堀内長玄覚書(第三十七集)二百三十一番、二百三十二番

堀内長玄覚書第二百三十一番
明和五年の十二月末に新たに郡代となった庄田氏がにわかに江戸に下られました。
道中早打ちにて、極月二十五日暮れ六つ(午後5時~6時頃)に出立され、大晦日(十二月三十日)に着くよう昼夜五日切りの予定で出立されました。
出立に先立ち持参金百両か五十両を村方に用意するよう仰せ付けなされましたが、前書の通り百姓は行き詰り状態で百姓からは少しの金も出さなかったので、庄田氏より田原本の安部田屋から金を借りこの証文を村方に差し出す様仰せ付けられましたが、役人が申すに、先年お指図により安部田屋から銀三千匁(約五十両、五百万円ほど)を村方印形にて借りましたが、お殿様より返済が無く、段々と返金の催促が来て更に南都の奉行所に出訴されました。村方も迷惑し、ようよう大坂の伊勢屋平兵衛に借り換えして安部田屋に返済しましたが、大坂への借金は残ったままの状態で、またまた村方印形にての借金は出来ませんと言ったところ、庄田氏殊の外なる御腹立ちでしたが理詰め故(村方に理があるので)是非なく安部田屋へは庄田氏の一判にて借用し、急ぎ江戸に出立されました。その際、庄田氏は陣屋に残る役人の森田甚太夫、竹田安高、井上長兵衛らに、庄田が留守の間、どの様な催促が来ても、一銭も出すことが無い様に,村方にもよく心得させ(百姓から催促が来ても金を出さない様に)と言い置かれ、極月二十五日暮れ六つに出立され、晦日の夕方に江戸に着かれました。
今回の江戸への出立は、庄田氏がどの様な思し召しか、江戸の殿様からの御呼出しも無く、百姓方から頼んだことも無く、庄田氏一人の思案で行かれた様です。其れより、明くる丑の二月十一日に当村にお帰りになられました。
※注 急いで行けば、江戸までまる五日で行っています。それにしても当時の人は
相当の健脚だった様です。

堀内長玄覚書第二百三十二番
明和五年子の極月三日、孫のおでんが疱瘡で死にました。法名は釈尼妙好で、この子の母親も死んでおり、後添えの母も亡くなっており、妹のおるいも死んでおります。
残るは、このおでん一人で父親の喜平次はこの子一人を楽しみに可愛がっておりましたが、力落としの様は筆にも尽くされません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、御催促(仏が迎えに来る)の事と皆々相心得ることと存じます。
※注 天然痘は奈良時代の大爆発的大流行以来、肺結核と並びまさに国民病と言えるものでした。幕末に日本に来た外国人は、あばたの子供が多い事に驚きの目をもって見ています。昭和20年4月という終戦直前の混乱期においても、この地で種痘が行われており、その証明書が残っています。
江戸時代は、人生、まさに死と隣り合わせだった事が良く分かる記述です。

堀内長玄覚書(第三十六集)二百二十九番二百三十番

堀内長玄覚書第二百二十九番
明和五年子の年、江戸で謀反人が出ました。この人は大弐(山形大弐、江戸時代の儒者で思想家)と申す剣術指南で先年の由井正雪、丸橋忠弥に勝る人との事です。有難くも御公義様の御威光にて取り納められました。諸人、有難く思った事です。
※注 世上名高い由比正雪の乱や山形大弐の事件など江戸で起こった事が、赤穂浪士  の件もそうですが、結構こちらにも伝わってきています。

堀内長玄覚書第二百三十番
明和五年子の極月、前に述べた庄田氏が下市に帰られました。是までは浪人で、あちこちに住まいされていましたが、この度、お殿様が当村に入部された折、二百石の格式で郡代にお召し抱えになられました。下市に帰られる際、駕籠に乗られ、挟み箱に槍持ち中間、そのほか足軽に草履取りなど十人ばかり従え下市町に帰られました。それより三日の逗留の後、極月二十二日に当陣屋にお戻りされました。
※ 多賀氏の領地を治める郡代(代官)は多賀氏の家来と思われがちですが、実際は下市の浪人の庄田氏が世襲の様に召し抱えられています。時には川原惣右衛門の様な
渡り役人を召し抱えた様な事もありました。

