堀内長玄覚書(第三十三集)二百十九番

堀内長玄覚書第二百十九番
明和五年(1768年)子の七月中旬に、当村へ備後の国、安部伊予の守様の百姓の十四歳になる娘がお伊勢参りに行く途中に連れ人から離れ、その上病気なって弱々しい状態でやってきました。そこで、当村から送ってやろうと、色々と世話をいたしましたが、段々と弱ってきました。当村の医者の安戈が色々と療治いたしましたが、段々病気が重くなり、ついに病死いたしました。
そこで、大坂の安部伊予の守様の御蔵屋敷に届けを出しましたところ、当村にお役人が一人来られて、当地にて後処理をお願いしたいとの事でございます。
そこで、南都の御番所に届けを出し、当村の光岩院にて土葬いたしました。
その後、大坂蔵屋敷から役人一人が来られ、光岩院と庄屋助七郎と年寄新兵衛と同じく半兵衛に金子百匹づつ、御礼として差し出されました。
この様な事はこれまで無かった事なので、江戸のお殿様に報告すべきと思い、当方の役人の渡辺友右衛門様に申し上げたところ、この様な事の報告は無用との事でした。なお、村方の者が貰った金子は村算用に繰り入れました。
※注 氏素性の分かっている他国の者が行き倒れた場合、どの様に処置したのか、色々と良く分かる記録です。こう言ったことは歴史書や教科書にはなかなか載っていない貴重な記録です。

堀内長玄覚書(第三十二集)二百十六番、二百十七番

堀内長玄覚書第二百十六番
明和五年子の八月上旬、当村の井上長兵衛殿が江戸のお殿様より、役儀を召し上げられ平百姓に落とされました。この井上長兵衛殿と江戸のお役人との間でお役目の入れ替えが有り、井上殿は入れ替わりの上京をされましたが、そのまま帰村されませんでした。大変気の毒な事と思いましたが、お殿様が後に当村に入部された折、またお役目に復帰なされました。
※注 何らかの理由で武士階級の者が身分を百姓に落とされる、といった事が有った様です。

堀内長玄覚書第二百十七番
同年八月十五日に江戸から御用状が来ました。これは近々お殿様が領地へ入部されるに当たり、御陣屋の坪数と畳数・間数が何程、げつあん(料亭の屋号か?)、光岩院、
堀内新兵衛、畳数・間数が何程、等々委細を相違なく差し出す様にとの事でございます。この時節柄、お殿様の借金も手詰まりの時節柄、気の毒とは思いますが、昔よりこの方、この様な事は聞いたことが無く、またまた物入りな事と百姓方は案じ暮らしました。
※注 お殿様のお国入りに際し、供廻りを含め宿泊場所確保のための調査かと思われます。ただ、その接待は百姓方の負担となり、また幾ばくかの小遣い銭も用意したようでなかなかの物入りだったようです。今回、長いので翻訳は省きますが、お殿様入部の際に、伊勢屋道寿老に、長年色々と寄進したことに対し、お殿様から羽織を賜っていますが、そのお礼に何両かのお金を包んだところ、この様なはした金を差し出しおって、とお殿様が大層立腹した場面があります。この節、要は何かに付け金品の要求があった様です。

堀内長玄覚書(第三十一集)二百二番、二百十三番

堀内長玄覚書第二百二番
明和五年(1768年)子の正月二十七日に郡代の川原惣右衛門様と添役人の井上長兵衛様が当村の庄屋年寄惣代其の外、裕福な人々を残らず呼び出され、今年より村方の諸事を改め、ついては庄屋の北林助七良は病気故、息子の助五郎に役目を継がせ、年寄、
半兵衛と村役を勤め、そのほか丁支配人は八人で勤め、東丁は清八と新治郎、西丁は小兵衛と平兵衛、いぬい新町は金六と市兵衛、曽我と新地は孫七と喜三良と四丁に分かれ二人づつで毎月の江戸の月賄銀を取り集め世話するよう、また何事に寄らず村役人に相談するようにと申され、皆々承知をいたしました。
是より、庄屋年寄三人と井上長兵衛様が会所にて相談いたされ、当年より村方は倹約のため会所にて酒肴を会食することは、無く銘々自分の家で食べること、また是より町支配人は一人に付き米一石づつ、年寄は米二石づつ村より給付になりました。
※注 この頃より曽我町の区分は今風に言えば、東町・西町・北町・出屋敷および出屋敷新町に分かれ運営されるようになっています。
また諸事倹約のため、今風に言えば自治会のの定例会のあと食事が出ていたがそれも中止になり、役員手当も減額となった、と言う風な事が行われています。

