粗大ゴミ収集日

明日10月27日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は18時から20時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第十集)六十八番六十九番七十番

堀内長玄覚書第六十八番
元文三年(1738年)当村光専寺の本堂の傷みが余りにもひどく、柱を五本入れ替えその歪みを直そうと相談が決まりました。
この本堂は、内間が五間四方で、以前天和年号までは本堂の屋根は藁葺きと聞いています。その後、享保年号の内に瓦葺きになったと聞いています。
それより凡そ六十年が過ぎ、元文三年に惣門徒が村々で寄合い色々と相談したところ、とてもの事、本堂は新しく立て直しが然るべくと申し、相談が一決いたしました。
この時の光専寺留守居僧は当国田村法林寺出身の了勧と申し、この御坊は高田の専立寺の白知様の御弟子で、この御坊が大変苦労なされて色々と諸事を取り捌き門徒の人々からの寄進の奉加帳を回す事などを当村の門徒衆に申し合わせ、大阪にて欅柱を買い付け、其の外、各地にて材木を買い整え、大工は坊城村の四郎衛門を棟梁とし、秋本村の次郎右衛門を脇棟梁とし、其の外大工五六人づつ入り、元文四年に古い本堂をほどき、土持地づきを行いました。

堀内長玄覚書第六十九番
元文五年(1740年)三月中旬に光専寺の石つきが行われました。
十八日から二十四日迄の七日間に大御法事を行われました。
この時、子供に狂言をさせようと門徒衆が寄合い相談され、私がお世話をするように皆様が申されました。ちょうどこの時、大阪からゆう助と申す芝居役者が当村に度々来ていまして、この者を呼び入れ、この者と私が相談し、取組狂言を子供に教えました。
込山の前に舞台を拵え、娘子供はかせやのおもと、私の方はおつる、酒や与平次の娘おさん、辻おはん、北ノ伊兵衛の娘おきく、金六の娘小ふじ、この六人が思い思いに衣装を拵え、この狂言の次第は浄瑠璃から舞い、また太夫いで立ちで歌踊り、花笠舞い、またその頃のはやり歌「雲にかけ橋、霞に千鳥、およびないとて惚れまいものか、賤ケ伏せ屋の月、おみやなしてなアおみやなしてなアよいしてなア」其のほかうた事、さん下がり節、色々あって殊の外なる大出来で、群衆の人々の褒めない人は無いといった状況でした。
さてまた男子供は前後に十二人出、内七人は大阪出羽芝居子供通りにいで立ち、黒装束にて奴踊り、舞台にて約束替わり狐踊り、其の外色々、やすし踊り、これまた大当たりでした。
さてまた、浄瑠璃は信州中島合戦二段目、直江大和助時綱に油屋長四郎、高坂弾正に桶屋の加七、この狂言は込山の前に辻堂を拵え、込山より鉄砲を放ち、この二人の身拵え、浄瑠璃の文句、口上、大音のせりふ、芝居役者も及ばぬ出来でした。
其の外、国姓爺合戦、和藤内に長四郎、其の外うば山めぐり、勘兵衛の子供勘六、墨田川道行はこの勘六、これまた大出来、この時、この親ども、子供に浮かされ余念なく加勢しておりました。
この時の光専寺は、昔より聞いたことが無いような繁盛ぶりで、この街道筋に人々が押し合い、道端の草も踏み枯れてしまうような有様でした。
光専寺繁盛にて賽銭と瓦奉加等、毎日、銀十四五匁程づつ上がり、門徒衆は大喜びいたしました。日数七日、障りなく終わりました。
これより、その後、百済村・田原本などでも、子供狂言が始まり、村の神事でも子供狂言をいたすようになりました。

堀内長玄覚書第七十番
元文五年(1740年)閏七月十七日、当国は大洪水に見舞われました。
御所町は半分ほど流され、だいぶ死人も出たようで、目も当てられず、哀れなることは筆にも尽くされません。

