堀内長玄覚書(第九集)六十番六十一番

堀内長玄覚書第六十番
享保十四年(1729年)酉の九月朔日、私の息子の喜平次こと小市良が座(曽我座)の当人でしたが、この年は綿方が豊年でした。その日、私は曽我座の皆様に以下の様な事を申しました。
曽我大神様は当六日が夜宮ですが、このところ毎年あまりにもさびしく、夜宮と言っても遠路ゆえか氏子の参詣もあまり無く、暮れ方までに御湯かぐらを仕舞い、提灯等も暮方に持ち帰る有様で、もし雨でも降ろうものならわけて参詣人も無く、甚だ気の毒に思っています。ところで、幸いな事に東楽寺(今の真菅小学校の場所)に昔より鎮守の森があり、ここへ杉葉にて御神輿をこしらえ、毎年九月六日の夜宮に御さか木を移し、このところで御湯かぐら等をあげ、そのほか絵馬、提灯等も上げたなら、たとえ雨天でも皆々様が参詣されると思いますが如何でしょうと、曽我座の皆様に相談したところ、なるほど、これは賑わしくなり御尤もな意見と思います。
ならば、どうするか神様に聞いてみては如何でしょうと座の皆様がおっしゃったので、さっそく神主の四良三郎殿が玉ぐしを上げられたところ、曽我大神様御機嫌になられた様で、神輿の方に玉ぐしが上がりました。
それより、相談を相極め明くる二日より我が家の東の空家に座中の皆様が集まり、杉葉がこいの神輿を作り、飾り等、色々付け、殊の外見事に出来上がりました。
其の外、氏子より御迎え提灯を人々にこしらえ、太鼓・鉦にてはやしかけ、やたいの担いもの神輿かきの人々は、段だら鉢巻に浴衣を揃えて、殊の外道筋の送り迎え賑わしく、これはきっと神様も御機嫌に入られるでしょうと、皆々様よろこび申しました。
これより、御旅所にては、新町座からも提灯、そのほか立山人形や狂言等をいたされ、御神輿の御前にて、御湯かぐらが上がりました。
これは元々曽我森にて上がるはずですが、この六日の夜宮より、鎮守の森で上がるようになり、大層な賑わいで、氏子や両座中の人々共、大いに喜ばれました。
それより、七日の神事の夜、御さか木を神輿に移し、お迎えの時と同様に神社にお送りし、七日の夜も大層な賑わいでした。
ところで、この年の閏九月(祭りの有った通常の九月の後、暦の関係でもう一回九月が繰り返されます)四日夜、殊の外なる大風雨で、曽我の森の宮の後ろに有る大木の大きな枝が裂け、宮の上に倒れ掛かりました。ところが不思議な事にその時、宮も台座ごと前に押しやられ、被害は全くありませんでした。
この宮を直すに当たり、又また閏九月六日に鎮守の森に移し、湯かぐら、提灯等を差し上げました。曽我大神様、よほどこの御旅所がお気に入りなさられた事と氏子の方々はおっしゃり、神慮にかなったことと、座中の皆々様も大喜びで、それ以来、毎年、この通りに取り行われるようになりました。  以下略
※注  昭和三十五年まで、秋祭りは両神社からえべっさんの広場(今の第一防災倉庫のある場所)に有った御旅所に神様が動座され、そこで行われていました。広場には多くの屋台が出、それはそれは大層な賑わいで、クライマックスは太鼓台の巡幸でした。この時の写真は「曽我町思い出の記録」のDVDに多く納められています。
享保十四年より232年に渡り執り行われてきた神事が今途絶えているのは誠に残念ではありますが、心に留めておいていただければ、と思います。
ところで、昔の人々は信仰心が篤く、また今の様に多くの楽しみが無い時代だったので祭りなどは非常に大切にされた、と何となく思いがちですが、何の事はありません。曽我のいわゆる本村から宗我都比古神社まで距離があるとの理由で、お参りを怠けていらっしゃいます。何だかちょっと笑えます。

