堀内長玄覚書(第二十二集)百二十七番百二十八番

堀内長玄覚書第百二十七番
宝暦十二年(1762年)午の極月に、京都の荒木へ(京都の荒木が何かは不明ですが、そこから村は借金が有った様です)利息の銀千匁を支払う約束でしたが、村にはその金が有りません。そこで、当村のかご屋藤助を通じて、小槻村の岡橋清左衛門に八月末を期限とする証文を庄屋年寄が印をついて借金を申し入れた所、曽我村の村役人の連判では金は貸せない、長玄さん一人の印なら貸しましょう、と藤助を通じて申されました。そこで私は、私一人の印で岡橋清左衛門から借り、村役人の連判は私の方に取り置き、京都の荒木への支払いを済ませました。
※注 岡橋清左衛門としては、村役人は人が変わると証文の確実性が薄くなる心配がある、そこで今風に言えば長玄さんの個人補償が欲しい、という事でしょう。長玄さん自分個人の信用度の高さを、ちょっと誇らしげに言ってる様に思います。

堀内長玄覚書第百二十八番
百二十七番で述べた通り、私は借受証文を書いて岡橋清左衛門から金を借りました。
ところで、五十年あまり前ですが我が家の先祖の喜右衛門さん後に玄信と称されましたが、この方、綛商いや米の小売りなどをされていました。
その頃、岡橋清左衛門に米を十石渡し、その預かり証文と手形が手元にあり、そこには、この手形を持ってきてくれたら、いつ何時でもお支払いいたしましょう、との旨が書かれています。その証文の日付は宝永戌(1706年、56年前)の十一月、預り主
小槻村岡橋清左衛門、曽我村喜右衛門殿となっています。
今回、岡橋清左衛門から借りた金は銀千匁ですが、この貸した米はこの数十年の利息を計算すれば、五年でおよそ倍になり、五十年余りでおよそ五千三百石になりましょう、この長玄、六十四歳にもなり家名も無事相続し、何不足も無く安心に暮らしているため今までこの証文は着に掛けずにいましたが、今回この証文の件お伝えしますとかご屋藤助を通じて岡橋清左衛門に伝えましたが、何の挨拶も有りません。
さてさて不届き千万な事、岡橋清左衛門の家柄に合わず、心外な事です。
※注 小槻の岡橋清左衛門からは度々借金をしています。今回の借金を機に長玄さん五十年以上前の古証文を持ち出していますが、岡橋清左衛門にすれば、今更そんな古証文を出されても、今風に言えばとっくに時効になっている、と言う心境でしょう。

1月9日 大とんどのお知らせ

曽我町の皆様に大とんどのご連絡をいたします。

本日午後6時より曽我川の河原にて大とんどの点火を致しますので

皆様お越し下さいますようご案内申し上げます。

コロナ感染防止の為、密にならないようにお願いいたします。

なお、本・雑誌類は、持ち込まないようにして下さい。

ご協力をよろしくお願いいたします。

堀内長玄覚書(第二十一集)百十八番百二十一番百二十三番

堀内長玄覚書第百十八番
宝暦十一年(1761年)巳年の極月中旬に、ご公義より大坂中の金持ち人に御用金を申し付けられました。最も金持ち人十人ばかりには五万両づつ、その下の中くらいの金持ち人には二万五千両づつ、その下には一万両づつ、その下五千両、その下三千両、
二千両、千両もあり、大坂中にておよそ百五六十万両ばかり仰せつけられました。
極月に至り、大坂中殊の外厳しく相なり、正月の餅つきも少なくなり、諸事の相場も高下し、前代未聞の珍しい事でございます。
※注 西暦1761年と書きましたが、十二月は実際は1762年になっています。
年号年と西暦年の照合は大部分の一致する年に合わせていますのでご注意願います。

堀内長玄覚書第百二十一番
宝暦十二年(1762年)二月二十六日昼九ツ前(午前11時頃)南都(奈良)で大火事が有りました。火元は芝辻で、御番所様(奈良奉行所、今の奈良女子大の辺り)五間屋敷焼け、それより南北広く焼け手貝町半分焼け、押上町から東の方へ吹き飛び東大寺の大仏前より水屋へ焼け抜け、出茶屋ども焼け、つづら尾山焼け抜け、この東に民家が有りますがこれも焼けました。当国(大和)にてこの様な大火は聞いたことがありません。

堀内長玄覚書第百二十三番
宝暦十二年午の六月、大日照りで、南川(高取川と思われる)より水を回すよう、村役人惣代組頭等が寄合い相談いたしました。私が以前から聞いていたところでは、光専寺の込山の後ろに古い樋があるとの事です。またそれに関し、以前に土橋村・妙法寺村からの書付が庄屋の所にあるとの事で、それらを吟味し、両村立ち合いの元、水廻しを相談し、掘り分けた所、五十年以前前から埋もれていた樋を掘り出しました。
本川(高取川と思われる)かかりの(川の水の水利権のようなものか?)出作本作の田を潤してもなお余り水があるので、それを下の両村(土橋・妙法寺)にも廻し、大変喜んでいただきました。この事、私が同役人中に相談を申し入れ、常駐になり(新たに掘り出した用水路を今後も恒常的に使うという事か)大喜びいたしました。
※注 今も光専寺の南側の用水路は非常に大切な農業用水路ですが、江戸時代初期から有ったものの、長らく埋もれており、上記の年に再整備し、今に続いていることがわかります。

堀内長玄覚書(第二十集)百十一番百十四番百十五番

堀内長玄覚書第百十一番
宝暦十年(1760年)二月二十三日より、親鸞聖人五百遠忌で吉野の飯貝本善寺で二十八日までご法要をされるという事で、妻子を連れ参詣にまいりました。
その日の八ツ(午後二時頃)の法事に間に合い、その日は飯貝に泊まりました。その夜は
初夜参りし、明くる朝に参詣し、四ツ時分(午前十時頃)に吉野山に行きました。折から一目千本花盛りで、あまりに嬉しく桜の下で弁当を広げ、一首よみました。
五百年(いもとし)の祖師の御影で見吉野の花の下得てのミ込ぞする
※注 この頃には吉野の桜の一目千本と言う言い方があった事がわかります。長玄さん結構よく短歌を詠んでいます。掛詞などを多く取り入れ、洒脱な作品が多いです。

堀内長玄覚書第百十四番
宝暦十一年(1761年)六月十五日から八月五日まで五十日の間、鳴り物・音曲、御停止(ちょうじ)のお触れがでました。これは御公義様の儀で、世上誠に静かな事でした。どこの国でも盆踊りなど一切なく、大坂では米相場もなく、十五六日のあいだ相場状も参らず、諸商いも静かな事でした。当村にも役人が来て、夜回りをいたしておりました。
※注 前年に九代将軍家重が死去しています。その喪に服した様子が書かれています。また、大坂では米相場が盛んで(これは世界初の先物取引と言われています)その状況を知らせる、今風に言えば株価速報みたいなものが通常、長玄さんの手元に届いていたようです。

堀内長玄覚書第百十五番
宝暦十一年巳年、当村の中土橋が石橋に替わりました。これは大坂伊勢屋道寿老が再興されたもので、人足は残らず村方より出し、石屋は寺口村で、殆どの石は当村から寺口村まで取りに行きました。
※注 今に残る中橋町の橋です。今も一部、この時の石材が残っています。将来何らかの形に架け替えられる事もあるでしょうが、この石材部分は何かの形で、その由来とともに残しておきたいものです。