堀内長玄覚書第二百十三集
明和五年四月十五日より雨天が続き百姓方非常に困っていました。
十五六日頃は少々天気が良かったので諸方、菜種の刈り干しをし、私の所でも菜種を一町分ばかり刈り干ししましたが、その後、雨が降り続き、麦も菜種もだいぶ腐らし綿も出来が悪く、六月五日の土用入りにようやく綿に肥料をやりましたが、時期が遅く、さてさて難儀な状態となりました。
ところが、五月晦日から今度は晴天続きで七月九日になって漸く雨が降り、六月の
一か月は照りこし、畑作は日やけ状態となり、稲作は大変良く、一反当たり二石から二石四五斗も取れましたが、綿作は一反当たり、六七十斤から八九十斤の出来でした。
※注 長玄さん菜種だけで一町以上も畑を持っており、そのほか綿作・稲作等、かなりの素封家です。

堀内長玄覚書(第三十集)百八十九番、百九十五番、百九十六番

堀内長玄覚書第百八十九番
明和四年(1767年)初九月に曽我森御やしろの上葺きを新しくしました。
大坂のやり屋町ひわだや平兵衛に代銀百二十八匁を渡し、また其の外東楽寺の鎮守の上葺きも致しました。さいしき(彩色か?)は座中の人々が出て行い見事にできました。
曽我森のさいしきは今井のべにや勘兵衛に代銀五十三匁を渡し、これも見事に出来上がりました。
閏九月六日にも東楽寺鎮守へ氏神様が御移りなされ、燈明、神楽、提灯などを上げ 氏子中、大喜びいたしました。

堀内長玄覚書第百九十五番
明和四年極月中旬に当村会所に何者かは分かりませんが、黒い羽織に頬かむりし、
火縄に火をつけ忍び入りました。これを、肝入りの吉兵衛が見咎めると、すぐに二で出しました。ところが、翌夜会所の門やに付け火が有り、少々燃え上がり、村中大騒ぎとなりました。その後、夜四ツ(10時ごろ)まだ村役人が引き上げず、村方算用の相談をしていたところ、会所の門や、屋根が燃え上がり、大騒ぎとなり、釣鐘・太鼓が近隣の村々にも聞こえ、さてさて大騒動になりました。
近村より見舞いの人々がだんだん来られ、気の毒な事です。
この後、会所について、もう売った方が良いとか、いや建てて間もないから、今少し様子を見てはどうか、と言った意見もあり、そのままになっています。

堀内長玄覚書第百九十六番
明和四年極月に当村柴屋小兵衛方に八木村より嫁取り婚礼をされたところ、その夜、祝いの人々が数百人も来、一同、鬨の声を上げ小兵衛の家の近年土蔵とも見事に普請されたのを打ち破り、れんじ戸、障子、なべ、釜等も微塵に打ち砕き、家の内の鳥かごを破り(鶏小屋の事か?)という乱暴狼藉でした。
笑止千万な事、先年よりこの様な婚礼祝いは聞いたことが無く、誠に気の毒な事でございます。
※注 現在でも祭りや成人式で若者らが暴れ回る、といった事がありますが、江戸時代でも同様の事が有った様です。さすがに今回はやりすぎの様です。