堀内長玄覚書第六十一番
六十番で述べた通り、享保十四年に初めて神輿を作りましたが、この時の神輿は高さ五尺、幅二尺八寸で四方の高欄は赤く塗り、柱は青くし、其の外全て杉の青葉にし、荷い棒は二間半で、享保十八年までの四年間毎年、上記の様に作りました。
しかし、毎年お世話される方々の負担も大きく、気の毒な事でした。

そこで、享保十九年丑の年、図の様な神輿を新調いたしました。
これより毎年、九月朔日に、この神輿にて座の仮屋に御さか木を移し、九月六日の夜宮に神主四郎三郎(しらざぶろう、漢字は四良と書く場合もあり、適当と言うかいい加減なところがあります)殿、守り奉じ御旅所に移し、七日の夜、神社に帰られるようになりました。   以下略

堀内長玄覚書(第八集)五十番五十五番五十六番

堀内長玄覚書第五十番
享保八年(1723年)極月二十日に、郡山から奈良にかけて、書出しを配りに回っておりましたが、大安寺村西の大川が、この年の八月の洪水で堤が切れ、大きな淵になっていました。そこに年の頃五十くらいの男が、この高堤を通るとき深みに、真っ逆さまにはまり込みました。私は半丁ばかり手前で見ておりましたが、辺りには誰もおらず、男が這い上がるかと思っていましたが、頭が泥の中に入り込み、泡を吹き出し、足ばかりが見苦しく出ておりました。このままでは水死すると見えたので、私も淵まで行き、その人の足を引き寄せ、堤の草を左手に巻き付け、右の手でようよう引き上げ、堤の上まで引き上げました。その頃、段々と人々も集まってきて、気付け薬等、色々用意して下さったので、男は泥水を吹き出し、少し心ついたように見えました。そこで私は大声でどやいたところ、郡山の岡町の者と言う声がかすかに聞こえました。
そうしたところ、郡山から奈良へ駕籠に乗って行く人に出くわし、訳を話して、駕籠を譲ってもらい、男を乗せ、郡山へ行かせました。
その後、奈良で用事を済ませ、翌日帰ってご両親にその事を話したところ、殊の外なる事として、ご両親も大層喜ばれました。

堀内長玄覚書第五十五番
享保丑の年(享保6年、1721年)諸国とも、田作りに、さいわい虫と言う大むしが入り殊の外なる大不作となりました。
この年は土用までは田作りも出来ていましたが、段々出来が思わしくなくなり、
(以下意味が不明の部分があるのでほぼ原文借用)いな草五いと類、其の外坊主いねの類むし入り多く、一反に付き二三斗から四五斗取迄、けいね類(くず米のことか)は二石余りもあり(※途中注 当時一反(当時は約12アール)当たり平均で一石三斗から一石五斗くらいの出来、二石二斗も出来れば大豊作。従って平年の二割程度の出来)
西国筋は殊の外大虫が入り、それが段々とこちらに押し寄せてきました。
その結果、米相場が高値になり、九月から十月頃は上銀で一石あたり四十四五匁から五十一匁ぐらいだったものが霜月極月の頃は、九州が大虫の被害が大きいという事で大上がりになり、銀百匁を上回りました。
翌年の正月には諸色俵物が大上がりに上がり、世上、餓死する人が多く、非人等は所々で飢え死にし、町方の貧家の職人等は青ばれになり、道行にも、ひょろひょろとして、倒れていきました。見る目も不憫なことです。
その頃、多くの諸人の、はんまへ(飯米か)に正中栖お餅にいたし(意味不明のためほぼ原文通り)その様な人は中の上、それより下の人は、にでの皮をむき粉にして食べ、池の菱は取り尽くし、藤の若葉をむしって食い、そのほか色々な草木を食にいたし、命をつなぐ様な状態で、恐ろしい事でした。
更に、この前後の年は不作が続き、百姓方も綿に虫が入り、植田は不作が続き困窮しておりましたが、かたじけなくも、小百姓に至るまでも、飢え死にする人は一人も出ませんでした。
それは、かねてより、菜大根・干し菜等を用意し、命をつないだものです。
京・大阪・堺・奈良・郡山・上市・下市・今井・八木・御所・新庄・高田等の場所では身上のよろしき人は施行を出し、白がゆ、茶粥、または切手を出し、白米一人に一合づつ出すも有り、色々に施しをいたされ、ようよう、その年をしのぎ切りました。
※注  世に言う享保の大飢饉の有様です。庶民では、農業をやっていない職人などが真っ先にやられた様です。大虫の被害とありますが、これはウンカの被害のようです。令和2年にこの辺りでもウンカの大被害があり、全滅し全く刈り取りされなかった田圃もありました。現在でもそうなのですから、まして江戸時代の被害たるや如何ほどであったか、容易に想像できます。
それにつけても、色々な工夫と相互扶助によって乗り越えられてきた当時の人々には改めて頭が下がります。