堀内長玄覚書(第九集)六十番六十一番

堀内長玄覚書第六十番
享保十四年(1729年)酉の九月朔日、私の息子の喜平次こと小市良が座(曽我座)の当人でしたが、この年は綿方が豊年でした。その日、私は曽我座の皆様に以下の様な事を申しました。
曽我大神様は当六日が夜宮ですが、このところ毎年あまりにもさびしく、夜宮と言っても遠路ゆえか氏子の参詣もあまり無く、暮れ方までに御湯かぐらを仕舞い、提灯等も暮方に持ち帰る有様で、もし雨でも降ろうものならわけて参詣人も無く、甚だ気の毒に思っています。ところで、幸いな事に東楽寺(今の真菅小学校の場所)に昔より鎮守の森があり、ここへ杉葉にて御神輿をこしらえ、毎年九月六日の夜宮に御さか木を移し、このところで御湯かぐら等をあげ、そのほか絵馬、提灯等も上げたなら、たとえ雨天でも皆々様が参詣されると思いますが如何でしょうと、曽我座の皆様に相談したところ、なるほど、これは賑わしくなり御尤もな意見と思います。
ならば、どうするか神様に聞いてみては如何でしょうと座の皆様がおっしゃったので、さっそく神主の四良三郎殿が玉ぐしを上げられたところ、曽我大神様御機嫌になられた様で、神輿の方に玉ぐしが上がりました。
それより、相談を相極め明くる二日より我が家の東の空家に座中の皆様が集まり、杉葉がこいの神輿を作り、飾り等、色々付け、殊の外見事に出来上がりました。
其の外、氏子より御迎え提灯を人々にこしらえ、太鼓・鉦にてはやしかけ、やたいの担いもの神輿かきの人々は、段だら鉢巻に浴衣を揃えて、殊の外道筋の送り迎え賑わしく、これはきっと神様も御機嫌に入られるでしょうと、皆々様よろこび申しました。
これより、御旅所にては、新町座からも提灯、そのほか立山人形や狂言等をいたされ、御神輿の御前にて、御湯かぐらが上がりました。
これは元々曽我森にて上がるはずですが、この六日の夜宮より、鎮守の森で上がるようになり、大層な賑わいで、氏子や両座中の人々共、大いに喜ばれました。
それより、七日の神事の夜、御さか木を神輿に移し、お迎えの時と同様に神社にお送りし、七日の夜も大層な賑わいでした。
ところで、この年の閏九月(祭りの有った通常の九月の後、暦の関係でもう一回九月が繰り返されます)四日夜、殊の外なる大風雨で、曽我の森の宮の後ろに有る大木の大きな枝が裂け、宮の上に倒れ掛かりました。ところが不思議な事にその時、宮も台座ごと前に押しやられ、被害は全くありませんでした。
この宮を直すに当たり、又また閏九月六日に鎮守の森に移し、湯かぐら、提灯等を差し上げました。曽我大神様、よほどこの御旅所がお気に入りなさられた事と氏子の方々はおっしゃり、神慮にかなったことと、座中の皆々様も大喜びで、それ以来、毎年、この通りに取り行われるようになりました。  以下略
※注  昭和三十五年まで、秋祭りは両神社からえべっさんの広場(今の第一防災倉庫のある場所)に有った御旅所に神様が動座され、そこで行われていました。広場には多くの屋台が出、それはそれは大層な賑わいで、クライマックスは太鼓台の巡幸でした。この時の写真は「曽我町思い出の記録」のDVDに多く納められています。
享保十四年より232年に渡り執り行われてきた神事が今途絶えているのは誠に残念ではありますが、心に留めておいていただければ、と思います。
ところで、昔の人々は信仰心が篤く、また今の様に多くの楽しみが無い時代だったので祭りなどは非常に大切にされた、と何となく思いがちですが、何の事はありません。曽我のいわゆる本村から宗我都比古神社まで距離があるとの理由で、お参りを怠けていらっしゃいます。何だかちょっと笑えます。

堀内長玄覚書第六十一番
六十番で述べた通り、享保十四年に初めて神輿を作りましたが、この時の神輿は高さ五尺、幅二尺八寸で四方の高欄は赤く塗り、柱は青くし、其の外全て杉の青葉にし、荷い棒は二間半で、享保十八年までの四年間毎年、上記の様に作りました。
しかし、毎年お世話される方々の負担も大きく、気の毒な事でした。

そこで、享保十九年丑の年、図の様な神輿を新調いたしました。
これより毎年、九月朔日に、この神輿にて座の仮屋に御さか木を移し、九月六日の夜宮に神主四郎三郎(しらざぶろう、漢字は四良と書く場合もあり、適当と言うかいい加減なところがあります)殿、守り奉じ御旅所に移し、七日の夜、神社に帰られるようになりました。   以下略