堀内長玄覚書(第二十九集)百七十六番百七十九番

堀内長玄覚書第百七十六番
明和三年(1766年)戌の八月十二日に南都御番所様より有難いお触書が出ました。
その内容はこれまでの様に何事に寄らず出訴に出た場合、そのかかり役人に金銀を以て賂いする事は固く禁ずる、と言うものでした。
もし、村々において、無宿者等の行き倒れがあれば、何事に寄らず、御番所より検死役人を派遣するが、駕籠にて送り迎えは固く禁止する。なお又、内証にて金銀を例え少しでも袖の下へ入れ、賂いするような事が聞こえれば、その村々の役人は言うに及ばず、賂いを渡したものも厳しく咎める。そのほか、村々の番人共、いぬ人になり さる人になり、長吏へ内証にて知らせ、町人に賂いを要求するなどの行為は、
盗賊非人が政道を行うのも同然である。何事に寄らず近年はそう言ったことがあり、不届き千万であると思う。今後は御番所への願いの筋が有った場合、今までの様に宿屋で日を重ね、多くの出費が重なるような事が聞こえた場合は、きっと厳しく吟味するものと心得よ、との事です。
また何事に寄らず願い事が発生すれば諸役人に色々と差支えもあることから、今後は願いの筋は訴状に書き、内に宛名を書き封印して御番所に直に差し出すようとの有難いお指図です。
私はついこの前、八木権七・今井治右衛門の件で訴えた件も、六両ばかり無益に費やしましたが、上記の有難いお触書がもう二十日ばかり早かったら、そんな難儀をしなくて済んだものと、少々残念ではありますが、国中の者どもみな今回のお触れで大喜びでございます。

堀内長玄覚書第百七十九
明和三年戌の九月朔日、私宅の養子小八郎が曽我座の当家でしたが、妻女のおすゑが盆前から病気が段々と悪くなり、毎日案じ暮らしておりました(この時おすゑさんは十八です)しかし小八郎は座のお金も受け取っており、もう日にちも無く(村の秋祭りですがく9月1日から座の当家に当たった家で仮屋立て神様をお迎えし、7日の祭りが済めばまた神社に帰られます。その間に不幸ごとなどがあれば大変です)もし神代(神様がいらしている間)の間に往生するような事が有ったら氏神様への粗末になり、世間で何を言われるか分からない、さあ、どうしたものか、今更ほかの家に当家を頼みも出来ずしかしひょっとしたら病気が快方に向かうかもしれず、凡庸な人間の事ゆえ、心の迷いも悲しく思います。
もし、九月一日から七日の間におすゑが亡くなる様な事が有れば、氏神様の御移りなされている間に何という事、と世間の口も有り案じ暮らしていましたが、もはや早くも八月の晦日になり、是非なくこの家に氏神様の仮屋立て、そのほか米・肴など諸事の拵えをし、座家中へ呼び出しを遣わし、皆々様が集まり来たり、宵宮の箸けずり等首尾よく勤まり、明くる九月朔日早朝、曽我大神宮様をお迎えに、当人の小八郎と私が神社に参り御機嫌よく御仮屋に移られ皆々有難く御礼申し上げました。
四ツ時分(午前10時頃)に座中衆に本膳を出したところ、おすゑも重き枕を上げいう事には「今日は目出度い小八郎様の御膳ですので私も御膳に座りたく」と申し、皆々悦び
早速に本膳に座らせました。病人殊の外機嫌よく、少しずつ食べ、私共も大喜びでしたが、明くる二日に容体が重くなり、医者衆も色々とお薬を加減されましたが、元気なく、気の毒千万に案じくらしておりましたが、四日八ツ(午後二時頃)時分、病人のおすゑが申すに「曽我大明神様がご機嫌よくおいでなされている間、この間は阿弥陀如来様を拝むことは遠慮しておりましたが、心に掛かっておりますので、恐れながら、阿弥陀如来様を拝まして下され、と枕を上げ願ったので、この事は有難い事と、早速屏風を引き回し、御机を直し三ツ具足、香、花を用意し勤行をいたしましたら、病人おすゑも有難くも殊の外なる悦びで「かようなる浅ましき者をお助け下さる事の嬉しさ、病人おすゑ、涙かぎりなき悦びでございます」と申し、皆々有難くご報謝、お念仏の悦び、筆にも尽くされません。
然るに明くる五日に御供になり、この家の内で湯神楽を上げるが神様の御機嫌は如何かと案じておりましたが、殊の外なる御機嫌でご満足に思し召し、一同の者、皆々喜びました。
明くる六日八ツ時分に曽我大神様御榊を神主四郎三郎殿が神輿に移し。送り御供当人の小八郎が御幣を持ち、酒・さん米等を下女に持たせ、喜太郎も御供で装束を改めて出立するところ、病人のおすゑも大病の枕を上げ、見送りましたこと、この悦びは鍵なくうれしい事でした。
然るに明くる七日は当村神事のところ、段々病人弱り衰え、もはや臨終も間近と相見える状態となりましたが、いまだ曽我大明神様、御仮屋にいらっしゃり、御幣も当方にある状態で、さてさて心配な事。そこで神主四郎三郎殿を当方へ呼び、病人が心もとない状態であることを告げたところ、四郎三郎殿、それならば今晩に御幣を神社に移しても良いでしょう、と仰せられ、早速にお神酒、さん米等を拵え、神主に渡しその夜に神社に帰られました。
そこで、その夜に御仮屋を解きかけましたが、あまりに夜更けで近所への聞こえも如何なものか、という事で差し控え、明くる八日、明け六つ時に仮屋を解き、後仕舞い掃除などをしていたところ、時を同じくしておすゑの様子が変わり、「皆々様へ暇申し上げます。喜平次様、小八郎様の事頼みます。喜太郎様はおとわ様もこと頼みます。」と申し、その日八日五ツ(午前八時頃)時、お念仏とともに、おすゑ、有難く往生いたしました。
※注 当時の祭りの時の段取りなどがよくわかります。また危篤状態の病人を抱えながら一方で祭りの当家になり、長玄さんの心労がよく伝わってきます。それにしても
意識もあり、別れの言葉もちゃんと言える状態から亡くなるなど、現代では考えられませんが、当時の臨終はこの様なものだったのでしょう。