堀内長玄覚書第五十六番
享保寅の年(享保7年1722年)秋作殊の外豊作で、諸色も段々下がり、米麦等も下値になり、その暮れは世上おだやかになってきました。町方は喜んでいましたが、百姓は綿作に虫が入り、ようよう二三十斤から六十斤の出来で、末百姓は困窮しておりました。

堀内長玄覚書(第七集)四十番四十二番

堀内長玄覚書第四十番
享保四年(1719年長玄さん数え20歳)亥の二月に私、喜太郎は高田の万戈村の七兵衛殿へ、養子に行きました。私は今まで木綿の商いはしてまいりましたが、七兵衛殿の家は百姓一筋の家で、にわかに毎日、野作働きで、水こえを持ち草刈りなどを言いつけられ、慣れぬ仕事で甚だ耐え難いことでしたが、七兵衛殿の家は身代がよろしき家で私の実家はその当時、万事不自由で身上も立ち難く、兄弟子供も多く、庄屋に未進も有り、肥代そのほか色々と借金もあり、実家の相続もたえだえの有様で、ご両親の艱難されていること、万戈村にいても、昼夜心にかかっていました。妻の、おかつとは内々に縁もあるわけですが、その時おかつは「お前様は今まで商いをされてきましたが、こちらに来てからは慣れない百姓の荒働きばかりで、大変に気の毒に思っています。また曽我村の実家はお前様の兄弟も多く、ご両親も大変に苦労されていると聞いています、私とお前様は懇ろな中で大変に残念に思いますが、お前様は曽我に帰り、これまでやってこられた商いに精出しし、曽我村の家を相続なされれば、ご両親様もさぞご安心されるでしょう、と思います。如何でしょう」と言ってくれました。
その時、私はなるほど、曽我の家を人手に売り渡すような事が有れば、私は万戈村で繁盛して暮らしていても、これは本意では無い、ここは曽我村に帰り、如何ようなる艱難苦労をしても、曽我村の堀内の家を相続するのが然るべく、と思い、享保五年四月中旬に曽我に帰ることと致しました。
その時、七兵衛様、持参金の銀一千匁(150~200万円位)をそのまま、持たせてくれました。その銀でなんとか借金と未進を払いましたが、手元には一銭も残らずの有様でした。そこで、煙草を買い内々で売ったり、また古手などを売り買いし、色々工夫し木綿の商いも段々と軌道に乗り始めるようになりました。
この事、毎年の算用帳に書き記した通りです。
※注  庄屋に未進とは、当時の年貢は庄屋がまとめて領主に払い、個々の百姓は庄屋に対し、相当額の年貢を納めていました。それの滞りを言います。
ところでこの話は大変、人情味のある話で、仲の良い妻のおかつさんは長玄さんの事を思い、別れを決意します。また義父の七兵衛さんも持参金をそのまま渡すなど、心温まる話です。
ここから長玄さん艱難辛苦の末、村一番の金持ちになります。

