堀内長玄覚書(第二十七集)百五十八番百六十番百六十一番

堀内長玄覚書第百五十八番
明和二年(1765年)四月十五日、大雨降り大高水(洪水)となりました。当村新地の孫七水車が大きく壊れ半流れになり芝ノ後(サッカー場の西、堤防のさらに西、川との間の河川敷の所、河川改修の前はこの辺り一帯は畑地でした)の堤切れ(江戸時代の堤防は今よりも川寄りと推測されます)十二三間の方に菜種をかり干ししていましたが全部流れ、堤もあちこちで切れ、大乱水でした。

堀内長玄覚書第百六十番
明和二年、六月大日照りで、用水は一切なく、さてさて百姓は難儀いたしました。
土用まで照り抜き植田はどうにもならず、草が茂り株は細く不作でございます。

堀内長玄覚書第百六十一番
明和二年八月三日、朝五ツ(午前8時頃)からの大雨で田も綿畑、たばこ畑も水でやられました。百姓方は大難儀なことでした。
その時の相場は、実綿百十五六匁かあら段々上がり百三十四五匁になり、米は六十匁から六十四五匁になり、百姓方随分いたみ、十月、霜月に至って行き詰まりとなる有様でした。
※注 洪水と日照りが同じ年に交互にやってきます。領主の借金が増大し、御用金の要求も激しく、村人の困窮はますます増大していきます。これが三年後、明和五年の一揆へと繋っがっていきます。郡山や田原本、今の広陵町や畝傍、吉野方面はもっと酷い状態であった様です。

粗大ゴミ収集日

明日1月27日は 粗大ゴミ・環境ゴミの収集日です。

本日は18時から20時まで、明日は7時から8時30分までに

陣屋会館前にご持参ください。

尚、ゴミを持ち込む際は 自治会員証をご提示の上 時間厳守でお願い致します。

金属入りのソファーやマットレス、硝子付き家具類などは分別してお出しください。

収集出来ない禁止品の持ち込みは 厳禁です。

ご理解とご協力のほど よろしくお願い致します。

堀内長玄覚書(第二十六集)百五十五番百五十六番

堀内長玄覚書第百五十五番
明和二年(1765年)光専寺の本堂の登り段橋が今年になっても出来ておりません。
私も親の玄信様の享年と同じ年になり、ここまで生きてこられたのも御縁と思い、
せめて少しでも御礼ご報謝させていただこうと思い、いわれの宮(中曽司の磐余神社か)で大松一本買い受け、坊城村の大工伊右衛門により、完成いたしました。
これもご両親のお陰と思い、有難い事でございます。

堀内長玄覚書第百五十六番
明和二年、曽我の森の石灯籠を再興いたしました。
これは、以前に先祖の長玄様が万治元年(1658年、106年前)にまた、先祖の寿意様が、元禄九年(1696年68年前)に寄進された物ですが、近年粗末になり、崩れて台と竿と、屋根とが森の中にあると言った状態でした。
そこで、今回私が新たに寄進いたしました。
(添付書き 毎年十八夜に灯りをともし、さてこの後は粗末に致すまじく候)
※注 この石灯籠、今も宗我都比古彦神社の参道脇に立っています。

