堀内長玄覚書(第二十二集)百二十七番百二十八番

堀内長玄覚書第百二十七番
宝暦十二年(1762年)午の極月に、京都の荒木へ(京都の荒木が何かは不明ですが、そこから村は借金が有った様です)利息の銀千匁を支払う約束でしたが、村にはその金が有りません。そこで、当村のかご屋藤助を通じて、小槻村の岡橋清左衛門に八月末を期限とする証文を庄屋年寄が印をついて借金を申し入れた所、曽我村の村役人の連判では金は貸せない、長玄さん一人の印なら貸しましょう、と藤助を通じて申されました。そこで私は、私一人の印で岡橋清左衛門から借り、村役人の連判は私の方に取り置き、京都の荒木への支払いを済ませました。
※注 岡橋清左衛門としては、村役人は人が変わると証文の確実性が薄くなる心配がある、そこで今風に言えば長玄さんの個人補償が欲しい、という事でしょう。長玄さん自分個人の信用度の高さを、ちょっと誇らしげに言ってる様に思います。

堀内長玄覚書第百二十八番
百二十七番で述べた通り、私は借受証文を書いて岡橋清左衛門から金を借りました。
ところで、五十年あまり前ですが我が家の先祖の喜右衛門さん後に玄信と称されましたが、この方、綛商いや米の小売りなどをされていました。
その頃、岡橋清左衛門に米を十石渡し、その預かり証文と手形が手元にあり、そこには、この手形を持ってきてくれたら、いつ何時でもお支払いいたしましょう、との旨が書かれています。その証文の日付は宝永戌(1706年、56年前)の十一月、預り主
小槻村岡橋清左衛門、曽我村喜右衛門殿となっています。
今回、岡橋清左衛門から借りた金は銀千匁ですが、この貸した米はこの数十年の利息を計算すれば、五年でおよそ倍になり、五十年余りでおよそ五千三百石になりましょう、この長玄、六十四歳にもなり家名も無事相続し、何不足も無く安心に暮らしているため今までこの証文は着に掛けずにいましたが、今回この証文の件お伝えしますとかご屋藤助を通じて岡橋清左衛門に伝えましたが、何の挨拶も有りません。
さてさて不届き千万な事、岡橋清左衛門の家柄に合わず、心外な事です。
※注 小槻の岡橋清左衛門からは度々借金をしています。今回の借金を機に長玄さん五十年以上前の古証文を持ち出していますが、岡橋清左衛門にすれば、今更そんな古証文を出されても、今風に言えばとっくに時効になっている、と言う心境でしょう。

堀内長玄覚書(第二十一集)百十八番百二十一番百二十三番

堀内長玄覚書第百十八番
宝暦十一年(1761年)巳年の極月中旬に、ご公義より大坂中の金持ち人に御用金を申し付けられました。最も金持ち人十人ばかりには五万両づつ、その下の中くらいの金持ち人には二万五千両づつ、その下には一万両づつ、その下五千両、その下三千両、
二千両、千両もあり、大坂中にておよそ百五六十万両ばかり仰せつけられました。
極月に至り、大坂中殊の外厳しく相なり、正月の餅つきも少なくなり、諸事の相場も高下し、前代未聞の珍しい事でございます。
※注 西暦1761年と書きましたが、十二月は実際は1762年になっています。
年号年と西暦年の照合は大部分の一致する年に合わせていますのでご注意願います。

堀内長玄覚書第百二十一番
宝暦十二年(1762年)二月二十六日昼九ツ前(午前11時頃)南都(奈良)で大火事が有りました。火元は芝辻で、御番所様(奈良奉行所、今の奈良女子大の辺り)五間屋敷焼け、それより南北広く焼け手貝町半分焼け、押上町から東の方へ吹き飛び東大寺の大仏前より水屋へ焼け抜け、出茶屋ども焼け、つづら尾山焼け抜け、この東に民家が有りますがこれも焼けました。当国(大和)にてこの様な大火は聞いたことがありません。