堀内長玄覚書第四十二番
享保五年、喜太郎(長玄さんの幼名)改め新兵衛と改名しました。(堀内家は代々当主は新兵衛を名乗っています。)
この時から私は木綿商いに精出しいたしましたが、元手銀が一切ありませんでした。
しかし、従来からの馴染みのある人々もおられ、銀子を持参せずとも仕入れをしていただきました。その頃は南都の木綿市は月に六日、五日・十日・十五日・二十日・二十五日・月末となっていましたが、一日たりとも行かなかったことは有りません。
荷物持ち人に一荷二荷と持たせ、私も十七八匹背負い、頭にも乗せ、郡山で三四軒の屋敷商いをし、翌日南都(奈良)の市で商いをし、その翌日には売掛金の回収など毎市のたびに忙しく相務めました。
それにつけ、極月五日の市日に大雪降り積もり、あつさ八九寸も積り、荷持に三平と言う者に一荷持たせ、私も十五六疋ほど背負い、八木街道へさして行くところ、新ノ口村の藪の竹が道筋へ倒れ込み、通れない状態で、仕方なく堤の下へ降り田の中を、さぐりさぐり漸く道筋へ出るようなことでした。また雨風が如何様に降ろうとも、定めの市日に参らず、という事は一切ございませんでした。

堀内長玄覚書(番外)

堀内長玄覚書(番外)多賀氏の履歴について
天理大学谷山正道教授の「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」より抜粋

本論での一主役である領主の多賀氏は、堀内長玄の居村であった高市郡曽我村をはじめ、大和国内で2000石の地を領有する旗本であった。その祖常則(つねのり)は、近江の国の出で「浅井備前守長政につかへ、のち豊臣太閤にしたがひ、大和大納言秀長に属し、大和高市郡のうちにをいて二千石を知行す」というのが「寛政重修諸家譜」に記された略歴である。二代常直(つねなお)の代から徳川氏に仕えて本領を安堵され。
以後家督は、常長ー常良ー常之ー常房ー高但(たかただ)ー高當(たかまさ)へと継承されていった。本論と直接関りがあるのは七代高但で、「寛政重修諸家譜」には   「享保二十年十二月十一日はじめて有徳院殿(注八代将軍徳川吉宗)にまみえたてまつる。時に六歳寛保三年閏四月二日遺跡を継。十八日御小納戸となり、十二月二十一日布衣を着することゆるさるる。(注 布衣とは無紋の狩衣で、式日に着用を許された。布衣着用が旗本の立身の証とされた)延享二年九月朔日西城のつとめとなり、四年八月四日西城の御小姓に転じ、十二月十九日務を辞し、寄合に列す、安永二年四月八日に致仕し、五年九月八日死す。年五十七。法名義慶。妻は横山左門忠知が女」と、その略歴が記されている。

堀内長玄覚書(第六集)三十七番三十八番三十九番

堀内長玄覚書第三十七番
享保二年(1717年長玄さん数え18歳)当国の二上山で金掘り(金鉱や銀鉱など試掘)が有りました。所は岩屋通りより少し北の方で、山の中腹から直径五尺ばかりの穴を掘っています。私は友達(原文、供立)と三人連れで見物に行きました。
この金堀りの人足は以下原文「じばんにおいずるかけ、ふじのくくツをせおい」(要は背負子の様な物を背負い、と言う意味か)穴の奥にある岩の木っ端を運び佐治ていました。人を案内に頼み、四人連れで穴の奥に入りました。
一丁(約110m)ばかり行くと栄螺殻に油を入れともし火にしてあるところが有り、少し明るくなっています。そこから段々と下の方へ石段掘りにしてある所を下り半丁ばかり行くとともし火があり、少し明るくなっています。
年の頃、三十歳ばかりの男、おいずるかけて、鉢巻をし、八百屋お七の歌を歌いながら、あわれなる声をあげ、岩をカチカチ掘っていましたが、恐ろしとも、あわれとも、心細くなり、怖くなり、引き返しました。所々のともし火の無い所は真の闇で
両の手で穴の両脇を探り探り、出てきました。岩の少ない所は丸木で、わくさしし、
大山の底ゆえ、穴に居ると言うより、地獄の底に居るような心地で、一足づつ表に
近づく事うれしく、皆々表に出たときは地獄からこの世に戻ったように思い、
こわさ、うれしさ、限りなく感じました。
ところで、この金堀りですが、結局大したことなく、次第に人足の足も遠のき、
麓に大きな仮屋もありましたが段々と悪所になり、また穴も狐・狼・狸などの
ねぐらになって来たので、一二年のうちに、付近の村人によって、潰されました。

