堀内長玄覚書(番外)

堀内長玄覚書(番外)多賀氏の履歴について
天理大学谷山正道教授の「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」より抜粋

本論での一主役である領主の多賀氏は、堀内長玄の居村であった高市郡曽我村をはじめ、大和国内で2000石の地を領有する旗本であった。その祖常則(つねのり)は、近江の国の出で「浅井備前守長政につかへ、のち豊臣太閤にしたがひ、大和大納言秀長に属し、大和高市郡のうちにをいて二千石を知行す」というのが「寛政重修諸家譜」に記された略歴である。二代常直(つねなお)の代から徳川氏に仕えて本領を安堵され。
以後家督は、常長ー常良ー常之ー常房ー高但(たかただ)ー高當(たかまさ)へと継承されていった。本論と直接関りがあるのは七代高但で、「寛政重修諸家譜」には   「享保二十年十二月十一日はじめて有徳院殿(注八代将軍徳川吉宗)にまみえたてまつる。時に六歳寛保三年閏四月二日遺跡を継。十八日御小納戸となり、十二月二十一日布衣を着することゆるさるる。(注 布衣とは無紋の狩衣で、式日に着用を許された。布衣着用が旗本の立身の証とされた)延享二年九月朔日西城のつとめとなり、四年八月四日西城の御小姓に転じ、十二月十九日務を辞し、寄合に列す、安永二年四月八日に致仕し、五年九月八日死す。年五十七。法名義慶。妻は横山左門忠知が女」と、その略歴が記されている。

堀内長玄覚書(第六集)三十七番三十八番三十九番

堀内長玄覚書第三十七番
享保二年(1717年長玄さん数え18歳)当国の二上山で金掘り(金鉱や銀鉱など試掘)が有りました。所は岩屋通りより少し北の方で、山の中腹から直径五尺ばかりの穴を掘っています。私は友達(原文、供立)と三人連れで見物に行きました。
この金堀りの人足は以下原文「じばんにおいずるかけ、ふじのくくツをせおい」(要は背負子の様な物を背負い、と言う意味か)穴の奥にある岩の木っ端を運び佐治ていました。人を案内に頼み、四人連れで穴の奥に入りました。
一丁(約110m)ばかり行くと栄螺殻に油を入れともし火にしてあるところが有り、少し明るくなっています。そこから段々と下の方へ石段掘りにしてある所を下り半丁ばかり行くとともし火があり、少し明るくなっています。
年の頃、三十歳ばかりの男、おいずるかけて、鉢巻をし、八百屋お七の歌を歌いながら、あわれなる声をあげ、岩をカチカチ掘っていましたが、恐ろしとも、あわれとも、心細くなり、怖くなり、引き返しました。所々のともし火の無い所は真の闇で
両の手で穴の両脇を探り探り、出てきました。岩の少ない所は丸木で、わくさしし、
大山の底ゆえ、穴に居ると言うより、地獄の底に居るような心地で、一足づつ表に
近づく事うれしく、皆々表に出たときは地獄からこの世に戻ったように思い、
こわさ、うれしさ、限りなく感じました。
ところで、この金堀りですが、結局大したことなく、次第に人足の足も遠のき、
麓に大きな仮屋もありましたが段々と悪所になり、また穴も狐・狼・狸などの
ねぐらになって来たので、一二年のうちに、付近の村人によって、潰されました。

堀内長玄覚書第三十八番
享保二年(1717年)この年、大日照りで、五月に手遣りたおし(田植えの事か)しましたが、ミほ筋打上ケ粟大豆等植えました。(原文を踏まえました。要は田植えをしたが大日照りのため急遽、畑に転作したという事か)
綿作大むしが入り、横木・あまみ田(小学校の東、メロディタウンのところ)筋、
植田かり捨て、すき込みしました。大不作でした。
※注  この後も度々、日照りの話は出てきますが、都度、畑作に転換したり、色々と工夫をされています。稲作で残す田、畑にする田、などの取り決めには、よほどしっかりしたリーダーが居るか、人々の協調性があったか、と思います。そうやって度々の危機を乗り越えてこられました。

