堀内長玄覚書(第十九集)百七番百八番百九番百十番

堀内長玄覚書第百七番
宝暦十年(1760年)辰年、当村八幡宮の普請が出来上がりました。八幡(やわた)石橋が出来ました。境内の芝地は六年以前に田地を買い付けたもので、松桜など色々な木を植え今に至っています。これに関して、大坂の伊勢屋道寿老より大きな寄進があって出来たものでございます。
※注 天高市神社は江戸時代から八幡宮と呼んでいた様です。ここに伊勢屋道寿老と言う方が出てきます。この方、曽我出身で大阪で商いで大成功を納められ、曽我に対し経済的に大きな貢献をされています。今後も度々出てきます。戦前までは毎年4月26日の道寿さんの命日に光専寺で報恩法要が営まれていました。中西道寿といい、天高市神社のご先祖と聞いています。

堀内長玄覚書第百八番
宝暦十年辰年、八幡宮に八幡(やわた)講と言う新座が出来ました。是までは町座一組のみでしたが、ここから二座となりました。後に明和三年(1766年)伊勢屋道寿老が   高羅(良)大明神をこの新座に移し九月一日に座営みをしてはどうかと提案され、座中の人々が寄合い、松葉にて仮屋を建て、金六(村人の名、この方のご子孫は今も中ノ町におられます)を当屋として、相勤めておられます。

堀内長玄覚書第百九番
宝暦十年、八幡宮に新座が出来たのを機に、曽我方も申し合わせ、宮講新座一組を作りました。是以来宗我都比古彦神社の座は三座となりました。
※注 宗我都比古彦神社は創建以来曽我座が運営してきましたが、江戸時代に新町座が出来ました。さらに宝暦十年、この年に宮座が出来ました。その後、宮本座ができ、現在四座となっています。

堀内長玄覚書第百十番
宝暦十年、当村大橋(豊津橋)に舟渡しができました。
この橋は以前に妙法寺村の宗順坊と言う方が建立されましたが、これが水害で崩れ、その後、元禄年間に当村より、往来する人々に寄進を募り、また富くじなども催行しました。この時、小綱村のなすびたねと申す人が一番くじとなりました。この橋は幅が三間、長さが二十間ほどでしたが、これも宝暦二年に水害で崩れました。それ以来仮橋を掛けていましたが大水が出るたびに往来川止めとなり、
当村西田井(にしんだい)の百姓迷惑なことと、五十年余り前の書付にもあります。
大坂伊勢屋道寿老は当村の出身の人で、幼少の頃から大坂でおおいに精出しされ、今回の件も随分と世話されました。
さて、この舟渡しの件ですが、道寿老、村役人と相談され、南都御番所(奈良奉行所)に相頼み、御検分の役人に来てもらい、村役人より口上書を差し出し、その方はうまく収まりました。道寿老建立にて、永代舟渡しが完成し、これより永代舟守りは損料(メンテナンスに掛かる一切の費用等)等、永々曽我村の運営となり、諸人おおいに喜んだ事でした。
※注 文中、西田井(にしんだい)と言う言葉が出てきますが、今も自治会活動の中の
つゆ張りや道作りの際に、きたんだい、ひがしんだい、という言い方とともに残っています。

堀内長玄覚書(第十八集)九十九番百番百一番百二番

堀内長玄覚書第九十九番
宝暦六年(1756年)丑の年、私新兵衛は五十八歳になりました。是よりは在所在所への商いも出ることもなくなりました。然るにこれまで田地も段々と増え、二町余りになり
年貢を納めた後の取れ高は八石四斗六升、この預け米が四十石程、また徳米が三十石余りあり、毎年の算用帳に記載しております。
※注 長玄さん綿商いで儲けた金で相当の田地を買い入れています。逆に言えば売った人がいる訳で、そういった方々は小作人になったのでしょう。また曽我の相当の
旧家も放蕩息子のため、家屋敷・田畑・家財を切り売りし、相続が絶えた、と言った話も別の章で述べられています。