堀内長玄覚書第三十八番
享保二年(1717年)この年、大日照りで、五月に手遣りたおし(田植えの事か)しましたが、ミほ筋打上ケ粟大豆等植えました。(原文を踏まえました。要は田植えをしたが大日照りのため急遽、畑に転作したという事か)
綿作大むしが入り、横木・あまみ田(小学校の東、メロディタウンのところ)筋、
植田かり捨て、すき込みしました。大不作でした。
※注  この後も度々、日照りの話は出てきますが、都度、畑作に転換したり、色々と工夫をされています。稲作で残す田、畑にする田、などの取り決めには、よほどしっかりしたリーダーが居るか、人々の協調性があったか、と思います。そうやって度々の危機を乗り越えてこられました。

堀内長玄覚書第三十九番
享保三年(1718年)戌の三月に南都元興寺の塔の屋根に登りました(1859年に焼失するまで元興寺には大きな五重塔が有りました)この日諸人が参詣しました。
私も塔の屋根に登り、空なる環へ出て、金輪を段々に登り上にある、玉を抱かえました。さてさて、これも恐ろしい事で、高い空の事、風が強く、下を見れば恐ろしく
心もとない心地でした。
その時、思いましたのは、ご両親のいる私の一生の過ちで、今回を限りに二度とこのような事はしないと、誓いました。
さてさて、無事であった事のうれしさ、忘れ申さず、と思った事でした。
※注  元興寺には1859年に焼失するまで大きな五重塔が有りました。記録からすると高さは72.7m(日本最大の東寺の塔は54.8m、興福寺の塔は50.1m)と言う巨大な塔でした。ただし、一説では48mともあります。
その一番上の屋根から相輪の金輪を登り、先端の玉に触った経験を記されています。

堀内長玄覚書(第五集)二十九番三十番三十一番三十二番

堀内長玄覚書第二十九番
正徳三年(1713年)四月七日に、当村の古手屋太郎兵衛が、雷につかまり死にました。
所は林の内で、その時いかきや(笊屋)善兵衛と両人連れ立ち妙法寺村帰るとき分かれて
そのままつかまりました。死んだ太郎兵衛は黒仏の様になり、古手ふろしきも青い火を出し、あわれなる事でした。
※注  当時は着るものは一般に古手屋から今で言うリサイクル品を買うのが普通でした。また、いかき屋ですが、明治大正頃の生まれの方は笊の事を「いっかけ」と呼んでいました。隣の小綱町は江戸時代は竹細工が盛んであった様です。

堀内長玄覚書第三十番
正徳三年(1713年)この時、慶長銀と同様の極上銀、これは享保銀とも言いますが、
上々の銀が出回りました。この銀子は板一丁が小は二十四五匁より大は三十ニ三匁
小玉銀は四五分より一匁二三分、大は一匁六七分で、この銀は百匁で四ツ宝銀二百匁
と替わりました(同じ銀貨でも二倍の価値) 二ツ宝銀も三ツ宝銀も同様に取引されました。さて、諸色大高低下有り、世上騒がしい事でした。
※注  当時一文銭は一文と書かれているから一文です。今の通貨と同様、表記金額で流通していました。これを計数貨幣と言います。それに対し、銀は重さを計ってその価値を算出していました。これを秤量貨幣と言います。七月に
そもそもは一両=銀60匁=銅4000匁が大体の基準でしたが、銀貨はその品質でかなり価値が変動し、物価もその影響を相当受けていた様です。
ところで、一両の価値を現在に換算は不可能ですが、10万円と考えると、当時の屋台の蕎麦、これは「ニ八そば」と言い16文で約400円となります。
肌感覚で、そんなものかとも思います。

堀内長玄覚書第三十一番
正徳四年(1714年)七月に大高水(大洪水)が起こり、大橋の東詰にて大切れし、
大木の榎とれん入坊の家が流れ、夥しく砂が入りました。
その時、我が家では綿作をしていましたが、行市三反(場所不明)
ひかい田一反五畝(場所不明)油取りにて大肥致され(原文通り、油粕等の肥料をたくさんやり、と言う意味か)大極上の収穫が見込まれましたが、泥まみれになり、大損になり、さてさて、残念なこととなりました。