堀内長玄覚書(第三十五集)二百二十八番

堀内長玄覚書第二百ニ十八番
前略(明和五年十二月十二三日頃と書かれています)
是より惣百姓下地よりの訳合いに腹立ち致し、当村惣百姓腰をかがめ、一同に申し合わせ候は、下地より割付銀、御用金、銀札引替等、書付まで御取り置きなさられ、御年貢時に下しなさられ候約束の所に、困窮の百姓に訳立下しなさらず、最早この上致し方之無く候えば、御請け申し候事相成り申さず。何事に寄らずこの後川原惣右衛門申し付けられ候事、聞き入れ申さずと惣百姓より口々に悪しく申し立て候に付き、惣右衛門、段々不首尾に相なり候て極月十六日に惣右衛門、丹州へ罷り帰り候由を百姓方に承知致し候に付き、当村方百姓申し合せ、御陣屋に詰めかけ申し候は明日より丹州に御帰りなさられ候由承り及び候、其れにつけ五年以前申の年、御用金厳しく仰せ付けられ候に付き、差し上げ置き候此の金子の儀、其の節川原氏申され候は、此の金子に付きこの惣右衛門申し付けべく候義、如何様なる儀出来致し候えども、我等役儀相勤め候えば百姓方に一分も難儀かけ申さず、これ迄の役人の申し付け候は相替わり、きっと返済致し遣わし候所きっと差し上げ致し候様と御申し付けの事、なお又銀札引替の儀も村中の書付御取置きなさられ、この儀も戌の御年貢次に下しなさられ候はずの約束、今日に至りそのままに捨て置き下され候事、引替所九兵衛となれ合いになされれ候や、右の口々早々訳立候はば故郷へ帰し申し候。もし訳立相済み申さず候はば、この村方へ惣右衛門もらい候て我々共の様に百姓致され相続なり候ものか、ならざるものか、為見致したく候事と惣百姓口々に申し候へば川原惣右衛門一言も無く、一揆の百姓方申し候は、最早この後、井上氏申し付けられ候義も知らず請け申さず候、これまた口々に申し候。其れに付け惣百姓口々に申し候は、腰を据え、おのれ惣右衛門め、是迄は御郡代と存じ奉り候て、何事にても請け候所、ようもようも是迄御百姓を犬か猫の様に、百姓を、どうしおれ、こうしおれと、非人、乞食同然に申し、かりそめにも権威にて(権力を笠に着て)御百姓をたたききめ付けようもいたしたな。おのれ惣右衛門め、どこの牛の骨やら馬の骨やら知れぬせぬやつが、御百姓を存分にようもぬかしたな。最早百姓も命限りに候えば、是まで上げ置き候御用金、先納銀、銀札引替等、訳立済まさず候はば是非共惣右衛門め、もらい候と、口々申しに付き、大勢の人々大音にて余りに厳しく申し候えば、その時川原惣右衛門、色香をちがい(顔を青ざめ)罷りあり候。その時、庄田氏その場に御出でなさられ、、庄田氏のひざ元へにじり寄り、こわがり、さてさてその時惣右衛門が有様、申すばかりと無く候。その時庄田氏より惣百姓へ申し渡され候は、この度我等事御殿様当地へ御入部なさられ候に付き、この庄田召し出でられ、何事に寄らず二千石百姓共この庄田に預けおき候と御意有之候えば御殿同前に我等事存じ候か、然るべく候えばこの庄田が右川原、井上一件の事預り置き候ほどに、惣百姓共、差し控え候様と仰せ付け候えども、百姓方口々に申し候は、庄田様御意に候えども、何分惣右衛門は固く申し付け置き候金子供右申す通りの訳合いに御座候えば、是非今夜中に訳立致され候様に御取り計らいなし下され候えば有難く存じ奉り候。若し訳立相済まず候えば、明日丹州へ帰す事なり申さず候、若し帰り候えども是までの様に、御供廻りの、送り駕籠のと申す事、一切なり申さず候と、大音上にて口々大勢百姓より申し立て候所、庄田氏より色々と申され、ようよう預りになさられ候て、申し詰めなさられ候えば、惣百姓御陣屋より皆々引き帰り申し候。それより右川原惣右衛門、同夜半立ち帰り候様に身拵え致し候えども、一人も送り供に参るもの之無く候へば、主一人うろうろと致し候所、ようよう井上と藤井と世話取り持ちにて、孫八一人雇い出し候て、この時は惣右衛門より自分に質銭三百文、柏原まで送り相頼み候はずにて出立候所に、その時江戸川合吉右衛門申され候は、出立の儀今ひと時御待ちなさられ候が然るべくと、若し百姓方に恨みある人有之候て、如何様なる仇いたし候や、夜半頃に候えば先ず御控えなさられ候て、夜明けに出立なさられ候が然るべくと申され候に付き、夜明け方より裏道はかの尻さして出行き、それより土手屋、灰屋、稲屋等のぞき、忍び出しは、尻からげすごすごと惣右衛門一人と孫八と、こそこそ逃げ帰る有様は心地よかりし次第なりと、皆々申すなり。これより、此の事世上共色々のうわさ有之候事、前代未聞これ無く候事と申す事なり。
※注 堀内長玄覚書のクライマックスとも言うべき場面です。百姓方の不満が爆発しいわゆる尻をまくった状態です。普段は武士に対し、へり下っていますが、ここにきて相当汚い言葉を代官に浴びせています。
天理大学の谷山正道先生が「明和五年旗本多賀氏領の百姓一揆とその背景」と題して論文を書かれています。天理大学図書館でコピーしてもらえます。