堀内長玄覚書第三十九番
享保三年(1718年)戌の三月に南都元興寺の塔の屋根に登りました(1859年に焼失するまで元興寺には大きな五重塔が有りました)この日諸人が参詣しました。
私も塔の屋根に登り、空なる環へ出て、金輪を段々に登り上にある、玉を抱かえました。さてさて、これも恐ろしい事で、高い空の事、風が強く、下を見れば恐ろしく
心もとない心地でした。
その時、思いましたのは、ご両親のいる私の一生の過ちで、今回を限りに二度とこのような事はしないと、誓いました。
さてさて、無事であった事のうれしさ、忘れ申さず、と思った事でした。
※注  元興寺には1859年に焼失するまで大きな五重塔が有りました。記録からすると高さは72.7m(日本最大の東寺の塔は54.8m、興福寺の塔は50.1m)と言う巨大な塔でした。ただし、一説では48mともあります。
その一番上の屋根から相輪の金輪を登り、先端の玉に触った経験を記されています。

堀内長玄覚書(第五集)二十九番三十番三十一番三十二番

堀内長玄覚書第二十九番
正徳三年(1713年)四月七日に、当村の古手屋太郎兵衛が、雷につかまり死にました。
所は林の内で、その時いかきや(笊屋)善兵衛と両人連れ立ち妙法寺村帰るとき分かれて
そのままつかまりました。死んだ太郎兵衛は黒仏の様になり、古手ふろしきも青い火を出し、あわれなる事でした。
※注  当時は着るものは一般に古手屋から今で言うリサイクル品を買うのが普通でした。また、いかき屋ですが、明治大正頃の生まれの方は笊の事を「いっかけ」と呼んでいました。隣の小綱町は江戸時代は竹細工が盛んであった様です。

堀内長玄覚書第三十番
正徳三年(1713年)この時、慶長銀と同様の極上銀、これは享保銀とも言いますが、
上々の銀が出回りました。この銀子は板一丁が小は二十四五匁より大は三十ニ三匁
小玉銀は四五分より一匁二三分、大は一匁六七分で、この銀は百匁で四ツ宝銀二百匁
と替わりました(同じ銀貨でも二倍の価値) 二ツ宝銀も三ツ宝銀も同様に取引されました。さて、諸色大高低下有り、世上騒がしい事でした。
※注  当時一文銭は一文と書かれているから一文です。今の通貨と同様、表記金額で流通していました。これを計数貨幣と言います。それに対し、銀は重さを計ってその価値を算出していました。これを秤量貨幣と言います。七月に
そもそもは一両=銀60匁=銅4000匁が大体の基準でしたが、銀貨はその品質でかなり価値が変動し、物価もその影響を相当受けていた様です。
ところで、一両の価値を現在に換算は不可能ですが、10万円と考えると、当時の屋台の蕎麦、これは「ニ八そば」と言い16文で約400円となります。
肌感覚で、そんなものかとも思います。

堀内長玄覚書第三十一番
正徳四年(1714年)七月に大高水(大洪水)が起こり、大橋の東詰にて大切れし、
大木の榎とれん入坊の家が流れ、夥しく砂が入りました。
その時、我が家では綿作をしていましたが、行市三反(場所不明)
ひかい田一反五畝(場所不明)油取りにて大肥致され(原文通り、油粕等の肥料をたくさんやり、と言う意味か)大極上の収穫が見込まれましたが、泥まみれになり、大損になり、さてさて、残念なこととなりました。

堀内長玄覚書第三十二番
正徳四年(1714年)午の八月に川下の土橋村、妙法寺村と当村の間で南川水廻しに関し
水論が出来しました。この事で、京都まで出向き双方とも物入りな事でした。
この件、京都お裁きにて、相済ませました。
※注  なぜ京都での裁判になったか、またどう決着したかは不明

道作り 10月2日

曽我町の農家の皆様にお知らせいたします

本日は道作りを行います

農家の方は、それぞれ所定の場所へ

午前8時までにお集まり下さいますよう

お願いいたします