粗大ゴミ収集日

明日11月28日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は18時から20時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第十四集)八十八番九十番

堀内長玄覚書第八十八番
宝暦三年(1753年)戌の七月三日に江戸のお殿様より当村の村役人一人と惣代一人と
大路堂屋弥助と大福村庄屋藤助とに対し、江戸に下向するようにとの思し召しがあり中略 この時、私は二度目の江戸道中でしたが、七月九日に大雨が降り箱根山に登るときは殊の外なる大雨で、暮れ方に跳ね馬が駆け来たり、私共をすす竹にはね込み
さてさて、恐ろしき事に出会いました。それより、箱根御本宿に泊まりました。
この宿は火災の類焼の後で、戸障子も閉まらない様な有様でしたが、この家は殊の外なる大家でした。
明くる朝、座敷から見渡せば、富士山を見越し、前には箱根の海を引入れ、見事な景色でした。
ところが、十日の八時分に小田原に到着しましたが、佐川が殊の外なる高水で、川越人足も引き上げ、是非なく十日から十四日まで、小田原に逗留しました。ようよう、十四日八ツ時分に佐川が明きました。台に二人づつ乗って、その台は六人の人足が担いで渡しましたが、波の荒い所は人が沈む事もあり、さてさて恐ろしき事でした。この渡し賃は銭千五百匁(約四万円)でした。
十四日に戸塚につき、十五日夕刻に江戸に着きました。以下略
※注 川止めを除けば江戸まで約八日で着いています。非常な健脚と言えます。

堀内長玄覚書第九十番
(八十八番での江戸出張の際検地帳を見せられています)
曽我領田地惣反数 九十一町二反四畝十九歩半
この御高千三百四十六石二斗一升七合
大福領田地惣反数 四十町三畝二十六歩
この御高五百八十八石九斗六升八合
以下略
※注 この数字から、当時の一反(約12アール)当たりの米の収穫量は一石五斗弱です。現在では一反(10アール)当たり悪くても三石五斗くらいは収穫できます。
当時は如何に収穫効率が悪かったわかります。
別の項にありますが、二石三斗収穫できた時は大豊作との記載があります。
これとて、現在の一反では二石弱です。
時代劇でよく秋の田圃のシーンが出ますが、あの様な黄金色の田圃では絶対ないと思います。草ぼうぼうの中で貧弱な稲がひょろひょろ、が実態ではないでしょうか。

11月26日青年会主催子供映画観賞会のお知らせ

本日11月26日陣屋会館で子供映画観賞会を開催いたします。

午前10時より『ミニオンズ フィーバー』を上映いたします。

皆様お誘い合わせの上ご参加ください。

なお、アルコール消毒・マスク着用など感染対策へのご協力を

お願いいたします。

 

堀内長玄覚書(第十三集)八十五番八十七番

堀内長玄覚書第八十五番
宝暦元年(1751年)当国、十市郡の百姓が芝村の御屋敷を相手取り、強く免願されました。田圃の刈取りをせず、又江戸に下向されましたが、仕損じて皆々、
闕所・流し者(島流し)になり、さてさて笑止千万の事でございます。
当国、これを仕損じと申しました。
※注 有名な芝村騒動です。天領であった内膳村・木原村・八釣村など八か村が
支配代行の芝村藩の圧政に対し箱訴(目安箱に訴状を入れる真っ当な告訴)を行いました。年貢の徴税は出来高法で行われていまして、平均的な田圃を基準にすべきところ
最も出来栄えの良い田圃を基準にしたため、証拠を残すため、庄屋の命により刈取りをしませんでした。これが一揆と見なされ、奈良奉行所において拷問を含む厳しい
取り調べがあり、獄中死した農民も多くいました。しかし百姓たちは誰が首謀者かは頑として口を割りませんでした。この事件は今も耳成小学校では、歴史の重要な出来事として教えられています。
ただ、曽我など、この辺りでは、やり方が拙かったと批判的に見ていた様です。