堀内長玄覚書第三十二番
正徳四年(1714年)午の八月に川下の土橋村、妙法寺村と当村の間で南川水廻しに関し
水論が出来しました。この事で、京都まで出向き双方とも物入りな事でした。
この件、京都お裁きにて、相済ませました。
※注  なぜ京都での裁判になったか、またどう決着したかは不明

堀内長玄覚書(第四集)二十ニ番二十四番二十五番二十六番

堀内長玄覚書第二十ニ番
宝永四年(1707年)十月四日八ツ時分より七ツ前まで(午後二時ごろから三時過ぎ)
この大地、大地震ゆり、大地は大波打つごとくの状態で、さてさて恐ろしい有様です。あちらこちらの家々は夥しく倒れ、大地より泥吹き出し、その時は人々は
生きた心地せず、ただただ、念仏を唱えるばかりでした。
この後、人々は家を出て、外に仮屋を建て、十日ばかりの間、その仮屋で過ごしました。私共も、はとや市兵衛と申す人の裏の畑を借り、そこに仮屋を建て、母様と兄弟
子供と下女が暮らし、家の方は父様が下男と留守居し、昼夜、村方の火廻り等、色々
お世話されました。恐ろしき事、筆にも尽くされません。
この時、高田御坊(専立寺)が倒壊しました。
※注 宝永の大地震で、有史以来、トップクラスの大地震です。
奈良地方気象台で頂いた資料に拠りますと、この辺りの震度は6~7との
ことです。

堀内長玄覚書第二十四番

宝永五年子の年、図の様な大銭が出ました。
この一枚で、一文銭十枚となります。
この大銭は一年余り通用しましたが、段々評判が悪くなり、廃っていきました。
その時、この銭を所持していた人々は損になり、鋳つぶして売りにかけられました。
その後、宝永八年(実際は宝永三年)から二ツ宝銀が多く出回りました。(これは丁銀という貨幣の一種で重さが一定せず、両替商で重さを計り、銅銭に
交換して使用します)これは中の上でした。その後、三ツ宝銀が出てきました。
これは中の中で、通用は二ツ銀と同様ですが、諸色が段々と高騰し、世情も騒然となってまいりました。(質の悪い貨幣が出たことでインフレが起こっています)
その後、四ツ宝銀が出てきましたが、これは下で、上は白く中は赤がねと見受けられます。(銅の含有量が非常に多く、表面付近だけを銀を使った感じ)です。
板一枚につき(丁銀の事を板と呼んでいました)四十匁から五六十匁、七八十匁くらい
大板小玉銀は三四匁から七八から十匁くらい(小玉銀とは俗に豆板銀とも言い、丁銀よりだいぶ小さく、これも両替商で銅銭に両替して使っていました)で世上銀がたくさん出回り、にぎわしく、諸色は段々と高直(こうじき)になり、段々と相場が大高下してきました。米一石が大体、銀百三十もんめくらいです。
※注 江戸時代は貨幣の改鋳(改悪)が度々行われ、その結果、たびたびインフレが
発生しました。色々な質の色々な貨幣が出、当時の人々がそれに振り回された様子が伺えます。

堀内長玄覚書第二十五番
宝永五年(1708年)当村の地蔵前(夏祭会場のサッカー場辺り)の稲の田中で狼を捕まえました。平九郎が鍬で打ち、庄九郎がやまおうこ(荷物を担ぐ天秤棒)でたたき、捕まえました。この二人、大手柄にて陣屋から褒美をいただきました。