堀内長玄覚書(第二十五集)百五十二番の二

堀内長玄覚書第百五十二番の二
二十両の目くされ金ようもおのれの口から吐き出しおったは、と申し私の一生の無念、筆にも尽くされません。
川原氏が申されるに、いよいよ百両が出来ずば内六両三歩は了見してやるが残りの
九十三両一歩はきっと請けるか、もし不心得ならば今夜からでも江戸へ下って御前にて申し訳いたすか二つに一つじゃ、返答せい、
と私の頭の上に立ちかかり大声にて厳しく申され、さてさてこの時の難儀、泣くにも泣かれず立つにも立たれず大難儀でしたが心を強く持って
お願い申し上げました。すると川原氏は、然らば是非に及ばず、これよりおのれが家に行って家財一切売り払い百両にならないなら、
それで了見してやる、もし百両が五百両になろうとも、成り上がり次第に取り上げる、いかにいかにと大音にて立ちかかり、申されました。
その時、居合わせた村役人の半兵衛殿と庄屋助七良殿とが取り成しをされましたが聞き入れられず、私はこの時、もはやこれは私一生の
難題と心を据え、私の家財を売り飛ばすとされるなら一家中呼び寄せ、如何様にされても致し方なしと申したところ、
惣右衛門(この辺りから敬称の殿がなくなり、氏または呼び捨て)身拵えにて、下役人藤井伊兵衛に矢立を持たせ供連れに提灯を持たせ
庭まで降りかかり、私を引き連れ我が家に行こうとするところ、助七良殿、半兵衛殿が両方から私の羽織の裾を抑え申されるに、ここの所はひとまず印形され、その後で如何様にでもお詫びなされては、とのこと。差しうつむき思案をしたところ、これ以上大騒動になってもと思い、また五人の者、私に相談もなく印形したのも心外ではあるが九十三両一歩印形致しました。さてさてその時は心外とも腹立ちとも申す方もございません。倅、喜平次が迎えに来てくれて、その肩に寄りかかり、会所へ戻ってまいりました。その時、上記五人の者、会所の東北の方で心良く遊んでいるのを見ると大金の私の難儀を喜んでいるのかと、恨みに思ったものです。
それより極月十五日に内金五十両を上げ、残りは酉の二月に上げることと致しました。二月に残り金を上げる際に、上記九兵衛殿と川原氏は内外とも昵懇なので、今まで度々上げてきた御用金は年貢時に決済下さるように、また今回の九十三両一歩も私にとって大金なので、十三両一歩は酉の極月にまた残りは戌の年から四年の各年貢時に決済していただくべく証文をお願いし、結果受け取り証文を下されました。
この御礼に九兵衛殿に生鯛二枚を進呈いたしました。
然るに、上記八十両はいまだに決済されていません。
これより今年に至るまでの御用金は銀一万四千四百十七匁(一両はだいたい銀60匁なので約240両、約2400万円くらいか)にもなります。
身分不相応な御用金で迷惑とはこの事です。
※注 曽我村・大福村は旗本多賀氏の領地ですが領主の多賀氏は江戸暮らしで、領地の行政は郡代(代官)が行っていました。普通に考えれば郡代は多賀氏の家来と思いがちですが実際は違います。江戸初期から下市の浪人の庄田氏が代々雇われその職に就いていた様です。時々は川原惣右衛門のような、自薦の渡り役人が就いたようです。
この川原惣右衛門は長玄覚書を見る限り非常に無能で、渡り役人の性として領主の前では大見えを切り領民に、ただただ力押しに苛斂誅求な要求を突きつけ、ついには、一揆を惹起する事になります。