堀内長玄覚書(第三十四集)二百二十六番二百二十七番

今回から三話連続で一揆の話になります。長くなるので二集に分けて掲載いたします。非常に緊迫した場面が続きますが、現代語訳では迫力が有りませんので、原文の書き下し文で紹介します。原文は漢文調で書かれている部分が多くあり、また助詞、送り仮名、主語等の省略が多くそれらは可能な限り補ってまいります。文中に我等と言う表現が多く出てきますが大抵は複数ではなく私と言う単数です。なお候は「そうろう」とお読みください。
堀内長玄覚書第二百二十六番
明和五年(1768年)子の年、世上共百姓一揆出し候事霜月二十四日夜南都興福寺御下十三ケ村百姓申し合わせて、大安寺村に庄屋代官其の外右御役人へ御出入り之百姓四人と之有り候ところ、この家々共微塵に打ちつぶし大騒動に相成り候事、此の事当国一揆の初りなり。
※注 庄屋はたいていの場合、百姓方ですが、この場合は百姓に敵対した状態です

堀内長玄覚書第二百二十七番
同月二十九日夜、池尻神保様(旗本の神保氏。池尻や畝傍、土橋、北妙法寺、地黄、五井、寺田、大谷、慈明寺などをを領地とした大身の旗本。東京の神田神保町はこの神保氏に由来する)下十五ケ村困窮故一揆出し、同日深田池の堤に寄り集まり、かがり火たき、人数千人余り寄り候て願相談当年の御免定、さて又下地不納銀御領内御定免等の願い御聞き届けなさられ候えば、池尻御屋敷へ押し寄せて、こぼち候て、それより人々村々立ち退き候由の相談相極め候由にて、事すさまじく大騒動相見え候ところ、これより池尻御屋敷より鉄砲打ち放し有之候えども、右百姓散り申さず由にてそれより御代官伊ノ又(猪股か?)殿と申す役人罷り出られ、色々と申され候えども百姓聞き入れず、只今右願いの御聞き届け、御申し渡し下され候へば人々引き戻り候と申し候に付き、然らば右百姓願いの通り御聞き届け相違なく、この猪股が請け合い、刀にかけて江戸表に願いつめ、命限りに申し上げ、惣百姓相続の儀に候えば右願いの趣き固く請け合い候と御事にて、皆々得心致し、引き戻り候事然るべくと百姓申し候は、若しまた右願い御聞き届け御座なく候えば大庄屋衆三人と御代官衆と百姓方へもらい候て、右の通りの百姓なし勤め見たく候事と口々に申し皆々引き戻り候由なり。
それより田原本御下惣百姓申し合わせ御知行所大庄屋等へ詰めかけ是も右同然の一揆起こし、それより芝村(桜井市芝)御下右同然、これは吉野より数千人詰めかけ候由。
それより多武峰御下百済村広瀬村より、藤の森村大庄屋辰巳佐助殿に詰めかけ、家こぼちかけ候儀、この儀承り候所、これは佐助殿に惣百姓より、うらみは之無く候えども、藤の森村方同心致さず候につき多武峰へ相知れ候様に、寄せ掛け候由にて、大庄屋佐助一人の難儀致され候て、それより多武峰より百済村広瀬村、呼び付け御吟味有之候ところ、段々右村々申し訳なく、段々御詫び申され候えども御聞き入れ之無く候へば手錠(てぐさり)閉門等の過怠にて右村々役人明くる年四五月頃までにも難儀致され迷惑に及び罷り有候由 。