 

堀内長玄覚書(第二十八集)百七十五番

堀内長玄覚書第百七十五番
明和三年(1766年)戌の六月に南都(奈良)御番所のお奉行様が代わられました。
酒井丹波守と申すお方で、着任されて五十日ほどの間に、諸役人や在在の町方役人や百姓方、其の外、下々番人に至るまで、結構なお殿様と申しております。
如何様なる難しき事が発生しても事やわらかくお捌きされ、そのお捌きも全く隙がございません。
これまでは、御番所の役人衆や町々村々の番人で犬と言う人、猿と言う人(最下層の番屋の役人、役人と言うより中間で有体に言えばゴロツキの様な感じで、有ること無い事を言い立て、金にしていた様な輩)随分と気まま勝手に動き回り、御番所のお殿様も知らぬ顔で、犬ひと、猿ひとから長吏、村々の番人は鼻高になり、例えばの話ですが村に非人の行き倒れが有っても、無宿人の行き倒れにて、簡単に処理できるところ、殊更に難しく南都の長吏に届け、それを受け、南都の御番所からはお目付け役人同心衆が南都井上町から駕籠に乗り、其の外、長吏と番人と上下十二三人も出て
道中の飯酒、行き戻りの旅銭も村方持ちで庄屋年寄が付き添い、南都御番所前の宿まで行き、早速に御番所に書状を提出しても一向に沙汰が無く毎日毎日、宿屋で寝起きで金もかかり、仕方なくその役人にも金を包み、この役人にも金を包み、ようように
吟味が始まる有様で、非人の病死行き倒れごときで物入りになり米に直せば三十石ほどの掛かりになることです。そこで、先年より当国(大和)質屋仲間できましたが、八木出身の味噌五郎と申す質屋頭がおり、質屋仲間の株一株につき銀八匁づつ出して、
この者に渡しておけば、そこから金が役人衆に渡り、容易に事が運び、早速に相済むこととなります(こうやって質屋の株仲間も袖の下の一端を担っています)
また、少々の金持ちの人で、質屋の切手を持たない人が少しの質物で銀銭を貸すことが有りますが、それを咎め、失せ物吟味と称し、十五六人の役人が出張り、その人の家財を付け立て、帳面等も取り上げ、土蔵を封印し、殊更難しく話を持ち掛け、結局袖の下を二両、三両、五両、十両と役人銘々の心次第に出し、またその様な役人が来ないように下役の長吏、番人に内証にて渡したり、そういった賂い銀が当国(大和)中でおよそ二千両ほどにもなった由でございます。
南都御番所役人、其の外長吏、番人、いぬ人、さる人、皆々悦び油断していたところ、今回の酒井丹波守様、打ち換えるようなご吟味にて、八月上旬に番所役人、長吏いぬ、さる、番人を召し出し、在々の質屋吟味に付き内証にて過分の金銀を袖の下として取っていないか厳しく吟味されました。
さて、皆々お役人、其の外の人々皆な目を覚まし、長吏、村々番人等これまで、ゆすり取りにしてきた金銀を内証にて戻したり、其の外、役人の遠慮もあり、閉門もあり長吏が一人入牢になりました。
それより、村々番人共、倹約になり、世上事納まり、有難く、この度の南都お奉行様は広大の御慈悲なる方でお捌きの次第有難く、皆々南都には足を向けて寝ない(原文は南都之方へ寝伏致スにも、心をつけ寝候様・・)ような、諸人の悦びでした。
それより、南都奉行所に告げ口をする、いぬ人、さる人もいなくなり、世間静かになり、国中の人々、大いに悦びました。
※注 名奉行で知られる酒井丹波守忠高が赴任してきた時の話です。
当時の役人の袖の下の有様や、嫌われ者の番人の有様がよくわかります。
なお、この酒井忠高は上方落語「鹿政談」に登場する名奉行のモデルになった人と言われています。

