堀内長玄覚書(第二十八集)百七十五番

堀内長玄覚書第百七十五番
明和三年(1766年)戌の六月に南都(奈良)御番所のお奉行様が代わられました。
酒井丹波守と申すお方で、着任されて五十日ほどの間に、諸役人や在在の町方役人や百姓方、其の外、下々番人に至るまで、結構なお殿様と申しております。
如何様なる難しき事が発生しても事やわらかくお捌きされ、そのお捌きも全く隙がございません。
これまでは、御番所の役人衆や町々村々の番人で犬と言う人、猿と言う人(最下層の番屋の役人、役人と言うより中間で有体に言えばゴロツキの様な感じで、有ること無い事を言い立て、金にしていた様な輩)随分と気まま勝手に動き回り、御番所のお殿様も知らぬ顔で、犬ひと、猿ひとから長吏、村々の番人は鼻高になり、例えばの話ですが村に非人の行き倒れが有っても、無宿人の行き倒れにて、簡単に処理できるところ、殊更に難しく南都の長吏に届け、それを受け、南都の御番所からはお目付け役人同心衆が南都井上町から駕籠に乗り、其の外、長吏と番人と上下十二三人も出て
道中の飯酒、行き戻りの旅銭も村方持ちで庄屋年寄が付き添い、南都御番所前の宿まで行き、早速に御番所に書状を提出しても一向に沙汰が無く毎日毎日、宿屋で寝起きで金もかかり、仕方なくその役人にも金を包み、この役人にも金を包み、ようように
吟味が始まる有様で、非人の病死行き倒れごときで物入りになり米に直せば三十石ほどの掛かりになることです。そこで、先年より当国(大和)質屋仲間できましたが、八木出身の味噌五郎と申す質屋頭がおり、質屋仲間の株一株につき銀八匁づつ出して、
この者に渡しておけば、そこから金が役人衆に渡り、容易に事が運び、早速に相済むこととなります(こうやって質屋の株仲間も袖の下の一端を担っています)
また、少々の金持ちの人で、質屋の切手を持たない人が少しの質物で銀銭を貸すことが有りますが、それを咎め、失せ物吟味と称し、十五六人の役人が出張り、その人の家財を付け立て、帳面等も取り上げ、土蔵を封印し、殊更難しく話を持ち掛け、結局袖の下を二両、三両、五両、十両と役人銘々の心次第に出し、またその様な役人が来ないように下役の長吏、番人に内証にて渡したり、そういった賂い銀が当国(大和)中でおよそ二千両ほどにもなった由でございます。
南都御番所役人、其の外長吏、番人、いぬ人、さる人、皆々悦び油断していたところ、今回の酒井丹波守様、打ち換えるようなご吟味にて、八月上旬に番所役人、長吏いぬ、さる、番人を召し出し、在々の質屋吟味に付き内証にて過分の金銀を袖の下として取っていないか厳しく吟味されました。
さて、皆々お役人、其の外の人々皆な目を覚まし、長吏、村々番人等これまで、ゆすり取りにしてきた金銀を内証にて戻したり、其の外、役人の遠慮もあり、閉門もあり長吏が一人入牢になりました。
それより、村々番人共、倹約になり、世上事納まり、有難く、この度の南都お奉行様は広大の御慈悲なる方でお捌きの次第有難く、皆々南都には足を向けて寝ない(原文は南都之方へ寝伏致スにも、心をつけ寝候様・・)ような、諸人の悦びでした。
それより、南都奉行所に告げ口をする、いぬ人、さる人もいなくなり、世間静かになり、国中の人々、大いに悦びました。
※注 名奉行で知られる酒井丹波守忠高が赴任してきた時の話です。
当時の役人の袖の下の有様や、嫌われ者の番人の有様がよくわかります。
なお、この酒井忠高は上方落語「鹿政談」に登場する名奉行のモデルになった人と言われています。