堀内長玄覚書第百二十三番
宝暦十二年午の六月、大日照りで、南川(高取川と思われる)より水を回すよう、村役人惣代組頭等が寄合い相談いたしました。私が以前から聞いていたところでは、光専寺の込山の後ろに古い樋があるとの事です。またそれに関し、以前に土橋村・妙法寺村からの書付が庄屋の所にあるとの事で、それらを吟味し、両村立ち合いの元、水廻しを相談し、掘り分けた所、五十年以前前から埋もれていた樋を掘り出しました。
本川(高取川と思われる)かかりの(川の水の水利権のようなものか?)出作本作の田を潤してもなお余り水があるので、それを下の両村(土橋・妙法寺)にも廻し、大変喜んでいただきました。この事、私が同役人中に相談を申し入れ、常駐になり(新たに掘り出した用水路を今後も恒常的に使うという事か)大喜びいたしました。
※注 今も光専寺の南側の用水路は非常に大切な農業用水路ですが、江戸時代初期から有ったものの、長らく埋もれており、上記の年に再整備し、今に続いていることがわかります。

堀内長玄覚書(第二十集)百十一番百十四番百十五番

堀内長玄覚書第百十一番
宝暦十年(1760年)二月二十三日より、親鸞聖人五百遠忌で吉野の飯貝本善寺で二十八日までご法要をされるという事で、妻子を連れ参詣にまいりました。
その日の八ツ(午後二時頃)の法事に間に合い、その日は飯貝に泊まりました。その夜は
初夜参りし、明くる朝に参詣し、四ツ時分(午前十時頃)に吉野山に行きました。折から一目千本花盛りで、あまりに嬉しく桜の下で弁当を広げ、一首よみました。
五百年(いもとし)の祖師の御影で見吉野の花の下得てのミ込ぞする
※注 この頃には吉野の桜の一目千本と言う言い方があった事がわかります。長玄さん結構よく短歌を詠んでいます。掛詞などを多く取り入れ、洒脱な作品が多いです。

堀内長玄覚書第百十四番
宝暦十一年(1761年)六月十五日から八月五日まで五十日の間、鳴り物・音曲、御停止(ちょうじ)のお触れがでました。これは御公義様の儀で、世上誠に静かな事でした。どこの国でも盆踊りなど一切なく、大坂では米相場もなく、十五六日のあいだ相場状も参らず、諸商いも静かな事でした。当村にも役人が来て、夜回りをいたしておりました。
※注 前年に九代将軍家重が死去しています。その喪に服した様子が書かれています。また、大坂では米相場が盛んで(これは世界初の先物取引と言われています)その状況を知らせる、今風に言えば株価速報みたいなものが通常、長玄さんの手元に届いていたようです。

堀内長玄覚書第百十五番
宝暦十一年巳年、当村の中土橋が石橋に替わりました。これは大坂伊勢屋道寿老が再興されたもので、人足は残らず村方より出し、石屋は寺口村で、殆どの石は当村から寺口村まで取りに行きました。
※注 今に残る中橋町の橋です。今も一部、この時の石材が残っています。将来何らかの形に架け替えられる事もあるでしょうが、この石材部分は何かの形で、その由来とともに残しておきたいものです。

堀内長玄覚書(第十九集)百七番百八番百九番百十番

堀内長玄覚書第百七番
宝暦十年(1760年)辰年、当村八幡宮の普請が出来上がりました。八幡(やわた)石橋が出来ました。境内の芝地は六年以前に田地を買い付けたもので、松桜など色々な木を植え今に至っています。これに関して、大坂の伊勢屋道寿老より大きな寄進があって出来たものでございます。
※注 天高市神社は江戸時代から八幡宮と呼んでいた様です。ここに伊勢屋道寿老と言う方が出てきます。この方、曽我出身で大阪で商いで大成功を納められ、曽我に対し経済的に大きな貢献をされています。今後も度々出てきます。戦前までは毎年4月26日の道寿さんの命日に光専寺で報恩法要が営まれていました。中西道寿といい、天高市神社のご先祖と聞いています。