堀内長玄覚書(第八集)五十番五十五番五十六番

堀内長玄覚書第五十番
享保八年(1723年)極月二十日に、郡山から奈良にかけて、書出しを配りに回っておりましたが、大安寺村西の大川が、この年の八月の洪水で堤が切れ、大きな淵になっていました。そこに年の頃五十くらいの男が、この高堤を通るとき深みに、真っ逆さまにはまり込みました。私は半丁ばかり手前で見ておりましたが、辺りには誰もおらず、男が這い上がるかと思っていましたが、頭が泥の中に入り込み、泡を吹き出し、足ばかりが見苦しく出ておりました。このままでは水死すると見えたので、私も淵まで行き、その人の足を引き寄せ、堤の草を左手に巻き付け、右の手でようよう引き上げ、堤の上まで引き上げました。その頃、段々と人々も集まってきて、気付け薬等、色々用意して下さったので、男は泥水を吹き出し、少し心ついたように見えました。そこで私は大声でどやいたところ、郡山の岡町の者と言う声がかすかに聞こえました。
そうしたところ、郡山から奈良へ駕籠に乗って行く人に出くわし、訳を話して、駕籠を譲ってもらい、男を乗せ、郡山へ行かせました。
その後、奈良で用事を済ませ、翌日帰ってご両親にその事を話したところ、殊の外なる事として、ご両親も大層喜ばれました。

堀内長玄覚書第五十五番
享保丑の年(享保6年、1721年)諸国とも、田作りに、さいわい虫と言う大むしが入り殊の外なる大不作となりました。
この年は土用までは田作りも出来ていましたが、段々出来が思わしくなくなり、
(以下意味が不明の部分があるのでほぼ原文借用)いな草五いと類、其の外坊主いねの類むし入り多く、一反に付き二三斗から四五斗取迄、けいね類(くず米のことか)は二石余りもあり(※途中注 当時一反(当時は約12アール)当たり平均で一石三斗から一石五斗くらいの出来、二石二斗も出来れば大豊作。従って平年の二割程度の出来)
西国筋は殊の外大虫が入り、それが段々とこちらに押し寄せてきました。
その結果、米相場が高値になり、九月から十月頃は上銀で一石あたり四十四五匁から五十一匁ぐらいだったものが霜月極月の頃は、九州が大虫の被害が大きいという事で大上がりになり、銀百匁を上回りました。
翌年の正月には諸色俵物が大上がりに上がり、世上、餓死する人が多く、非人等は所々で飢え死にし、町方の貧家の職人等は青ばれになり、道行にも、ひょろひょろとして、倒れていきました。見る目も不憫なことです。
その頃、多くの諸人の、はんまへ(飯米か)に正中栖お餅にいたし(意味不明のためほぼ原文通り)その様な人は中の上、それより下の人は、にでの皮をむき粉にして食べ、池の菱は取り尽くし、藤の若葉をむしって食い、そのほか色々な草木を食にいたし、命をつなぐ様な状態で、恐ろしい事でした。
更に、この前後の年は不作が続き、百姓方も綿に虫が入り、植田は不作が続き困窮しておりましたが、かたじけなくも、小百姓に至るまでも、飢え死にする人は一人も出ませんでした。
それは、かねてより、菜大根・干し菜等を用意し、命をつないだものです。
京・大阪・堺・奈良・郡山・上市・下市・今井・八木・御所・新庄・高田等の場所では身上のよろしき人は施行を出し、白がゆ、茶粥、または切手を出し、白米一人に一合づつ出すも有り、色々に施しをいたされ、ようよう、その年をしのぎ切りました。
※注  世に言う享保の大飢饉の有様です。庶民では、農業をやっていない職人などが真っ先にやられた様です。大虫の被害とありますが、これはウンカの被害のようです。令和2年にこの辺りでもウンカの大被害があり、全滅し全く刈り取りされなかった田圃もありました。現在でもそうなのですから、まして江戸時代の被害たるや如何ほどであったか、容易に想像できます。
それにつけても、色々な工夫と相互扶助によって乗り越えられてきた当時の人々には改めて頭が下がります。

堀内長玄覚書第五十六番
享保寅の年(享保7年1722年)秋作殊の外豊作で、諸色も段々下がり、米麦等も下値になり、その暮れは世上おだやかになってきました。町方は喜んでいましたが、百姓は綿作に虫が入り、ようよう二三十斤から六十斤の出来で、末百姓は困窮しておりました。