堀内長玄覚書第百番
宝暦八年(1758年)陣屋から村役人に対し、庄屋の勘定帳に判をつくようにとの要請がありました。こんな事は以前から無かったことで、お断り(無用の連帯責任を避けるためか)しましたが、庄屋から特に頼まれ、判をつきました。その際、将来もし違算が生じた場合、庄屋が申し開きをすべし、との一札をとり、手形箱に保存しております。
※注 長玄さん金銭に関して非常にシビアです。もっとも油断してると、例えば橋の架け替え金が紛失したりとか、村の金融業者が代官と組んで色々と画策したりとか、また、銀札が突如不渡りになったとか、中々大変だったようです。

堀内長玄覚書第百一番
宝暦九年(1759年)卯の閏七月十日より妻のおちょうが有馬に湯治に行き、同晦日に無事に帰って来、大喜びいたしました。
※注 有馬温泉への湯治ですが、往還は徒歩ですから、今の感覚では海外旅行に行って帰ってきた、という感じでしょうか。

堀内長玄覚書第百二番
同年(宝暦九年)私、新兵衛は曽我座の年寄り、四老に入りました。この時、六十一歳の還暦で目出度い事と存じます。
是より、家督は倅の喜平次に譲りました。喜平次も後に新兵衛を名乗ります。

堀内長玄覚書(第十七集)九十六番九十七番

堀内長玄覚書第九十六番
右の五人衆(九十五番で述べた五人の人々)が江戸より帰国されて御徳米売り付けについて、当村村役人にお殿様の申された趣旨を話されたところ、庄屋・惣代・年寄らが集まり、お殿様が徳米を売ることは甚だ大切な事であり、また月々の賄い金が不足しているならば、何とか米を売って現金を用意せねば、となり出作方(当村以外のところ)へ売ろうとしましたが、どこにも売れず、また本作方にも買う人が無く、仕方なく、
庄屋・年寄その他の人々が買い付け、漸う四十二石を売り、代銀二十一匁を作りました。これより、村役人方が申されるに、この銀子を日歩まわしに両替屋に預け、月々の賄金は両替屋より取り出し、毎年毎年十月まではその銀子でやりくりし、十一月、十二月は段々と御蔵米も納まり、如何様にもなるだろう。また前述の銀二十一匁については毎年毎年の新たな年貢が納まった中から引き戻し、また明くる年に新たな銀子を用意し、両替屋に預けておけば、その利息金もつくだろうし、何とか江戸御屋敷の賄いもやっていけるだろう。これまでとは違い、仕送り人の付け届け、扶持・切米・利合い等、大分にゆとり出ると思われるので、この仕切りについて村方百姓にお任せ下さるようお願いしたところ、お聞き入れ下さいました。
また、江戸より買い人の希望通り江戸より証文を発行するので、早々に銀子を調達するようにとの仰せでした。
その後、江戸より証文も届き、惣百姓皆々江戸の賄金については片付いたものと、安心いたしました。是より江戸も少々倹約され、預金も増やされば、前述の徳米の代金も近年のうちに回収できると思ったことでした。
ところが、お殿様、何を思った事か、徳米の代金は江戸では調達できないので、残らず差し出す様に(村方が自分達の米を自分たちで買い、その金を賄金に充て、今後の年貢時に少しづつ回収しようとしたところ、それを取り上げたと言う事)と厳しく仰せられました。惣百姓まことに気の毒で色々と嘆きを申し上げましたが、全く聞き入れられず殊の外のお叱りを被りました。
この暮れより明くる二月までに残らず江戸に、先の銀子を差し出す様にとの事で、
役人の藤井宇忠太様が残らず取り立て、江戸に持っていかれました。
百姓ども、どうしようもなく、途方に暮れ、なおまた京都名目金の借金も相まって誠に嘆かわしい事でございます。
※注 この頃から領主の金詰りが激しくなり、年貢以外に色々とお金の取り立てが厳しくなり、村人に大きな負担となってきます。これらが重なり、後の一揆へと繋がる伏線となっています。