堀内長玄覚書第百八番
宝暦十年辰年、八幡宮に八幡(やわた)講と言う新座が出来ました。是までは町座一組のみでしたが、ここから二座となりました。後に明和三年(1766年)伊勢屋道寿老が   高羅(良)大明神をこの新座に移し九月一日に座営みをしてはどうかと提案され、座中の人々が寄合い、松葉にて仮屋を建て、金六(村人の名、この方のご子孫は今も中ノ町におられます)を当屋として、相勤めておられます。

堀内長玄覚書第百九番
宝暦十年、八幡宮に新座が出来たのを機に、曽我方も申し合わせ、宮講新座一組を作りました。是以来宗我都比古彦神社の座は三座となりました。
※注 宗我都比古彦神社は創建以来曽我座が運営してきましたが、江戸時代に新町座が出来ました。さらに宝暦十年、この年に宮座が出来ました。その後、宮本座ができ、現在四座となっています。

堀内長玄覚書第百十番
宝暦十年、当村大橋(豊津橋)に舟渡しができました。
この橋は以前に妙法寺村の宗順坊と言う方が建立されましたが、これが水害で崩れ、その後、元禄年間に当村より、往来する人々に寄進を募り、また富くじなども催行しました。この時、小綱村のなすびたねと申す人が一番くじとなりました。この橋は幅が三間、長さが二十間ほどでしたが、これも宝暦二年に水害で崩れました。それ以来仮橋を掛けていましたが大水が出るたびに往来川止めとなり、
当村西田井(にしんだい)の百姓迷惑なことと、五十年余り前の書付にもあります。
大坂伊勢屋道寿老は当村の出身の人で、幼少の頃から大坂でおおいに精出しされ、今回の件も随分と世話されました。
さて、この舟渡しの件ですが、道寿老、村役人と相談され、南都御番所(奈良奉行所)に相頼み、御検分の役人に来てもらい、村役人より口上書を差し出し、その方はうまく収まりました。道寿老建立にて、永代舟渡しが完成し、これより永代舟守りは損料(メンテナンスに掛かる一切の費用等)等、永々曽我村の運営となり、諸人おおいに喜んだ事でした。
※注 文中、西田井(にしんだい)と言う言葉が出てきますが、今も自治会活動の中の
つゆ張りや道作りの際に、きたんだい、ひがしんだい、という言い方とともに残っています。

堀内長玄覚書(第十八集)九十九番百番百一番百二番

堀内長玄覚書第九十九番
宝暦六年(1756年)丑の年、私新兵衛は五十八歳になりました。是よりは在所在所への商いも出ることもなくなりました。然るにこれまで田地も段々と増え、二町余りになり
年貢を納めた後の取れ高は八石四斗六升、この預け米が四十石程、また徳米が三十石余りあり、毎年の算用帳に記載しております。
※注 長玄さん綿商いで儲けた金で相当の田地を買い入れています。逆に言えば売った人がいる訳で、そういった方々は小作人になったのでしょう。また曽我の相当の
旧家も放蕩息子のため、家屋敷・田畑・家財を切り売りし、相続が絶えた、と言った話も別の章で述べられています。

堀内長玄覚書第百番
宝暦八年(1758年)陣屋から村役人に対し、庄屋の勘定帳に判をつくようにとの要請がありました。こんな事は以前から無かったことで、お断り(無用の連帯責任を避けるためか)しましたが、庄屋から特に頼まれ、判をつきました。その際、将来もし違算が生じた場合、庄屋が申し開きをすべし、との一札をとり、手形箱に保存しております。
※注 長玄さん金銭に関して非常にシビアです。もっとも油断してると、例えば橋の架け替え金が紛失したりとか、村の金融業者が代官と組んで色々と画策したりとか、また、銀札が突如不渡りになったとか、中々大変だったようです。