それより、郡山御下右極月十七八日頃に至り御知行所村々大庄屋へ詰めかけ、これも右池尻の御下の通りなり。百姓願筋の由、段々に人数集まり、所々方々の森の内、又は宮森等に寄り村々へ寄せ掛け心得ずの村にては大勢の人々養いくられ候様と申しかけ候て心得の人これ無く候えば大勢の人暴れ、食い致して難儀いたし、それより段々人数二三万人も集まり、鉦・太鼓・ほら等吹きたて候由にて、さてさて大騒動。郡山御門前まで詰めかけ候由にて、段々御役人罷り出で、御挨拶有之候由候ところ、人々口々に申して事済み申さず、それより右の頭取人数御吟味有之由にて相済み申さず由なり。
然るに当村にてその節、惣百姓段々寄合い、御陣屋へ詰めかけ候上にて、当村方に
二三人惣百姓へもらいたく願い申し上げたく由にて相談相極め候由、いかなる事に候や戸屋孫兵衛の家こぼちかけ、れんじ戸、障子、竃(へっすい)、なべ、かま等を打ち砕き、さてさて恐ろしき事にて、村中大勢より集まり候へば、夜分の事、顔も相知れず
その時、村役人方会所に詰め合わせ候て、村役人方より段々声掛けしずめ候て、ようようと引き去り帰り候事なり。然るに右の通り成る一揆おこし国々までも有之候由、色々にうわさ有之候事なり。
※注 文中の右とあるのは原書は縦書きで先に述べたの意で横書きなら上とすべきものです。
一揆の発生は、どこかで火が付けば連鎖反応的に各地に広がった様です。ついには曽我村にまで派生します。次回は曽我村の一揆の実情となります、

堀内長玄覚書(第三十三集)二百十九番

堀内長玄覚書第二百十九番
明和五年(1768年)子の七月中旬に、当村へ備後の国、安部伊予の守様の百姓の十四歳になる娘がお伊勢参りに行く途中に連れ人から離れ、その上病気なって弱々しい状態でやってきました。そこで、当村から送ってやろうと、色々と世話をいたしましたが、段々と弱ってきました。当村の医者の安戈が色々と療治いたしましたが、段々病気が重くなり、ついに病死いたしました。
そこで、大坂の安部伊予の守様の御蔵屋敷に届けを出しましたところ、当村にお役人が一人来られて、当地にて後処理をお願いしたいとの事でございます。
そこで、南都の御番所に届けを出し、当村の光岩院にて土葬いたしました。
その後、大坂蔵屋敷から役人一人が来られ、光岩院と庄屋助七郎と年寄新兵衛と同じく半兵衛に金子百匹づつ、御礼として差し出されました。
この様な事はこれまで無かった事なので、江戸のお殿様に報告すべきと思い、当方の役人の渡辺友右衛門様に申し上げたところ、この様な事の報告は無用との事でした。なお、村方の者が貰った金子は村算用に繰り入れました。
※注 氏素性の分かっている他国の者が行き倒れた場合、どの様に処置したのか、色々と良く分かる記録です。こう言ったことは歴史書や教科書にはなかなか載っていない貴重な記録です。