堀内長玄覚書第二十六番
正徳元年(1711年)当地の地頭様は多賀御家で石高二千石、この時は
多賀佐右衛門の御代でお子様は兄君が後の豊後守、弟君が源十郎様、この方も後に
豊後守と称されます。
当村の御代官は森田源大夫様、同じく庄田七兵衛様(後に自應様と言う)
この時の村役人は
庄屋  北林 彦七
年寄  井上 源兵衛
同   堀内 喜兵衛門
同   吉田 助七郎
同   北林 又市郎
同   藤井 庄兵衛
同   奥の 茂平次
同   吉田 吉兵衛
同   堀内 助三郎
この頃は江戸の御屋敷は言うに及ばず、下々百姓共、安気に相踊り
百姓方に御上ミ金銀筋之義は一向に存ぜず、相踊り候・・・以下略
※注  最後の二行はほぼ原文通りですが、要はこの頃は世情も安定し、呑気に
暮らせていた様です。

堀内長玄覚書(第三集)十七番十九番二十番二十一番

堀内長玄覚書十七番
宝永元年(1704年)当村の大橋が崩れました。
この橋の古木を入札のより、人々へ売り、その代金を村方で預かり、仮橋を作り
その往来に一銭、二銭づつ取り留め、この積銭で新たな橋を作る予定でした。
ところが、そのお金が紛失になりました。
仮橋を作る費用や人足代、そのほか色々と費用が掛かります。
私も少々預かっていましたが、庄屋の助七郎さんが、自分が預かって置くとの事で、
九兵衛殿(村の金融業者)にも話を通し、助七郎さん渡し、その受取書も所持しています。その後、仮橋は村の費用で架けました。
※注 長玄さん、あらぬ疑いを掛けられぬよう、書留められたと思われます。

堀内長玄覚書十九番
宝永二年(1705年)富士山が噴火し、宝永山出来たと聞いています。
※注 宝永山は宝永四年の噴火で出現しています。長玄さんまだ7~8歳頃で
聞き間違いか記憶間違いと思います。

堀内長玄覚書二十番
宝永二年(1705年)この年に、伊勢神宮への、大ぬけ参りがありました。
この年は、お金が一銭も無くとも、思い思いにぬけ参りし、当村の伊勢街道は伊勢へ上る人、伊勢から下る人で賑わい、隙間もない有様でした。
※注 ぬけ参りとは、家の人や奉公先に無断で伊勢参りをすることで、江戸時代には
1650年、1705年、1771年、1830年の四回あった様です。明和八年(1771年)には
曽我の東口、柳原(場所不明)で、今井から接待場が設けられた、と覚書291番に
あります。

堀内長玄覚書二十一番
宝永三年(1706年)から、いねこきによる農作業が始まりました。(注 今はいねこきとは稲の脱穀のことを指しますが、長玄覚書では、千歯こぎ、と言う江戸中期に発明された脱穀用の農機具の事を言っています)
それまでは、こき箸にて一日に7~10束程度、こいでいましたが、”千歯こぎ”ができてからは、賃こぎが無くなり、”千歯こぎ”のことを、やまめ(寡婦やもめ)たおしと申しました。
当村へ初めて来たのは、この年の十月頃で、庄屋の北林彦七さんのところへ、三丁来たのが最初です。
その後、段々と唐箕(とうみ)や千石とうし、なども来るようになりました。
※注 稲刈りは刈った後、何日か天日干しするので、2~3日かかっても構いません
稲こきは、天気回りもあり一気に済ましてしまう必要があったので、その作業
に後家さんが動員され、良いアルバイトだったようです。それが無くなったの
で、全国的に後家殺しとも呼ばれていました。白土三平の漫画カムイ伝にも
後家さんが千歯こぎを壊して回るシーンが有ります。
ところで、こき箸の作業効率ですが、一日当たり7~10束(そく)と書かれて
います。この束(そく)とは、稲束の単位で、稲の株を大体12株刈り、藁で
たわせ(束ねる)ます。これが一束(たば)、それを四つ集めた物をちょっぽ、と
言い、そのちょっぽを六つ集めたものを一束(そく)と言います。
それが、7~10程度、こいだ様です。

