堀内長玄覚書(第二十九集)百七十六番百七十九番

堀内長玄覚書第百七十六番
明和三年(1766年)戌の八月十二日に南都御番所様より有難いお触書が出ました。
その内容はこれまでの様に何事に寄らず出訴に出た場合、そのかかり役人に金銀を以て賂いする事は固く禁ずる、と言うものでした。
もし、村々において、無宿者等の行き倒れがあれば、何事に寄らず、御番所より検死役人を派遣するが、駕籠にて送り迎えは固く禁止する。なお又、内証にて金銀を例え少しでも袖の下へ入れ、賂いするような事が聞こえれば、その村々の役人は言うに及ばず、賂いを渡したものも厳しく咎める。そのほか、村々の番人共、いぬ人になり さる人になり、長吏へ内証にて知らせ、町人に賂いを要求するなどの行為は、
盗賊非人が政道を行うのも同然である。何事に寄らず近年はそう言ったことがあり、不届き千万であると思う。今後は御番所への願いの筋が有った場合、今までの様に宿屋で日を重ね、多くの出費が重なるような事が聞こえた場合は、きっと厳しく吟味するものと心得よ、との事です。
また何事に寄らず願い事が発生すれば諸役人に色々と差支えもあることから、今後は願いの筋は訴状に書き、内に宛名を書き封印して御番所に直に差し出すようとの有難いお指図です。
私はついこの前、八木権七・今井治右衛門の件で訴えた件も、六両ばかり無益に費やしましたが、上記の有難いお触書がもう二十日ばかり早かったら、そんな難儀をしなくて済んだものと、少々残念ではありますが、国中の者どもみな今回のお触れで大喜びでございます。

堀内長玄覚書第百七十九
明和三年戌の九月朔日、私宅の養子小八郎が曽我座の当家でしたが、妻女のおすゑが盆前から病気が段々と悪くなり、毎日案じ暮らしておりました(この時おすゑさんは十八です)しかし小八郎は座のお金も受け取っており、もう日にちも無く(村の秋祭りですがく9月1日から座の当家に当たった家で仮屋立て神様をお迎えし、7日の祭りが済めばまた神社に帰られます。その間に不幸ごとなどがあれば大変です)もし神代(神様がいらしている間)の間に往生するような事が有ったら氏神様への粗末になり、世間で何を言われるか分からない、さあ、どうしたものか、今更ほかの家に当家を頼みも出来ずしかしひょっとしたら病気が快方に向かうかもしれず、凡庸な人間の事ゆえ、心の迷いも悲しく思います。
もし、九月一日から七日の間におすゑが亡くなる様な事が有れば、氏神様の御移りなされている間に何という事、と世間の口も有り案じ暮らしていましたが、もはや早くも八月の晦日になり、是非なくこの家に氏神様の仮屋立て、そのほか米・肴など諸事の拵えをし、座家中へ呼び出しを遣わし、皆々様が集まり来たり、宵宮の箸けずり等首尾よく勤まり、明くる九月朔日早朝、曽我大神宮様をお迎えに、当人の小八郎と私が神社に参り御機嫌よく御仮屋に移られ皆々有難く御礼申し上げました。
四ツ時分(午前10時頃)に座中衆に本膳を出したところ、おすゑも重き枕を上げいう事には「今日は目出度い小八郎様の御膳ですので私も御膳に座りたく」と申し、皆々悦び
早速に本膳に座らせました。病人殊の外機嫌よく、少しずつ食べ、私共も大喜びでしたが、明くる二日に容体が重くなり、医者衆も色々とお薬を加減されましたが、元気なく、気の毒千万に案じくらしておりましたが、四日八ツ(午後二時頃)時分、病人のおすゑが申すに「曽我大明神様がご機嫌よくおいでなされている間、この間は阿弥陀如来様を拝むことは遠慮しておりましたが、心に掛かっておりますので、恐れながら、阿弥陀如来様を拝まして下され、と枕を上げ願ったので、この事は有難い事と、早速屏風を引き回し、御机を直し三ツ具足、香、花を用意し勤行をいたしましたら、病人おすゑも有難くも殊の外なる悦びで「かようなる浅ましき者をお助け下さる事の嬉しさ、病人おすゑ、涙かぎりなき悦びでございます」と申し、皆々有難くご報謝、お念仏の悦び、筆にも尽くされません。
然るに明くる五日に御供になり、この家の内で湯神楽を上げるが神様の御機嫌は如何かと案じておりましたが、殊の外なる御機嫌でご満足に思し召し、一同の者、皆々喜びました。
明くる六日八ツ時分に曽我大神様御榊を神主四郎三郎殿が神輿に移し。送り御供当人の小八郎が御幣を持ち、酒・さん米等を下女に持たせ、喜太郎も御供で装束を改めて出立するところ、病人のおすゑも大病の枕を上げ、見送りましたこと、この悦びは鍵なくうれしい事でした。
然るに明くる七日は当村神事のところ、段々病人弱り衰え、もはや臨終も間近と相見える状態となりましたが、いまだ曽我大明神様、御仮屋にいらっしゃり、御幣も当方にある状態で、さてさて心配な事。そこで神主四郎三郎殿を当方へ呼び、病人が心もとない状態であることを告げたところ、四郎三郎殿、それならば今晩に御幣を神社に移しても良いでしょう、と仰せられ、早速にお神酒、さん米等を拵え、神主に渡しその夜に神社に帰られました。
そこで、その夜に御仮屋を解きかけましたが、あまりに夜更けで近所への聞こえも如何なものか、という事で差し控え、明くる八日、明け六つ時に仮屋を解き、後仕舞い掃除などをしていたところ、時を同じくしておすゑの様子が変わり、「皆々様へ暇申し上げます。喜平次様、小八郎様の事頼みます。喜太郎様はおとわ様もこと頼みます。」と申し、その日八日五ツ(午前八時頃)時、お念仏とともに、おすゑ、有難く往生いたしました。
※注 当時の祭りの時の段取りなどがよくわかります。また危篤状態の病人を抱えながら一方で祭りの当家になり、長玄さんの心労がよく伝わってきます。それにしても
意識もあり、別れの言葉もちゃんと言える状態から亡くなるなど、現代では考えられませんが、当時の臨終はこの様なものだったのでしょう。