますので、恐れながら、阿弥陀如来様を拝まして下され、と枕を上げ願ったので、この事は有難い事と、早速屏風を引き回し、御机を直し三ツ具足、香、花を用意し勤行をいたしましたら、病人おすゑも有難くも殊の外なる悦びで「かようなる浅ましき者をお助け下さる事の嬉しさ、病人おすゑ、涙かぎりなき悦びでございます」と申し、皆々有難くご報謝、お念仏の悦び、筆にも尽くされません。
然るに明くる五日に御供になり、この家の内で湯神楽を上げるが神様の御機嫌は如何かと案じておりましたが、殊の外なる御機嫌でご満足に思し召し、一同の者、皆々喜びました。
明くる六日八ツ時分に曽我大神様御榊を神主四郎三郎殿が神輿に移し。送り御供当人の小八郎が御幣を持ち、酒・さん米等を下女に持たせ、喜太郎も御供で装束を改めて出立するところ、病人のおすゑも大病の枕を上げ、見送りましたこと、この悦びは鍵なくうれしい事でした。
然るに明くる七日は当村神事のところ、段々病人弱り衰え、もはや臨終も間近と相見える状態となりましたが、いまだ曽我大明神様、御仮屋にいらっしゃり、御幣も当方にある状態で、さてさて心配な事。そこで神主四郎三郎殿を当方へ呼び、病人が心もとない状態であることを告げたところ、四郎三郎殿、それならば今晩に御幣を神社に移しても良いでしょう、と仰せられ、早速にお神酒、さん米等を拵え、神主に渡しその夜に神社に帰られました。
そこで、その夜に御仮屋を解きかけましたが、あまりに夜更けで近所への聞こえも如何なものか、という事で差し控え、明くる八日、明け六つ時に仮屋を解き、後仕舞い掃除などをしていたところ、時を同じくしておすゑの様子が変わり、「皆々様へ暇申し上げます。喜平次様、小八郎様の事頼みます。喜太郎様はおとわ様もこと頼みます。」と申し、その日八日五ツ(午前八時頃)時、お念仏とともに、おすゑ、有難く往生いたしました。
※注 当時の祭りの時の段取りなどがよくわかります。また危篤状態の病人を抱えながら一方で祭りの当家になり、長玄さんの心労がよく伝わってきます。それにしても
意識もあり、別れの言葉もちゃんと言える状態から亡くなるなど、現代では考えられませんが、当時の臨終はこの様なものだったのでしょう。

 

堀内長玄覚書(第二十八集)百七十五番

堀内長玄覚書第百七十五番
明和三年(1766年)戌の六月に南都(奈良)御番所のお奉行様が代わられました。
酒井丹波守と申すお方で、着任されて五十日ほどの間に、諸役人や在在の町方役人や百姓方、其の外、下々番人に至るまで、結構なお殿様と申しております。
如何様なる難しき事が発生しても事やわらかくお捌きされ、そのお捌きも全く隙がございません。
これまでは、御番所の役人衆や町々村々の番人で犬と言う人、猿と言う人(最下層の番屋の役人、役人と言うより中間で有体に言えばゴロツキの様な感じで、有ること無い事を言い立て、金にしていた様な輩)随分と気まま勝手に動き回り、御番所のお殿様も知らぬ顔で、犬ひと、猿ひとから長吏、村々の番人は鼻高になり、例えばの話ですが村に非人の行き倒れが有っても、無宿人の行き倒れにて、簡単に処理できるところ、殊更に難しく南都の長吏に届け、それを受け、南都の御番所からはお目付け役人同心衆が南都井上町から駕籠に乗り、其の外、長吏と番人と上下十二三人も出て
道中の飯酒、行き戻りの旅銭も村方持ちで庄屋年寄が付き添い、南都御番所前の宿まで行き、早速に御番所に書状を提出しても一向に沙汰が無く毎日毎日、宿屋で寝起きで金もかかり、仕方なくその役人にも金を包み、この役人にも金を包み、ようように
吟味が始まる有様で、非人の病死行き倒れごときで物入りになり米に直せば三十石ほどの掛かりになることです。そこで、先年より当国(大和)質屋仲間できましたが、八木出身の味噌五郎と申す質屋頭がおり、質屋仲間の株一株につき銀八匁づつ出して、
この者に渡しておけば、そこから金が役人衆に渡り、容易に事が運び、早速に相済むこととなります(こうやって質屋の株仲間も袖の下の一端を担っています)
また、少々の金持ちの人で、質屋の切手を持たない人が少しの質物で銀銭を貸すことが有りますが、それを咎め、失せ物吟味と称し、十五六人の役人が出張り、その人の家財を付け立て、帳面等も取り上げ、土蔵を封印し、殊更難しく話を持ち掛け、結局袖の下を二両、三両、五両、十両と役人銘々の心次第に出し、またその様な役人が来ないように下役の長吏、番人に内証にて渡したり、そういった賂い銀が当国(大和)中でおよそ二千両ほどにもなった由でございます。
南都御番所役人、其の外長吏、番人、いぬ人、さる人、皆々悦び油断していたところ、今回の酒井丹波守様、打ち換えるようなご吟味にて、八月上旬に番所役人、長吏いぬ、さる、番人を召し出し、在々の質屋吟味に付き内証にて過分の金銀を袖の下として取っていないか厳しく吟味されました。
さて、皆々お役人、其の外の人々皆な目を覚まし、長吏、村々番人等これまで、ゆすり取りにしてきた金銀を内証にて戻したり、其の外、役人の遠慮もあり、閉門もあり長吏が一人入牢になりました。
それより、村々番人共、倹約になり、世上事納まり、有難く、この度の南都お奉行様は広大の御慈悲なる方でお捌きの次第有難く、皆々南都には足を向けて寝ない(原文は南都之方へ寝伏致スにも、心をつけ寝候様・・)ような、諸人の悦びでした。
それより、南都奉行所に告げ口をする、いぬ人、さる人もいなくなり、世間静かになり、国中の人々、大いに悦びました。
※注 名奉行で知られる酒井丹波守忠高が赴任してきた時の話です。
当時の役人の袖の下の有様や、嫌われ者の番人の有様がよくわかります。
なお、この酒井忠高は上方落語「鹿政談」に登場する名奉行のモデルになった人と言われています。