堀内長玄覚書第九十七番
その頃、御代官の森田利兵衛様から、宗我都比古彦神社の曽我座の年寄助三良、
伊兵衛、利助、喜兵衛、神主四郎三郎らを呼び出し、曽我太神宮の御榊を新町座の当人方へ仮屋を建て、そこに移す様にとの沙汰がありました。
曽我座としては突然の、新しいやり様で皆々驚き、寄合を持ち、この事に関して、昔より曽我太神の事は曽我座が支配してきたことで、その事はお殿様のご先祖も十分に承知されている事であり、今回のお沙汰は承知できませんと森田様に返事いたしました。森田様は言うとおりにするよう厳しくお叱りされましたので、曽我座の人々は致し方なく、今井の堀内金兵衛、当村の北林又七、北林幸助、この三人が江戸へ下りました。
この三人、昔よりの曽我座の古文書等、其のほか京都禁裏の油小路大納言様の御書付曽我太神縁起等を持参し、お殿様にお聞き入れなさるようにしました。
然るに、当村において、この九月朔日、新町座の庄兵衛方で青杉葉で御仮屋が出来ましたが、神主の四郎三郎は御榊を移さず、その旨を曽我座中に申し聞かせ、やむなく新町座では仮屋を解き、世間への面目丸つぶれとなりました。
是より、両座おお騒動となりました。江戸に下った三人は、お殿様より、曽我座にて行うようにとの下知書をもらい、殊の外なるおお騒動も収まりました。
この御下知書は曽我座の宝物でございます。

堀内長玄覚書(第十七集)九十四番九十五番

堀内長玄覚書第九十四番
(九十三番で江戸から帰ったあと)あくる日の八月九日に当地大雨が降り、大高水となりました。この時、すずめど(雀堂)の堤が切れかかりましたが、すんでのところ、何とか持ちこたえ、先ずは別条が有りませんでした。

堀内長玄覚書第九十五番
宝暦四年(1754年)亥の二月上旬に、江戸の御屋敷の月の賄金の仕送りが無く、これについて、当村の庄屋助七郎(北林助七郎)、年寄半兵衛、組頭半次郎お、同孫七、茂平らがお殿様から呼び出されました。お殿様からは、月々の賄金がもうどう仕様もなくなっている、ついては曽我村の知行米から六十石を特に売れば代銀が銀三十匁程になるだろうと思う。早速、村に帰って村役人ともよく相談をいたす様にと申されました。
この時、半兵衛、半次郎、茂平の三人と、川元半兵衛様、藤井宇忠太様、が相談されましたが、この五人は宗我都比古彦神社の新町座の座中の方々で、今回の賄金の便宜を図る見返りとして、今年から、曽我太神宮の御榊を新町座に移し、今後は毎年九月朔日に座の頭人方に御仮屋立て、そこに移し奉り、今まで曽我座が行ってきたとおりにお祭りするよう願い出されました。お殿様は、昔より前例のない事とは思われましたが、お聞き入れられ、今後、曽我座と同様にするようにとのお墨付きを与えられました。
※注 宗我都比古彦神社の新町座は江戸時代に新たにできた座で、神社創設以来の座である曽我座とは歴史が違いますが、何とか格上げを願っていた様です。これが後々曽我座と新町座の確執につながって行きます。ついには、曽我座からお殿様に
恐れながら口上書と言うものが出され、解決をお願いすると言う事態に発展します。

粗大ゴミ収集日

明日11月28日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は18時から20時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第十六集)九十三番