堀内長玄覚書(第三十二集)二百十六番、二百十七番

堀内長玄覚書第二百十六番
明和五年子の八月上旬、当村の井上長兵衛殿が江戸のお殿様より、役儀を召し上げられ平百姓に落とされました。この井上長兵衛殿と江戸のお役人との間でお役目の入れ替えが有り、井上殿は入れ替わりの上京をされましたが、そのまま帰村されませんでした。大変気の毒な事と思いましたが、お殿様が後に当村に入部された折、またお役目に復帰なされました。
※注 何らかの理由で武士階級の者が身分を百姓に落とされる、といった事が有った様です。

堀内長玄覚書第二百十七番
同年八月十五日に江戸から御用状が来ました。これは近々お殿様が領地へ入部されるに当たり、御陣屋の坪数と畳数・間数が何程、げつあん(料亭の屋号か?)、光岩院、
堀内新兵衛、畳数・間数が何程、等々委細を相違なく差し出す様にとの事でございます。この時節柄、お殿様の借金も手詰まりの時節柄、気の毒とは思いますが、昔よりこの方、この様な事は聞いたことが無く、またまた物入りな事と百姓方は案じ暮らしました。
※注 お殿様のお国入りに際し、供廻りを含め宿泊場所確保のための調査かと思われます。ただ、その接待は百姓方の負担となり、また幾ばくかの小遣い銭も用意したようでなかなかの物入りだったようです。今回、長いので翻訳は省きますが、お殿様入部の際に、伊勢屋道寿老に、長年色々と寄進したことに対し、お殿様から羽織を賜っていますが、そのお礼に何両かのお金を包んだところ、この様なはした金を差し出しおって、とお殿様が大層立腹した場面があります。この節、要は何かに付け金品の要求があった様です。

堀内長玄覚書(第三十一集)二百二番、二百十三番

堀内長玄覚書第二百二番
明和五年(1768年)子の正月二十七日に郡代の川原惣右衛門様と添役人の井上長兵衛様が当村の庄屋年寄惣代其の外、裕福な人々を残らず呼び出され、今年より村方の諸事を改め、ついては庄屋の北林助七良は病気故、息子の助五郎に役目を継がせ、年寄、
半兵衛と村役を勤め、そのほか丁支配人は八人で勤め、東丁は清八と新治郎、西丁は小兵衛と平兵衛、いぬい新町は金六と市兵衛、曽我と新地は孫七と喜三良と四丁に分かれ二人づつで毎月の江戸の月賄銀を取り集め世話するよう、また何事に寄らず村役人に相談するようにと申され、皆々承知をいたしました。
是より、庄屋年寄三人と井上長兵衛様が会所にて相談いたされ、当年より村方は倹約のため会所にて酒肴を会食することは、無く銘々自分の家で食べること、また是より町支配人は一人に付き米一石づつ、年寄は米二石づつ村より給付になりました。
※注 この頃より曽我町の区分は今風に言えば、東町・西町・北町・出屋敷および出屋敷新町に分かれ運営されるようになっています。
また諸事倹約のため、今風に言えば自治会のの定例会のあと食事が出ていたがそれも中止になり、役員手当も減額となった、と言う風な事が行われています。

堀内長玄覚書第二百十三集
明和五年四月十五日より雨天が続き百姓方非常に困っていました。
十五六日頃は少々天気が良かったので諸方、菜種の刈り干しをし、私の所でも菜種を一町分ばかり刈り干ししましたが、その後、雨が降り続き、麦も菜種もだいぶ腐らし綿も出来が悪く、六月五日の土用入りにようやく綿に肥料をやりましたが、時期が遅く、さてさて難儀な状態となりました。
ところが、五月晦日から今度は晴天続きで七月九日になって漸く雨が降り、六月の
一か月は照りこし、畑作は日やけ状態となり、稲作は大変良く、一反当たり二石から二石四五斗も取れましたが、綿作は一反当たり、六七十斤から八九十斤の出来でした。
※注 長玄さん菜種だけで一町以上も畑を持っており、そのほか綿作・稲作等、かなりの素封家です。