堀内長玄覚書第百一番
宝暦九年(1759年)卯の閏七月十日より妻のおちょうが有馬に湯治に行き、同晦日に無事に帰って来、大喜びいたしました。
※注 有馬温泉への湯治ですが、往還は徒歩ですから、今の感覚では海外旅行に行って帰ってきた、という感じでしょうか。

堀内長玄覚書第百二番
同年(宝暦九年)私、新兵衛は曽我座の年寄り、四老に入りました。この時、六十一歳の還暦で目出度い事と存じます。
是より、家督は倅の喜平次に譲りました。喜平次も後に新兵衛を名乗ります。

堀内長玄覚書(第十七集)九十六番九十七番

堀内長玄覚書第九十六番
右の五人衆(九十五番で述べた五人の人々)が江戸より帰国されて御徳米売り付けについて、当村村役人にお殿様の申された趣旨を話されたところ、庄屋・惣代・年寄らが集まり、お殿様が徳米を売ることは甚だ大切な事であり、また月々の賄い金が不足しているならば、何とか米を売って現金を用意せねば、となり出作方(当村以外のところ)へ売ろうとしましたが、どこにも売れず、また本作方にも買う人が無く、仕方なく、
庄屋・年寄その他の人々が買い付け、漸う四十二石を売り、代銀二十一匁を作りました。これより、村役人方が申されるに、この銀子を日歩まわしに両替屋に預け、月々の賄金は両替屋より取り出し、毎年毎年十月まではその銀子でやりくりし、十一月、十二月は段々と御蔵米も納まり、如何様にもなるだろう。また前述の銀二十一匁については毎年毎年の新たな年貢が納まった中から引き戻し、また明くる年に新たな銀子を用意し、両替屋に預けておけば、その利息金もつくだろうし、何とか江戸御屋敷の賄いもやっていけるだろう。これまでとは違い、仕送り人の付け届け、扶持・切米・利合い等、大分にゆとり出ると思われるので、この仕切りについて村方百姓にお任せ下さるようお願いしたところ、お聞き入れ下さいました。
また、江戸より買い人の希望通り江戸より証文を発行するので、早々に銀子を調達するようにとの仰せでした。
その後、江戸より証文も届き、惣百姓皆々江戸の賄金については片付いたものと、安心いたしました。是より江戸も少々倹約され、預金も増やされば、前述の徳米の代金も近年のうちに回収できると思ったことでした。
ところが、お殿様、何を思った事か、徳米の代金は江戸では調達できないので、残らず差し出す様に(村方が自分達の米を自分たちで買い、その金を賄金に充て、今後の年貢時に少しづつ回収しようとしたところ、それを取り上げたと言う事)と厳しく仰せられました。惣百姓まことに気の毒で色々と嘆きを申し上げましたが、全く聞き入れられず殊の外のお叱りを被りました。
この暮れより明くる二月までに残らず江戸に、先の銀子を差し出す様にとの事で、
役人の藤井宇忠太様が残らず取り立て、江戸に持っていかれました。
百姓ども、どうしようもなく、途方に暮れ、なおまた京都名目金の借金も相まって誠に嘆かわしい事でございます。
※注 この頃から領主の金詰りが激しくなり、年貢以外に色々とお金の取り立てが厳しくなり、村人に大きな負担となってきます。これらが重なり、後の一揆へと繋がる伏線となっています。