堀内長玄覚書第八十七番
宝暦二年(1752年)正月に江戸の山田屋伊右衛門の手代で利兵衛と言う者が来ました。
この利兵衛、江戸にてお殿様に二百両を貸し出しており両村(曽我・大福)百姓に借受証文判子を付くよう要求してきました。
百姓の方は預かり知らぬ事とて、判子を付くことは有りませんでした。
結果、利兵衛は長逗留をいたし、御陣屋に満田村の、おぎん、と言う売女を引入れ、
誠に不行儀なありさまで、この事は江戸の御屋敷にも知る所となり、お殿様も殊の外の腹立ちをされている旨、役人衆より申し来たりました。
然るに、この利兵衛、十年後に小倉わたると改名し、お殿様に奉公に出ておりましたが、後にまた利兵衛と成り返り、当村の西養寺(現在の東楽寺は元々西養寺で明治41年に東楽寺と合併)で勧進坊主(乞食坊主)になりました。
※注 なんとも不思議な人物が出てきました。陣屋で長逗留したり、のみならず娼婦を引入れるなど、常識外れな事をしていますし、また役人も黙認していたように思います。十年後にまた召し抱えられたり、何か殿様が弱みを握られていたのか、と勘繰ってしまいます。

秋季火災予防運動のお知らせ

消防署からのお知らせです

本日11月9日から11月15日まで全国一斉に秋の火災予防運動が実施されます。

これからは火を使う機会が多くなります。

暖房器具やコンロの消し忘れには十分注意し、

火を使うときは、その場を離れないようにしましょう。

また、火災を起こさないため、火の元には家族みんなで気をつけましょう。

堀内長玄覚書(第十二集)八十一番八十二番八十三番

堀内長玄覚書第八十一番
今般、お殿様が我々村役を呼び出されたのは、三百両余りのお金が緊急に必要になった事によります。
これは、近頃、お殿様の勝手向きの世話を上総の国の笠井玄番という方がしてくれいましたが(注 明確には書かれていませんが笠井玄番から三百三十両の借金があり、その返済が差し迫った様です)川元半平(多賀氏の家来と思われる)と同行し、庄屋の
助七郎、年寄新兵衛(長玄さん)、九兵衛が笠井玄番のところへ行き、先方と色々相談をするように、と仰せつけられました。
そこで、笠井へ行きましたが、この道筋に御公義の鷹野場が有り、鶴、がん、かも、などが夥しくおり、手取りでも出来そうな有様でした。途中、小さな川があり、そこの所は舟に乗って行きましたが、南西方向に富士山が見えました。
玄番の所で一夜の宿を借りました。この玄番はこの地方の郷士のようで大百姓と見えました。御用金の件につき川元氏から我々に話があり、明日、江戸に戻り曽我の村役と曽我村で三百三十両の決済をするべく相談する、となりました。
結局、村方でその借金を肩代わりし、当申の年から酉戌の三年の毎年、年貢時に村に返済との事になりました。
曽我に帰り、村の皆様方と相談をいたしましたところ、百姓衆が申されることに、上記のお金は江戸の御屋敷で急用とのことで、ならば各々分担し、至急に用意すべし、とのことになりました。
そこで、庄屋・年寄から多い目にお金を出し、比較的金持ちの家から少しづつ出し、もし年貢時に返済が無ければ、何年かかっても返済する旨の証文を村方に取り置きました。
しかるに、百三十両は年貢時に決済されましたが、残る二百両は今にいたるまで未決済で、毎年の村算用出しております。

堀内長玄覚書第八十二番
上記、江戸出張時、江戸の御屋敷にて、我々三人に、お殿様からお料理の接待を受け
そのうえ、御はかまを頂戴し、有難き幸せな事でございます。

堀内長玄覚書第八十三番
上記、江戸出張の際に、公方様の鷹狩りがあり、我々よそ者は江戸かわらけ町に大和屋武助表に生鳥屋があり、この庭から、ありありと公方様を拝しました。
昼四つ時分でしたが、お供に大名衆二頭(馬に乗っておられたか?)御はた本衆は数知れず、其の外のお役人衆の方々は御約束木綿物にて、御もも引きや、半わらじを召し、
夥しきことは筆にも尽くされません。
公方様は乗物に乗られ、その時は御はおりは、そらいろに白がたを御召しと見えました。御還御は七つ時分で、この生鳥屋の前で少し御乗物が止まり、生鳥を少しの間ご照覧あそばされました。この時、私共、ありありと拝し奉りました。
これより、お役人衆が今日の獲物の、ごいさぎ、ばん、かも等を色々青竹に飾り、
武人づつ夥しくおられ、その有様は筆にも尽くされません。
その時の私の思いは、かようなる大切な事は、盲亀の浮木と申すようなる稀有な事と有難く拝しました。
※注 長玄さん、出張先で時の将軍の鷹狩りに出会った時の感激を伝えてます。現在で言えば、たまたま旅行先で天皇陛下の巡幸に出会って、親しく陛下を見た、と言う感じです。ちうなみにこの時の将軍は第九代、徳川家重です。