堀内長玄覚書(第二十四集)百五十二番

堀内長玄覚書第百五十二番
明和元年(1764年)申の十月上旬に川原惣右衛門(注 多賀氏の郡代(代官)で曽我村大福村の行政を行う総責任者。但し多賀氏の家来ではなく丹波もしくは丹後出身の渡り役人で、渡り役人とは自らを売り込んで大名や旗本のブレーンとなる人物で、多賀氏の場合たいていは下市の浪人の庄田氏を郡代として200石の家格で雇っています。200石の知行もしくは切米(現金支給の給料)を与えていた訳ではなく、あくまで格で、江戸時代の武士はこの格によって例えば外出の際の供の人数や、騎馬、槍持ちを付けるとか色々な特典がありました。この川原氏の就任以後、村では苛政が続き、ついには一揆へと繋がっていきます)殿、江戸へ登られ霜月中旬に曽我・大福の両村の村役を呼び付けられました。そこでの話は江戸のお殿様は物入りが多く、お手元不如意につき大福村又作に二十両、平兵衛に三十両、同村庄屋藤助に六十両、曽我村九兵衛に
二十両、庄屋助七良に七十両、新兵衛(長玄さん)に百両を差し出す様にとの事でした。
急な事で甚だ驚き入りました。今までも御用金や先納金など度々差し出しているのにこれは如何なる思し召しか、これはお詫びの上お断りするしかない、という事でその場はお断りを入れ、皆々立ち帰りました。
ところが極月十日にまたまた上記の六人の者が陣屋に呼び出され、川原惣右衛門殿が申されるには、先だっての御用金都合三百両、この十五日までにきっと差し出す様にとの事で、甚だ困り難儀迷惑なことと六人の者、会所にて色々と相談するも致し方無く、当村光専寺の御住職様にお頼みしようとなりました。ご住職様、色々と申し入れなされましたが川原氏一向に聞き入れず、ようよう、三百両の内、五十両は来年酉の二月まで引き延ばすが残る二百五十両はすぐ差し出せ、との事でまたまた光専寺の
ご住職さまの頼みお詫びをお願いいたしました。その結果、ようよう二百両はすぐ差し出せ、残り百両は来年の二月まで引き延ばす。また利息は月三朱(一朱は一両の十六分の一、従って月約16%)のところ、年に五朱まで引き下げる、これ以外は如何なる要望も聞き入れない、と川原氏、ご住職に申し切りに申され、ご住職も致し方なく、これきりにて引き上げなされました。
さてさて、六人の者難儀迷惑、わけても私一人に百両もの大金を申し付けられ、途方に暮れておりましたがその日七つ時分に(午後四時頃)川原氏より六人の者すぐに陣屋に来るようにと厳しく呼び出しがあり、六人の者、一緒に陣屋へ出向きました。
そこでの川原氏の話ですが、その方共、今回の御用金について不承知の様だから、 一人づつ呼び出し吟味いたす、残りの者は会所におれ、との事で足軽の藤井伊兵衛を番につけられました。
先ず初めに大福村の又作が呼び出され、上記の二十両について早速請合いの印形をいたされ陣屋より下男一人を付け会所に送り戻られました。
さてさて腹立たしいのは、まるで我々を咎人のように扱い、残りの五人にはどのような様子であったかは口止めし、次に大福村の平兵衛が行き、同じ様に印形し、その次に当村の九兵衛が同様に二十両の請合い印形をし、その次に大福村庄屋藤助が同じように六十両請合印形され、その次に当村庄屋助七良も同様に七十両請合印形されました。その後、私が呼び出され、川原惣右衛門殿がおっしゃるには、上記五人の者、
皆この度の御用金、相違なく請合印形致した。その方も百両、相違なく請合印形致す様にきっと申し付ける、との事。
私は嘆きながら、私は近年不幸続きで妻子共、大病が続き、その上、相果て不幸せな事で、これまで何度か御用金を差し上げ、殊の外金回りが悪くなっております。どうかこの度の御用金については、ご容赦下さいます様と申し上げました。また恐れながら私は先年戌の七月に村方御用で江戸に下向した際にお殿様から、新兵衛その方はこれまで度々御用金に精出しし誠に神妙である。今に返済しておらず、その方が難儀していることは尤もである。勝手向き持ち直し次第、返済いたすので、今少し待って欲しい、左様心得よ、と有難いお言葉を頂戴いたしました。
そう言う事もあり、また度々これまで御用金を差し上げております故、今回の御用金は何卒、ご容赦下さりませ。とは言いましてもこの度はわけても御大切な御用と心得ますので二十両はご用意させていただきます、と申し上げたところ、
続く