堀内長玄覚書第九十七番
その頃、御代官の森田利兵衛様から、宗我都比古彦神社の曽我座の年寄助三良、
伊兵衛、利助、喜兵衛、神主四郎三郎らを呼び出し、曽我太神宮の御榊を新町座の当人方へ仮屋を建て、そこに移す様にとの沙汰がありました。
曽我座としては突然の、新しいやり様で皆々驚き、寄合を持ち、この事に関して、昔より曽我太神の事は曽我座が支配してきたことで、その事はお殿様のご先祖も十分に承知されている事であり、今回のお沙汰は承知できませんと森田様に返事いたしました。森田様は言うとおりにするよう厳しくお叱りされましたので、曽我座の人々は致し方なく、今井の堀内金兵衛、当村の北林又七、北林幸助、この三人が江戸へ下りました。
この三人、昔よりの曽我座の古文書等、其のほか京都禁裏の油小路大納言様の御書付曽我太神縁起等を持参し、お殿様にお聞き入れなさるようにしました。
然るに、当村において、この九月朔日、新町座の庄兵衛方で青杉葉で御仮屋が出来ましたが、神主の四郎三郎は御榊を移さず、その旨を曽我座中に申し聞かせ、やむなく新町座では仮屋を解き、世間への面目丸つぶれとなりました。
是より、両座おお騒動となりました。江戸に下った三人は、お殿様より、曽我座にて行うようにとの下知書をもらい、殊の外なるおお騒動も収まりました。
この御下知書は曽我座の宝物でございます。

堀内長玄覚書(第十七集)九十四番九十五番

堀内長玄覚書第九十四番
(九十三番で江戸から帰ったあと)あくる日の八月九日に当地大雨が降り、大高水となりました。この時、すずめど(雀堂)の堤が切れかかりましたが、すんでのところ、何とか持ちこたえ、先ずは別条が有りませんでした。

堀内長玄覚書第九十五番
宝暦四年(1754年)亥の二月上旬に、江戸の御屋敷の月の賄金の仕送りが無く、これについて、当村の庄屋助七郎(北林助七郎)、年寄半兵衛、組頭半次郎お、同孫七、茂平らがお殿様から呼び出されました。お殿様からは、月々の賄金がもうどう仕様もなくなっている、ついては曽我村の知行米から六十石を特に売れば代銀が銀三十匁程になるだろうと思う。早速、村に帰って村役人ともよく相談をいたす様にと申されました。
この時、半兵衛、半次郎、茂平の三人と、川元半兵衛様、藤井宇忠太様、が相談されましたが、この五人は宗我都比古彦神社の新町座の座中の方々で、今回の賄金の便宜を図る見返りとして、今年から、曽我太神宮の御榊を新町座に移し、今後は毎年九月朔日に座の頭人方に御仮屋立て、そこに移し奉り、今まで曽我座が行ってきたとおりにお祭りするよう願い出されました。お殿様は、昔より前例のない事とは思われましたが、お聞き入れられ、今後、曽我座と同様にするようにとのお墨付きを与えられました。
※注 宗我都比古彦神社の新町座は江戸時代に新たにできた座で、神社創設以来の座である曽我座とは歴史が違いますが、何とか格上げを願っていた様です。これが後々曽我座と新町座の確執につながって行きます。ついには、曽我座からお殿様に
恐れながら口上書と言うものが出され、解決をお願いすると言う事態に発展します。