10月16日 だんじり展示(秋祭り)

本日10時から13時まで「だんじり」が

第一防災倉庫前に展示されます。

巡行はしませんが、来られた方皆様に

ジュースとお菓子を用意しております。

尚、新型コロナウィルス感染防止対策の為

自宅で検温とマスク着用をお願いいたします。

皆様のご参加をお待ちしております。

堀内長玄覚書(第七集)四十番四十二番

堀内長玄覚書第四十番
享保四年(1719年長玄さん数え20歳)亥の二月に私、喜太郎は高田の万戈村の七兵衛殿へ、養子に行きました。私は今まで木綿の商いはしてまいりましたが、七兵衛殿の家は百姓一筋の家で、にわかに毎日、野作働きで、水こえを持ち草刈りなどを言いつけられ、慣れぬ仕事で甚だ耐え難いことでしたが、七兵衛殿の家は身代がよろしき家で私の実家はその当時、万事不自由で身上も立ち難く、兄弟子供も多く、庄屋に未進も有り、肥代そのほか色々と借金もあり、実家の相続もたえだえの有様で、ご両親の艱難されていること、万戈村にいても、昼夜心にかかっていました。妻の、おかつとは内々に縁もあるわけですが、その時おかつは「お前様は今まで商いをされてきましたが、こちらに来てからは慣れない百姓の荒働きばかりで、大変に気の毒に思っています。また曽我村の実家はお前様の兄弟も多く、ご両親も大変に苦労されていると聞いています、私とお前様は懇ろな中で大変に残念に思いますが、お前様は曽我に帰り、これまでやってこられた商いに精出しし、曽我村の家を相続なされれば、ご両親様もさぞご安心されるでしょう、と思います。如何でしょう」と言ってくれました。
その時、私はなるほど、曽我の家を人手に売り渡すような事が有れば、私は万戈村で繁盛して暮らしていても、これは本意では無い、ここは曽我村に帰り、如何ようなる艱難苦労をしても、曽我村の堀内の家を相続するのが然るべく、と思い、享保五年四月中旬に曽我に帰ることと致しました。
その時、七兵衛様、持参金の銀一千匁(150~200万円位)をそのまま、持たせてくれました。その銀でなんとか借金と未進を払いましたが、手元には一銭も残らずの有様でした。そこで、煙草を買い内々で売ったり、また古手などを売り買いし、色々工夫し木綿の商いも段々と軌道に乗り始めるようになりました。
この事、毎年の算用帳に書き記した通りです。
※注  庄屋に未進とは、当時の年貢は庄屋がまとめて領主に払い、個々の百姓は庄屋に対し、相当額の年貢を納めていました。それの滞りを言います。
ところでこの話は大変、人情味のある話で、仲の良い妻のおかつさんは長玄さんの事を思い、別れを決意します。また義父の七兵衛さんも持参金をそのまま渡すなど、心温まる話です。
ここから長玄さん艱難辛苦の末、村一番の金持ちになります。

堀内長玄覚書第四十二番
享保五年、喜太郎(長玄さんの幼名)改め新兵衛と改名しました。(堀内家は代々当主は新兵衛を名乗っています。)
この時から私は木綿商いに精出しいたしましたが、元手銀が一切ありませんでした。
しかし、従来からの馴染みのある人々もおられ、銀子を持参せずとも仕入れをしていただきました。その頃は南都の木綿市は月に六日、五日・十日・十五日・二十日・二十五日・月末となっていましたが、一日たりとも行かなかったことは有りません。
荷物持ち人に一荷二荷と持たせ、私も十七八匹背負い、頭にも乗せ、郡山で三四軒の屋敷商いをし、翌日南都(奈良)の市で商いをし、その翌日には売掛金の回収など毎市のたびに忙しく相務めました。
それにつけ、極月五日の市日に大雪降り積もり、あつさ八九寸も積り、荷持に三平と言う者に一荷持たせ、私も十五六疋ほど背負い、八木街道へさして行くところ、新ノ口村の藪の竹が道筋へ倒れ込み、通れない状態で、仕方なく堤の下へ降り田の中を、さぐりさぐり漸く道筋へ出るようなことでした。また雨風が如何様に降ろうとも、定めの市日に参らず、という事は一切ございませんでした。