堀内長玄覚書第九十三番
(九十二番までの江戸出張の帰り)
宝暦三年亥の七月二十五日江戸を出立し木曽街道(中山道)板橋宿より岩ふち村へと行きました。この所、折からの大高水で家の屋根まで水が乗り、村の中の田圃の中を皆々、舟渡しで、さてさて、恐ろしい事でした。
それより、み田村と言う渡辺綱(源頼光の四天王の一人)の里があり、この所に渡辺の宮が有りました。
二十六日夕刻、上尾に泊まりました。その後、熊谷と申す宿場町を通りましたが大層繁盛な所で熊谷れん正坊(平敦盛を討った熊谷次郎直実)の塚が有り、この所に熊谷寺と言う浄土宗の寺が有りました。
翌二十七日本庄で宿泊。それから岡部村と言う大きな村を通りましたが、ここに岡部の六弥太(一の谷の合戦で平家の武将、平忠度を討ち取った源氏の武将)の塚があり、それから、かんな川と言う大きな川を渡りました。
ここまでが武州の地で、ここからは上州の地となります。
からす川と言う大きな川を舟で渡りましたが、この辺りでは畑の縁に残らず桑を植え養蚕が盛んなところです。
さらに、高崎と言う七万石の城下町に入りましたが、繁盛の地で、絹問屋にて白嶋を一反買い求めました。この代金が十七匁(恐らく銀で三万円弱くらい)大層安いと思いました。それより、段々と行くと横川と言う所に関所があり、通行手形を見せ通りました。二十八日は坂本に泊まりました。ここからは信州の地です。
うすい(碓氷)峠と申す大きな山があり、さだみつ(碓氷貞光、頼光四天王の一人)の塚がありました。
それより、追イわけ(追分)と申す本宿があり、ここは遊女が多くおります。ここまでの道は道幅も広く、およそ二十間とも感じました。(※ちょっと広すぎる様に思います)
ここが、北国西国の分かれ道です。それより、あさまがだけ(浅間山)峰より煙が立ち昇り、この辺りは広い原で、そば・稗などが栽培されています。
さて、この辺の女どもは老いも若きも尻をまくり立ちしょんべんする所で、それより村々に、馬の子取所(意味不明原文通り)にてむさ苦しい所です。茶屋に入り、飯を食べると蝿が黒胡麻を振りかけた様な有様です。
二十九日に望月と言う所に泊まりました。ここから下諏訪と言う厳しい峠があり、 春日大明神大社(諏訪神社)が有り、この辺りに水海(湖)があります。
それより和田峠になり、和田の吉森(和田義盛、鎌倉殿の十三人の一人)の塚があります。この山に黒水晶と言う石が有ります。
それより、塩尻峠となり、ここから越中の立山が望めます。三十日の夕刻に塩尻に泊まりましたが、ここへは信州の松本から、米酒など色々な品物が届きます。
八月朔日夕刻に福嶋に泊まりました。この辺りのの家は丈夫な材木で作り、壁は板張りで竹は使わず、建てられています。名物の蕎麦きりは結構ですが、汁はいただけません。そば餅も名物です。
それより木曽殿(木曽義仲)の屋敷の跡があり、ともゑ・山ふき(巴御前・山吹御前)の
定念仏寺が有り。樋口の次良(木曽義仲の家来の樋口次郎兼光)の塚があり、今井四郎兼平(樋口次郎の弟)の塚が有りました。この所に今井村と言う在所が有りました
それより、木曽のかけ橋が有り、それより段々登った所に津嶋太郎つり場が有り、谷川に見事な大岩が有り、ここの大淵で水を飲み景色は誠に見事な物でした。
二日の夕刻、大井に泊まり、ここから尾張に入り、三日夕刻、菊名に泊まり、四日夕刻かふとに泊まり五日夕刻に名張に泊まり、八月六日、無事に当村に帰りました。
八日に当村会所に庄屋年寄惣代組頭、残らず寄合い、江戸のお殿様の趣旨を話し
村々(曽我・大福)承知なさられ、それより段々寄合いの上、相談いたし、その内容は別紙、帳面に記載の通りです。
※注 なかなか見事な紀行文です。また頼光四天王や源平の合戦などにまつわる人々についてよく知っておられ、それゆえ、そのゆかりの地に興味を持って記載されています。その当時、そういった物語やそれに関する事が広く流布されていた事が伺えます。しかし、今日の様に色々な書物やテレビなど無い時代にどうやって、そういった知識を得られたのか、その点にも興味が湧きます。