堀内長玄覚書(第十六集)九十三番

堀内長玄覚書第九十三番
(九十二番までの江戸出張の帰り)
宝暦三年亥の七月二十五日江戸を出立し木曽街道(中山道)板橋宿より岩ふち村へと行きました。この所、折からの大高水で家の屋根まで水が乗り、村の中の田圃の中を皆々、舟渡しで、さてさて、恐ろしい事でした。
それより、み田村と言う渡辺綱(源頼光の四天王の一人)の里があり、この所に渡辺の宮が有りました。
二十六日夕刻、上尾に泊まりました。その後、熊谷と申す宿場町を通りましたが大層繁盛な所で熊谷れん正坊(平敦盛を討った熊谷次郎直実)の塚が有り、この所に熊谷寺と言う浄土宗の寺が有りました。
翌二十七日本庄で宿泊。それから岡部村と言う大きな村を通りましたが、ここに岡部の六弥太(一の谷の合戦で平家の武将、平忠度を討ち取った源氏の武将)の塚があり、それから、かんな川と言う大きな川を渡りました。
ここまでが武州の地で、ここからは上州の地となります。
からす川と言う大きな川を舟で渡りましたが、この辺りでは畑の縁に残らず桑を植え養蚕が盛んなところです。
さらに、高崎と言う七万石の城下町に入りましたが、繁盛の地で、絹問屋にて白嶋を一反買い求めました。この代金が十七匁(恐らく銀で三万円弱くらい)大層安いと思いました。それより、段々と行くと横川と言う所に関所があり、通行手形を見せ通りました。二十八日は坂本に泊まりました。ここからは信州の地です。
うすい(碓氷)峠と申す大きな山があり、さだみつ(碓氷貞光、頼光四天王の一人)の塚がありました。
それより、追イわけ(追分)と申す本宿があり、ここは遊女が多くおります。ここまでの道は道幅も広く、およそ二十間とも感じました。(※ちょっと広すぎる様に思います)
ここが、北国西国の分かれ道です。それより、あさまがだけ(浅間山)峰より煙が立ち昇り、この辺りは広い原で、そば・稗などが栽培されています。
さて、この辺の女どもは老いも若きも尻をまくり立ちしょんべんする所で、それより村々に、馬の子取所(意味不明原文通り)にてむさ苦しい所です。茶屋に入り、飯を食べると蝿が黒胡麻を振りかけた様な有様です。
二十九日に望月と言う所に泊まりました。ここから下諏訪と言う厳しい峠があり、 春日大明神大社(諏訪神社)が有り、この辺りに水海(湖)があります。
それより和田峠になり、和田の吉森(和田義盛、鎌倉殿の十三人の一人)の塚があります。この山に黒水晶と言う石が有ります。
それより、塩尻峠となり、ここから越中の立山が望めます。三十日の夕刻に塩尻に泊まりましたが、ここへは信州の松本から、米酒など色々な品物が届きます。
八月朔日夕刻に福嶋に泊まりました。この辺りのの家は丈夫な材木で作り、壁は板張りで竹は使わず、建てられています。名物の蕎麦きりは結構ですが、汁はいただけません。そば餅も名物です。
それより木曽殿(木曽義仲)の屋敷の跡があり、ともゑ・山ふき(巴御前・山吹御前)の
定念仏寺が有り。樋口の次良(木曽義仲の家来の樋口次郎兼光)の塚があり、今井四郎兼平(樋口次郎の弟)の塚が有りました。この所に今井村と言う在所が有りました
それより、木曽のかけ橋が有り、それより段々登った所に津嶋太郎つり場が有り、谷川に見事な大岩が有り、ここの大淵で水を飲み景色は誠に見事な物でした。
二日の夕刻、大井に泊まり、ここから尾張に入り、三日夕刻、菊名に泊まり、四日夕刻かふとに泊まり五日夕刻に名張に泊まり、八月六日、無事に当村に帰りました。
八日に当村会所に庄屋年寄惣代組頭、残らず寄合い、江戸のお殿様の趣旨を話し
村々(曽我・大福)承知なさられ、それより段々寄合いの上、相談いたし、その内容は別紙、帳面に記載の通りです。
※注 なかなか見事な紀行文です。また頼光四天王や源平の合戦などにまつわる人々についてよく知っておられ、それゆえ、そのゆかりの地に興味を持って記載されています。その当時、そういった物語やそれに関する事が広く流布されていた事が伺えます。しかし、今日の様に色々な書物やテレビなど無い時代にどうやって、そういった知識を得られたのか、その点にも興味が湧きます。

堀内長玄覚書(第十五集)九十一番九十二番

堀内長玄覚書第九十一番
十四集で述べた江戸出張の際、お殿様より私共と大福村の藤助に対し、以下の様な仰せが有りました。
今、京都名目の借金が六百両余りあるが、これについて、こちらで問合せ、御公義の役人の筋を持って片付けようとしているが、その間、百姓共には難儀が掛からないようにしようと考えている。ついては、その様に心得て帰国の上惣百姓へその旨を説明するようにと、仰せつけられました。
※注 領主の借金は実質、百姓の負担ですが、領主からは度々この様な懐柔的な話があります。実際の所は全て百姓の負担となっています。この様な不満が後の一揆へと繋がっていきます。