堀内長玄覚書(第三十集)百八十九番、百九十五番、百九十六番

堀内長玄覚書第百八十九番
明和四年(1767年)初九月に曽我森御やしろの上葺きを新しくしました。
大坂のやり屋町ひわだや平兵衛に代銀百二十八匁を渡し、また其の外東楽寺の鎮守の上葺きも致しました。さいしき(彩色か?)は座中の人々が出て行い見事にできました。
曽我森のさいしきは今井のべにや勘兵衛に代銀五十三匁を渡し、これも見事に出来上がりました。
閏九月六日にも東楽寺鎮守へ氏神様が御移りなされ、燈明、神楽、提灯などを上げ 氏子中、大喜びいたしました。

堀内長玄覚書第百九十五番
明和四年極月中旬に当村会所に何者かは分かりませんが、黒い羽織に頬かむりし、
火縄に火をつけ忍び入りました。これを、肝入りの吉兵衛が見咎めると、すぐに二で出しました。ところが、翌夜会所の門やに付け火が有り、少々燃え上がり、村中大騒ぎとなりました。その後、夜四ツ(10時ごろ)まだ村役人が引き上げず、村方算用の相談をしていたところ、会所の門や、屋根が燃え上がり、大騒ぎとなり、釣鐘・太鼓が近隣の村々にも聞こえ、さてさて大騒動になりました。
近村より見舞いの人々がだんだん来られ、気の毒な事です。
この後、会所について、もう売った方が良いとか、いや建てて間もないから、今少し様子を見てはどうか、と言った意見もあり、そのままになっています。

堀内長玄覚書第百九十六番
明和四年極月に当村柴屋小兵衛方に八木村より嫁取り婚礼をされたところ、その夜、祝いの人々が数百人も来、一同、鬨の声を上げ小兵衛の家の近年土蔵とも見事に普請されたのを打ち破り、れんじ戸、障子、なべ、釜等も微塵に打ち砕き、家の内の鳥かごを破り(鶏小屋の事か?)という乱暴狼藉でした。
笑止千万な事、先年よりこの様な婚礼祝いは聞いたことが無く、誠に気の毒な事でございます。
※注 現在でも祭りや成人式で若者らが暴れ回る、といった事がありますが、江戸時代でも同様の事が有った様です。さすがに今回はやりすぎの様です。

堀内長玄覚書(第二十九集)百七十六番百七十九番

堀内長玄覚書第百七十六番
明和三年(1766年)戌の八月十二日に南都御番所様より有難いお触書が出ました。
その内容はこれまでの様に何事に寄らず出訴に出た場合、そのかかり役人に金銀を以て賂いする事は固く禁ずる、と言うものでした。
もし、村々において、無宿者等の行き倒れがあれば、何事に寄らず、御番所より検死役人を派遣するが、駕籠にて送り迎えは固く禁止する。なお又、内証にて金銀を例え少しでも袖の下へ入れ、賂いするような事が聞こえれば、その村々の役人は言うに及ばず、賂いを渡したものも厳しく咎める。そのほか、村々の番人共、いぬ人になり さる人になり、長吏へ内証にて知らせ、町人に賂いを要求するなどの行為は、
盗賊非人が政道を行うのも同然である。何事に寄らず近年はそう言ったことがあり、不届き千万であると思う。今後は御番所への願いの筋が有った場合、今までの様に宿屋で日を重ね、多くの出費が重なるような事が聞こえた場合は、きっと厳しく吟味するものと心得よ、との事です。
また何事に寄らず願い事が発生すれば諸役人に色々と差支えもあることから、今後は願いの筋は訴状に書き、内に宛名を書き封印して御番所に直に差し出すようとの有難いお指図です。
私はついこの前、八木権七・今井治右衛門の件で訴えた件も、六両ばかり無益に費やしましたが、上記の有難いお触書がもう二十日ばかり早かったら、そんな難儀をしなくて済んだものと、少々残念ではありますが、国中の者どもみな今回のお触れで大喜びでございます。