堀内長玄覚書(第二集)七番十二番十六番

堀内長玄覚書第七番
寛文三年(1663年)この頃から座頭が当村へ祝儀を取りに来ることがなくなりました。
この経緯はどういうことかと言うと、当村の東口で貧家の女の寡(やもめ)が一人で暮らしていました。
ある夜中一人の座頭がその家に忍び込んできました。
村の人々は、それを見とがめ、盗賊と言い立て、打ち殺してしまいました。
さあそれから段々と難しい事になり、大和の国中の座頭が当村に押し寄せ、その結果
奈良奉行所(原文は、南都御番所)扱いの大公事(裁判)となり、殊の外なる大騒動と
なりました。
この時、我が家の先祖、喜平衛様がわけて精出しされ、御番所にて随分と働きかけ
大勢の座頭と競り合い、御前にて対決されました。
結果、この裁判は当村の勝ちにて終わりました。
それより、当村へは座頭仲間は、何事によらず祝儀を取りに来ることは相なり申さず、との一札証文を村方に取り置き、これより永々今に至るまで、座頭仲間が当村へ
祝儀を取りに来ることがなくなりました。
また、仮に当村で盲人が出ても、座頭仲間には入れない、との事で決着しました。
この件で、喜平衛様は御地頭様(多賀の殿様)からご褒美に預かったと聞いています。
※注 江戸時代の社会保障の一端が伺えます。
例えば、目の不自由な人たちに対し、事につけて祝儀(義援金)を渡していた
様です。また、目の不自由な人は座頭仲間に入り、按摩・琵琶法師などの
特殊職業を独占的に行っていた様です。
ところで、村では多賀の殿様を一般に「御地頭様」と呼んでいた様で、
長玄覚書では、ほとんど全て殿様の事を「御地頭様」と言ってます。
戦後の火事で焼失しましたが、光岩院の本尊の胎内からが
「御地頭様御武運長久・・」と書かれた文書が見つかったと、戦前の資料に
あります。

堀内長玄覚書第十二番
元禄二年(1689年)当村の大橋(豊津橋)が架け替えられました。
以前の橋は、妙法寺村の宗順というお坊さんがお一人の努力で架けられたと聞いて
います。
今回の架け替えに際して、諸方へ富札(宝くじ)を出し、小綱村の「なすびたね」が
一番くじを引き当てた、と聞いています。

堀内長玄覚書第十六番
元禄十六年(1693年)江戸で、四十七人がかたき討ちした、との話を聞いています。
※注  赤穂浪士の討ち入りはこの辺りまで聞こえたいた様です。
なお、討ち入りは元禄十五年十二月十四日なので、年が明けてから
伝わったものと思われます。

堀内長玄覚書(第一集)一番四番六番

堀内長玄覚書一番
慶長の頃、我が家は北曽我(現在の出屋敷)から別れました。
(中略)その頃までは、この所は大路堂村市場と言っていましたが、その後、段々と曽我村と言うようになりました。(後略)
※注  大路堂は今も小字として地名が残っています。
今は廃業されていますが井上酒店から大神宮さんの手前当たりの道の両側が
大路堂という小字です。

堀内長玄覚書四番
寛文五年(1665年)布木綿の丈や幅が広がりました。
この年に、布木綿の丈や幅に関して、お上から書付が回り、木綿一疋(一反)はくじら尺で丈が五丈四尺、幅が九寸五歩に広がったと聞いています。
※注  この当時、色々な寸法基準や重さの基準がまちまちで、それらの統合いわゆ
    度量衡の統一がなされたようです。

堀内長玄覚書六番
寛文ニ年寅の年(1662年)村は洪水に見舞われました。代官の庄田自應七兵衛様が
若年の折ですが、その日の早朝から村内の見回りに出られました。
その時、どこから来たのやら、盗賊が三人荷物をもって、当村本郷に住む久助と言う
貧家に入るの目撃されました。
そこで久助を吟味されましたが、久助、殊の外抗い腹立ちしましたので、久助の家を
家探ししたところ、つし(天井裏)に隠れているのを見つけられました。久助もとうとう
白状し、その日のうちに打首となりました。その際、久助は「おのれ庄田が家、七代の間に取りつぶしてやる。覚えていよ」と代官の庄田氏をにらみつけて切られました。また辻さんの先祖にも盗賊を打ち殺したことがあり、この時は今井や八木からも大勢の見物人が来たそうです。