堀内長玄覚書(第二十七集)百五十八番百六十番百六十一番

堀内長玄覚書第百五十八番
明和二年(1765年)四月十五日、大雨降り大高水(洪水)となりました。当村新地の孫七水車が大きく壊れ半流れになり芝ノ後(サッカー場の西、堤防のさらに西、川との間の河川敷の所、河川改修の前はこの辺り一帯は畑地でした)の堤切れ(江戸時代の堤防は今よりも川寄りと推測されます)十二三間の方に菜種をかり干ししていましたが全部流れ、堤もあちこちで切れ、大乱水でした。

堀内長玄覚書第百六十番
明和二年、六月大日照りで、用水は一切なく、さてさて百姓は難儀いたしました。
土用まで照り抜き植田はどうにもならず、草が茂り株は細く不作でございます。

堀内長玄覚書第百六十一番
明和二年八月三日、朝五ツ(午前8時頃)からの大雨で田も綿畑、たばこ畑も水でやられました。百姓方は大難儀なことでした。
その時の相場は、実綿百十五六匁かあら段々上がり百三十四五匁になり、米は六十匁から六十四五匁になり、百姓方随分いたみ、十月、霜月に至って行き詰まりとなる有様でした。
※注 洪水と日照りが同じ年に交互にやってきます。領主の借金が増大し、御用金の要求も激しく、村人の困窮はますます増大していきます。これが三年後、明和五年の一揆へと繋っがっていきます。郡山や田原本、今の広陵町や畝傍、吉野方面はもっと酷い状態であった様です。

堀内長玄覚書(第二十六集)百五十五番百五十六番

堀内長玄覚書第百五十五番
明和二年(1765年)光専寺の本堂の登り段橋が今年になっても出来ておりません。
私も親の玄信様の享年と同じ年になり、ここまで生きてこられたのも御縁と思い、
せめて少しでも御礼ご報謝させていただこうと思い、いわれの宮(中曽司の磐余神社か)で大松一本買い受け、坊城村の大工伊右衛門により、完成いたしました。
これもご両親のお陰と思い、有難い事でございます。

堀内長玄覚書第百五十六番
明和二年、曽我の森の石灯籠を再興いたしました。
これは、以前に先祖の長玄様が万治元年(1658年、106年前)にまた、先祖の寿意様が、元禄九年(1696年68年前)に寄進された物ですが、近年粗末になり、崩れて台と竿と、屋根とが森の中にあると言った状態でした。
そこで、今回私が新たに寄進いたしました。
(添付書き 毎年十八夜に灯りをともし、さてこの後は粗末に致すまじく候)
※注 この石灯籠、今も宗我都比古彦神社の参道脇に立っています。