堀内長玄覚書(第二十三集)百五十番百五十一番

堀内長玄覚書第百五十
明和元年(1764年)申の三月より、殊の外、天気は雨が続き百姓方随分と勝手が良く
植田は五月中旬までに植付ができ、その後段々と雨が続きこの年は川ばり、水替え等一度も無く、さてさて珍しき年で野作の廻りも殊の外よろしく、有難いことでした。
別けても近年難儀していた京都名目金も(幕府から今なら約4億円の借金をしており、この利払い等で大変難儀をしていました)三十年賦になり、御公義の御慈悲と有難く当村の百姓も今年は少し心の休まることでした。
そこで、この年の七月晦日に町々に分かれ当村六ヶ所にて日待ちを行い祈祷をいたしました。
※注 日待ちは、今は正月明けの行事のようになっていますが、元々は何か喜びごとや悲しみごとが有ったとき、神社等に集まり、夜を徹して祈祷をし夜明けを待った、即ち日を待ったのが始まりと聞いたことが有ります。

堀内長玄覚書第百五十一番
明和元年申の八月二日夜、七つ(午前4時頃、今風に言えば三日の午前4時)頃から明くる三日明け六つ(午前6時頃)まで今まで覚えが無い様な殊の外なる大風雨で、丑寅風が吹き、その後、未申より吹き返し、大風雨で、さてさて恐ろしき大風でした。
当村の西養寺(今の東楽寺の所、元々東楽寺は今の真菅小学校の所にあり、明治41年に小学校建設のため、西養寺と合併し今の場所に移転しました)の大松を吹き倒し、
太子堂と庫裏とがこの松にてつぶれ、東口制札等(お触書を掲示した場所か)も吹き飛ばし、西口の藤四郎の家がつぶれ、北の文四良の家がつぶれ、其の外、村方の屋根の瓦家々に吹き飛ばし、曽我の森の神木おびただしく吹折れ、二抱え程の櫟の木が中頃より折れ、枝木は殊の外なる量になり、神主四良三良へ取り入れ、残る木や枝を十二日に宮で売り、村方で買い入れ、新町座の方々が残らず売りに行かれました。曽我の森の分で銀五百匁(九十万円ほど)ほど売り出し、また、八幡さんの神木は銀七八十匁程になり、また東楽寺神社(真菅小学校の所に東楽寺があり、そこに鎮守の森があり、そこに秋祭りの御旅所を拵えていました)の杉が中折れになっており、これは七匁で売り、その三か所の売上金の半分を四良三良に渡し、残りは宮に渡すことになりました。
然る所、東楽寺の住持から、前述の吹き折れた杉の木を庫裏の修理の普請に使いたいとの要請があり、曽我座中で相談のうえ、東楽寺に渡しました。
当国(大和)のいたる所で宮々の神木が夥しく吹き折れましたが、不思議な事に宮々の
社(やしろ)は無事で神力相見え、有難く、当村西養寺の太子様(現在、東楽寺所蔵の、橿原市指定文化財の聖徳太子像)は御座所ともども無事で、其の外、仏具等にいたるまで、少しも損害を受けませんでした。しかしながら、大和の国の在々の古い家は多くが吹き倒され圧死する人も多かったようです。
そういった折、三日朝から諸方の米商人が来、今井八木の米相場が大いに上がると読み、大坂へ飛脚を仕立て、米の買い取りの手を打ちました。ところが四日朝になって、米相場は下落し、米の買い占めを画策した人々は大変な損害を出しました。
と言うのは、西国北国は悪風は一切なく、また大阪も少しの風で、米相場も段々下がり、加賀米で三日四日頃は一石あたり五十四匁であったのが、十五六日頃は四十八九匁まで下がりました。
私も大不覚で、世上、今回の大風は一時は強く吹いたものの、極めて短時間で収束した故と申し、田畑の被害も少なく百姓方は大いに喜びました。
※注 東日本大震災の時も、地震直後に建設関係の株が高騰するなど、いつの時代でも災害を横目に金儲けに走る輩がいるものです。長玄さんも一口乗ったものの、大損したと反省されてます。
米の価格ですが、基準となる米があった様で、今回は加賀米換算での価格ですが、時によっては筑前米などが出てきます。今でも、コシヒカリ、ヒノヒカリ、キヌヒカリでは微妙に値段が違いますが、江戸時代も産地により価格差があった様です。