堀内長玄覚書(第二十五集)百五十二番の二

堀内長玄覚書第百五十二番の二
二十両の目くされ金ようもおのれの口から吐き出しおったは、と申し私の一生の無念、筆にも尽くされません。
川原氏が申されるに、いよいよ百両が出来ずば内六両三歩は了見してやるが残りの
九十三両一歩はきっと請けるか、もし不心得ならば今夜からでも江戸へ下って御前にて申し訳いたすか二つに一つじゃ、返答せい、
と私の頭の上に立ちかかり大声にて厳しく申され、さてさてこの時の難儀、泣くにも泣かれず立つにも立たれず大難儀でしたが心を強く持って
お願い申し上げました。すると川原氏は、然らば是非に及ばず、これよりおのれが家に行って家財一切売り払い百両にならないなら、
それで了見してやる、もし百両が五百両になろうとも、成り上がり次第に取り上げる、いかにいかにと大音にて立ちかかり、申されました。
その時、居合わせた村役人の半兵衛殿と庄屋助七良殿とが取り成しをされましたが聞き入れられず、私はこの時、もはやこれは私一生の
難題と心を据え、私の家財を売り飛ばすとされるなら一家中呼び寄せ、如何様にされても致し方なしと申したところ、
惣右衛門(この辺りから敬称の殿がなくなり、氏または呼び捨て)身拵えにて、下役人藤井伊兵衛に矢立を持たせ供連れに提灯を持たせ
庭まで降りかかり、私を引き連れ我が家に行こうとするところ、助七良殿、半兵衛殿が両方から私の羽織の裾を抑え申されるに、ここの所はひとまず印形され、その後で如何様にでもお詫びなされては、とのこと。差しうつむき思案をしたところ、これ以上大騒動になってもと思い、また五人の者、私に相談もなく印形したのも心外ではあるが九十三両一歩印形致しました。さてさてその時は心外とも腹立ちとも申す方もございません。倅、喜平次が迎えに来てくれて、その肩に寄りかかり、会所へ戻ってまいりました。その時、上記五人の者、会所の東北の方で心良く遊んでいるのを見ると大金の私の難儀を喜んでいるのかと、恨みに思ったものです。
それより極月十五日に内金五十両を上げ、残りは酉の二月に上げることと致しました。二月に残り金を上げる際に、上記九兵衛殿と川原氏は内外とも昵懇なので、今まで度々上げてきた御用金は年貢時に決済下さるように、また今回の九十三両一歩も私にとって大金なので、十三両一歩は酉の極月にまた残りは戌の年から四年の各年貢時に決済していただくべく証文をお願いし、結果受け取り証文を下されました。
この御礼に九兵衛殿に生鯛二枚を進呈いたしました。
然るに、上記八十両はいまだに決済されていません。
これより今年に至るまでの御用金は銀一万四千四百十七匁(一両はだいたい銀60匁なので約240両、約2400万円くらいか)にもなります。
身分不相応な御用金で迷惑とはこの事です。
※注 曽我村・大福村は旗本多賀氏の領地ですが領主の多賀氏は江戸暮らしで、領地の行政は郡代(代官)が行っていました。普通に考えれば郡代は多賀氏の家来と思いがちですが実際は違います。江戸初期から下市の浪人の庄田氏が代々雇われその職に就いていた様です。時々は川原惣右衛門のような、自薦の渡り役人が就いたようです。
この川原惣右衛門は長玄覚書を見る限り非常に無能で、渡り役人の性として領主の前では大見えを切り領民に、ただただ力押しに苛斂誅求な要求を突きつけ、ついには、一揆を惹起する事になります。