堀内長玄覚書(第二十五集)百五十二番の二

堀内長玄覚書第百五十二番の二
二十両の目くされ金ようもおのれの口から吐き出しおったは、と申し私の一生の無念、筆にも尽くされません。
川原氏が申されるに、いよいよ百両が出来ずば内六両三歩は了見してやるが残りの
九十三両一歩はきっと請けるか、もし不心得ならば今夜からでも江戸へ下って御前にて申し訳いたすか二つに一つじゃ、返答せい、
と私の頭の上に立ちかかり大声にて厳しく申され、さてさてこの時の難儀、泣くにも泣かれず立つにも立たれず大難儀でしたが心を強く持って
お願い申し上げました。すると川原氏は、然らば是非に及ばず、これよりおのれが家に行って家財一切売り払い百両にならないなら、
それで了見してやる、もし百両が五百両になろうとも、成り上がり次第に取り上げる、いかにいかにと大音にて立ちかかり、申されました。
その時、居合わせた村役人の半兵衛殿と庄屋助七良殿とが取り成しをされましたが聞き入れられず、私はこの時、もはやこれは私一生の
難題と心を据え、私の家財を売り飛ばすとされるなら一家中呼び寄せ、如何様にされても致し方なしと申したところ、
惣右衛門(この辺りから敬称の殿がなくなり、氏または呼び捨て)身拵えにて、下役人藤井伊兵衛に矢立を持たせ供連れに提灯を持たせ
庭まで降りかかり、私を引き連れ我が家に行こうとするところ、助七良殿、半兵衛殿が両方から私の羽織の裾を抑え申されるに、ここの所はひとまず印形され、その後で如何様にでもお詫びなされては、とのこと。差しうつむき思案をしたところ、これ以上大騒動になってもと思い、また五人の者、私に相談もなく印形したのも心外ではあるが九十三両一歩印形致しました。さてさてその時は心外とも腹立ちとも申す方もございません。倅、喜平次が迎えに来てくれて、その肩に寄りかかり、会所へ戻ってまいりました。その時、上記五人の者、会所の東北の方で心良く遊んでいるのを見ると大金の私の難儀を喜んでいるのかと、恨みに思ったものです。
それより極月十五日に内金五十両を上げ、残りは酉の二月に上げることと致しました。二月に残り金を上げる際に、上記九兵衛殿と川原氏は内外とも昵懇なので、今まで度々上げてきた御用金は年貢時に決済下さるように、また今回の九十三両一歩も私にとって大金なので、十三両一歩は酉の極月にまた残りは戌の年から四年の各年貢時に決済していただくべく証文をお願いし、結果受け取り証文を下されました。
この御礼に九兵衛殿に生鯛二枚を進呈いたしました。
然るに、上記八十両はいまだに決済されていません。
これより今年に至るまでの御用金は銀一万四千四百十七匁(一両はだいたい銀60匁なので約240両、約2400万円くらいか)にもなります。
身分不相応な御用金で迷惑とはこの事です。
※注 曽我村・大福村は旗本多賀氏の領地ですが領主の多賀氏は江戸暮らしで、領地の行政は郡代(代官)が行っていました。普通に考えれば郡代は多賀氏の家来と思いがちですが実際は違います。江戸初期から下市の浪人の庄田氏が代々雇われその職に就いていた様です。時々は川原惣右衛門のような、自薦の渡り役人が就いたようです。
この川原惣右衛門は長玄覚書を見る限り非常に無能で、渡り役人の性として領主の前では大見えを切り領民に、ただただ力押しに苛斂誅求な要求を突きつけ、ついには、一揆を惹起する事になります。