堀内長玄覚書第百七十九
明和三年戌の九月朔日、私宅の養子小八郎が曽我座の当家でしたが、妻女のおすゑが盆前から病気が段々と悪くなり、毎日案じ暮らしておりました(この時おすゑさんは十八です)しかし小八郎は座のお金も受け取っており、もう日にちも無く(村の秋祭りですがく9月1日から座の当家に当たった家で仮屋立て神様をお迎えし、7日の祭りが済めばまた神社に帰られます。その間に不幸ごとなどがあれば大変です)もし神代(神様がいらしている間)の間に往生するような事が有ったら氏神様への粗末になり、世間で何を言われるか分からない、さあ、どうしたものか、今更ほかの家に当家を頼みも出来ずしかしひょっとしたら病気が快方に向かうかもしれず、凡庸な人間の事ゆえ、心の迷いも悲しく思います。
もし、九月一日から七日の間におすゑが亡くなる様な事が有れば、氏神様の御移りなされている間に何という事、と世間の口も有り案じ暮らしていましたが、もはや早くも八月の晦日になり、是非なくこの家に氏神様の仮屋立て、そのほか米・肴など諸事の拵えをし、座家中へ呼び出しを遣わし、皆々様が集まり来たり、宵宮の箸けずり等首尾よく勤まり、明くる九月朔日早朝、曽我大神宮様をお迎えに、当人の小八郎と私が神社に参り御機嫌よく御仮屋に移られ皆々有難く御礼申し上げました。
四ツ時分(午前10時頃)に座中衆に本膳を出したところ、おすゑも重き枕を上げいう事には「今日は目出度い小八郎様の御膳ですので私も御膳に座りたく」と申し、皆々悦び
早速に本膳に座らせました。病人殊の外機嫌よく、少しずつ食べ、私共も大喜びでしたが、明くる二日に容体が重くなり、医者衆も色々とお薬を加減されましたが、元気なく、気の毒千万に案じくらしておりましたが、四日八ツ(午後二時頃)時分、病人のおすゑが申すに「曽我大明神様がご機嫌よくおいでなされている間、この間は阿弥陀如来様を拝むことは遠慮しておりましたが、心に掛かっておりますので、恐れながら、阿弥陀如来様を拝まして下され、と枕を上げ願ったので、この事は有難い事と、早速屏風を引き回し、御机を直し三ツ具足、香、花を用意し勤行をいたしましたら、病人おすゑも有難くも殊の外なる悦びで「かようなる浅ましき者をお助け下さる事の嬉しさ、病人おすゑ、涙かぎりなき悦びでございます」と申し、皆々有難くご報謝、お念仏の悦び、筆にも尽くされません。
然るに明くる五日に御供になり、この家の内で湯神楽を上げるが神様の御機嫌は如何かと案じておりましたが、殊の外なる御機嫌でご満足に思し召し、一同の者、皆々喜びました。
明くる六日八ツ時分に曽我大神様御榊を神主四郎三郎殿が神輿に移し。送り御供当人の小八郎が御幣を持ち、酒・さん米等を下女に持たせ、喜太郎も御供で装束を改めて出立するところ、病人のおすゑも大病の枕を上げ、見送りましたこと、この悦びは鍵なくうれしい事でした。
然るに明くる七日は当村神事のところ、段々病人弱り衰え、もはや臨終も間近と相見える状態となりましたが、いまだ曽我大明神様、御仮屋にいらっしゃり、御幣も当方にある状態で、さてさて心配な事。そこで神主四郎三郎殿を当方へ呼び、病人が心もとない状態であることを告げたところ、四郎三郎殿、それならば今晩に御幣を神社に移しても良いでしょう、と仰せられ、早速にお神酒、さん米等を拵え、神主に渡しその夜に神社に帰られました。
そこで、その夜に御仮屋を解きかけましたが、あまりに夜更けで近所への聞こえも如何なものか、という事で差し控え、明くる八日、明け六つ時に仮屋を解き、後仕舞い掃除などをしていたところ、時を同じくしておすゑの様子が変わり、「皆々様へ暇申し上げます。喜平次様、小八郎様の事頼みます。喜太郎様はおとわ様もこと頼みます。」と申し、その日八日五ツ(午前八時頃)時、お念仏とともに、おすゑ、有難く往生いたしました。
※注 当時の祭りの時の段取りなどがよくわかります。また危篤状態の病人を抱えながら一方で祭りの当家になり、長玄さんの心労がよく伝わってきます。それにしても
意識もあり、別れの言葉もちゃんと言える状態から亡くなるなど、現代では考えられませんが、当時の臨終はこの様なものだったのでしょう。