堀内長玄覚書第九十二番
九十一番で述べた際、お殿様から以下の様な話がありました。
新兵衛(長玄さん)その方には、これまで度々御用金を申し付け、それに対し神妙にこたえてくれた事、また今に至るまで返済なく、その方、難儀いたしておる事、十分に承知しているが、今しばらく待って欲しい。こちらの台所事情が持ち直し次第、返済するので、との誠に有難いお言葉を頂戴しました。
一方、藤助に対し、これまでその方には御用金の申し付けはしなかったが、今後はその方にも申し付けることがあるかと思うので、相働くように、との話がありました。
これで、今回の出張の要件も片付き、翌二十五日より帰国となり挨拶に出向いたところ、殿様より、来る時は東海道を下ってきたようだが、川止めなどが度々あり、ついては大切な百姓が怪我でもしたらいけないので、この方より下人の六蔵を付け、中山道の起点の板橋まで案内させるので、木曽街道から帰るようにと申され、二十五日に木曽街道に入るべく、板橋を目指しました。
※注 上方と江戸への往還は東海道が主流と思われがちですが、川止め等が度々あり距離的には遠いですが、中山道の方が往来がスムーズで、そちらを使う方が多かったようです。

堀内長玄覚書(第十四集)八十八番九十番

堀内長玄覚書第八十八番
宝暦三年(1753年)戌の七月三日に江戸のお殿様より当村の村役人一人と惣代一人と
大路堂屋弥助と大福村庄屋藤助とに対し、江戸に下向するようにとの思し召しがあり中略 この時、私は二度目の江戸道中でしたが、七月九日に大雨が降り箱根山に登るときは殊の外なる大雨で、暮れ方に跳ね馬が駆け来たり、私共をすす竹にはね込み
さてさて、恐ろしき事に出会いました。それより、箱根御本宿に泊まりました。
この宿は火災の類焼の後で、戸障子も閉まらない様な有様でしたが、この家は殊の外なる大家でした。
明くる朝、座敷から見渡せば、富士山を見越し、前には箱根の海を引入れ、見事な景色でした。
ところが、十日の八時分に小田原に到着しましたが、佐川が殊の外なる高水で、川越人足も引き上げ、是非なく十日から十四日まで、小田原に逗留しました。ようよう、十四日八ツ時分に佐川が明きました。台に二人づつ乗って、その台は六人の人足が担いで渡しましたが、波の荒い所は人が沈む事もあり、さてさて恐ろしき事でした。この渡し賃は銭千五百匁(約四万円)でした。
十四日に戸塚につき、十五日夕刻に江戸に着きました。以下略
※注 川止めを除けば江戸まで約八日で着いています。非常な健脚と言えます。

堀内長玄覚書第九十番
(八十八番での江戸出張の際検地帳を見せられています)
曽我領田地惣反数 九十一町二反四畝十九歩半
この御高千三百四十六石二斗一升七合
大福領田地惣反数 四十町三畝二十六歩
この御高五百八十八石九斗六升八合
以下略
※注 この数字から、当時の一反(約12アール)当たりの米の収穫量は一石五斗弱です。現在では一反(10アール)当たり悪くても三石五斗くらいは収穫できます。
当時は如何に収穫効率が悪かったわかります。
別の項にありますが、二石三斗収穫できた時は大豊作との記載があります。
これとて、現在の一反では二石弱です。
時代劇でよく秋の田圃のシーンが出ますが、あの様な黄金色の田圃では絶対ないと思います。草ぼうぼうの中で貧弱な稲がひょろひょろ、が実態ではないでしょうか。