堀内長玄覚書(第二十四集)百五十二番

堀内長玄覚書第百五十二番
明和元年(1764年)申の十月上旬に川原惣右衛門(注 多賀氏の郡代(代官)で曽我村大福村の行政を行う総責任者。但し多賀氏の家来ではなく丹波もしくは丹後出身の渡り役人で、渡り役人とは自らを売り込んで大名や旗本のブレーンとなる人物で、多賀氏の場合たいていは下市の浪人の庄田氏を郡代として200石の家格で雇っています。200石の知行もしくは切米(現金支給の給料)を与えていた訳ではなく、あくまで格で、江戸時代の武士はこの格によって例えば外出の際の供の人数や、騎馬、槍持ちを付けるとか色々な特典がありました。この川原氏の就任以後、村では苛政が続き、ついには一揆へと繋がっていきます)殿、江戸へ登られ霜月中旬に曽我・大福の両村の村役を呼び付けられました。そこでの話は江戸のお殿様は物入りが多く、お手元不如意につき大福村又作に二十両、平兵衛に三十両、同村庄屋藤助に六十両、曽我村九兵衛に
二十両、庄屋助七良に七十両、新兵衛(長玄さん)に百両を差し出す様にとの事でした。
急な事で甚だ驚き入りました。今までも御用金や先納金など度々差し出しているのにこれは如何なる思し召しか、これはお詫びの上お断りするしかない、という事でその場はお断りを入れ、皆々立ち帰りました。
ところが極月十日にまたまた上記の六人の者が陣屋に呼び出され、川原惣右衛門殿が申されるには、先だっての御用金都合三百両、この十五日までにきっと差し出す様にとの事で、甚だ困り難儀迷惑なことと六人の者、会所にて色々と相談するも致し方無く、当村光専寺の御住職様にお頼みしようとなりました。ご住職様、色々と申し入れなされましたが川原氏一向に聞き入れず、ようよう、三百両の内、五十両は来年酉の二月まで引き延ばすが残る二百五十両はすぐ差し出せ、との事でまたまた光専寺の
ご住職さまの頼みお詫びをお願いいたしました。その結果、ようよう二百両はすぐ差し出せ、残り百両は来年の二月まで引き延ばす。また利息は月三朱(一朱は一両の十六分の一、従って月約16%)のところ、年に五朱まで引き下げる、これ以外は如何なる要望も聞き入れない、と川原氏、ご住職に申し切りに申され、ご住職も致し方なく、これきりにて引き上げなされました。
さてさて、六人の者難儀迷惑、わけても私一人に百両もの大金を申し付けられ、途方に暮れておりましたがその日七つ時分に(午後四時頃)川原氏より六人の者すぐに陣屋に来るようにと厳しく呼び出しがあり、六人の者、一緒に陣屋へ出向きました。
そこでの川原氏の話ですが、その方共、今回の御用金について不承知の様だから、 一人づつ呼び出し吟味いたす、残りの者は会所におれ、との事で足軽の藤井伊兵衛を番につけられました。
先ず初めに大福村の又作が呼び出され、上記の二十両について早速請合いの印形をいたされ陣屋より下男一人を付け会所に送り戻られました。
さてさて腹立たしいのは、まるで我々を咎人のように扱い、残りの五人にはどのような様子であったかは口止めし、次に大福村の平兵衛が行き、同じ様に印形し、その次に当村の九兵衛が同様に二十両の請合い印形をし、その次に大福村庄屋藤助が同じように六十両請合印形され、その次に当村庄屋助七良も同様に七十両請合印形されました。その後、私が呼び出され、川原惣右衛門殿がおっしゃるには、上記五人の者、
皆この度の御用金、相違なく請合印形致した。その方も百両、相違なく請合印形致す様にきっと申し付ける、との事。
私は嘆きながら、私は近年不幸続きで妻子共、大病が続き、その上、相果て不幸せな事で、これまで何度か御用金を差し上げ、殊の外金回りが悪くなっております。どうかこの度の御用金については、ご容赦下さいます様と申し上げました。また恐れながら私は先年戌の七月に村方御用で江戸に下向した際にお殿様から、新兵衛その方はこれまで度々御用金に精出しし誠に神妙である。今に返済しておらず、その方が難儀していることは尤もである。勝手向き持ち直し次第、返済いたすので、今少し待って欲しい、左様心得よ、と有難いお言葉を頂戴いたしました。
そう言う事もあり、また度々これまで御用金を差し上げております故、今回の御用金は何卒、ご容赦下さりませ。とは言いましてもこの度はわけても御大切な御用と心得ますので二十両はご用意させていただきます、と申し上げたところ、
続く