 

堀内長玄覚書(第二十八集)百七十五番

堀内長玄覚書第百七十五番
明和三年(1766年)戌の六月に南都(奈良)御番所のお奉行様が代わられました。
酒井丹波守と申すお方で、着任されて五十日ほどの間に、諸役人や在在の町方役人や百姓方、其の外、下々番人に至るまで、結構なお殿様と申しております。
如何様なる難しき事が発生しても事やわらかくお捌きされ、そのお捌きも全く隙がございません。
これまでは、御番所の役人衆や町々村々の番人で犬と言う人、猿と言う人(最下層の番屋の役人、役人と言うより中間で有体に言えばゴロツキの様な感じで、有ること無い事を言い立て、金にしていた様な輩)随分と気まま勝手に動き回り、御番所のお殿様も知らぬ顔で、犬ひと、猿ひとから長吏、村々の番人は鼻高になり、例えばの話ですが村に非人の行き倒れが有っても、無宿人の行き倒れにて、簡単に処理できるところ、殊更に難しく南都の長吏に届け、それを受け、南都の御番所からはお目付け役人同心衆が南都井上町から駕籠に乗り、其の外、長吏と番人と上下十二三人も出て
道中の飯酒、行き戻りの旅銭も村方持ちで庄屋年寄が付き添い、南都御番所前の宿まで行き、早速に御番所に書状を提出しても一向に沙汰が無く毎日毎日、宿屋で寝起きで金もかかり、仕方なくその役人にも金を包み、この役人にも金を包み、ようように
吟味が始まる有様で、非人の病死行き倒れごときで物入りになり米に直せば三十石ほどの掛かりになることです。そこで、先年より当国(大和)質屋仲間できましたが、八木出身の味噌五郎と申す質屋頭がおり、質屋仲間の株一株につき銀八匁づつ出して、
この者に渡しておけば、そこから金が役人衆に渡り、容易に事が運び、早速に相済むこととなります(こうやって質屋の株仲間も袖の下の一端を担っています)
また、少々の金持ちの人で、質屋の切手を持たない人が少しの質物で銀銭を貸すことが有りますが、それを咎め、失せ物吟味と称し、十五六人の役人が出張り、その人の家財を付け立て、帳面等も取り上げ、土蔵を封印し、殊更難しく話を持ち掛け、結局袖の下を二両、三両、五両、十両と役人銘々の心次第に出し、またその様な役人が来ないように下役の長吏、番人に内証にて渡したり、そういった賂い銀が当国(大和)中でおよそ二千両ほどにもなった由でございます。
南都御番所役人、其の外長吏、番人、いぬ人、さる人、皆々悦び油断していたところ、今回の酒井丹波守様、打ち換えるようなご吟味にて、八月上旬に番所役人、長吏いぬ、さる、番人を召し出し、在々の質屋吟味に付き内証にて過分の金銀を袖の下として取っていないか厳しく吟味されました。
さて、皆々お役人、其の外の人々皆な目を覚まし、長吏、村々番人等これまで、ゆすり取りにしてきた金銀を内証にて戻したり、其の外、役人の遠慮もあり、閉門もあり長吏が一人入牢になりました。
それより、村々番人共、倹約になり、世上事納まり、有難く、この度の南都お奉行様は広大の御慈悲なる方でお捌きの次第有難く、皆々南都には足を向けて寝ない(原文は南都之方へ寝伏致スにも、心をつけ寝候様・・)ような、諸人の悦びでした。
それより、南都奉行所に告げ口をする、いぬ人、さる人もいなくなり、世間静かになり、国中の人々、大いに悦びました。
※注 名奉行で知られる酒井丹波守忠高が赴任してきた時の話です。
当時の役人の袖の下の有様や、嫌われ者の番人の有様がよくわかります。
なお、この酒井忠高は上方落語「鹿政談」に登場する名奉行のモデルになった人と言われています。