堀内長玄覚書(第二十九集)百七十六番百七十九番

堀内長玄覚書第百七十六番
明和三年(1766年)戌の八月十二日に南都御番所様より有難いお触書が出ました。
その内容はこれまでの様に何事に寄らず出訴に出た場合、そのかかり役人に金銀を以て賂いする事は固く禁ずる、と言うものでした。
もし、村々において、無宿者等の行き倒れがあれば、何事に寄らず、御番所より検死役人を派遣するが、駕籠にて送り迎えは固く禁止する。なお又、内証にて金銀を例え少しでも袖の下へ入れ、賂いするような事が聞こえれば、その村々の役人は言うに及ばず、賂いを渡したものも厳しく咎める。そのほか、村々の番人共、いぬ人になり さる人になり、長吏へ内証にて知らせ、町人に賂いを要求するなどの行為は、
盗賊非人が政道を行うのも同然である。何事に寄らず近年はそう言ったことがあり、不届き千万であると思う。今後は御番所への願いの筋が有った場合、今までの様に宿屋で日を重ね、多くの出費が重なるような事が聞こえた場合は、きっと厳しく吟味するものと心得よ、との事です。
また何事に寄らず願い事が発生すれば諸役人に色々と差支えもあることから、今後は願いの筋は訴状に書き、内に宛名を書き封印して御番所に直に差し出すようとの有難いお指図です。
私はついこの前、八木権七・今井治右衛門の件で訴えた件も、六両ばかり無益に費やしましたが、上記の有難いお触書がもう二十日ばかり早かったら、そんな難儀をしなくて済んだものと、少々残念ではありますが、国中の者どもみな今回のお触れで大喜びでございます。

堀内長玄覚書第百七十九
明和三年戌の九月朔日、私宅の養子小八郎が曽我座の当家でしたが、妻女のおすゑが盆前から病気が段々と悪くなり、毎日案じ暮らしておりました(この時おすゑさんは十八です)しかし小八郎は座のお金も受け取っており、もう日にちも無く(村の秋祭りですがく9月1日から座の当家に当たった家で仮屋立て神様をお迎えし、7日の祭りが済めばまた神社に帰られます。その間に不幸ごとなどがあれば大変です)もし神代(神様がいらしている間)の間に往生するような事が有ったら氏神様への粗末になり、世間で何を言われるか分からない、さあ、どうしたものか、今更ほかの家に当家を頼みも出来ずしかしひょっとしたら病気が快方に向かうかもしれず、凡庸な人間の事ゆえ、心の迷いも悲しく思います。
もし、九月一日から七日の間におすゑが亡くなる様な事が有れば、氏神様の御移りなされている間に何という事、と世間の口も有り案じ暮らしていましたが、もはや早くも八月の晦日になり、是非なくこの家に氏神様の仮屋立て、そのほか米・肴など諸事の拵えをし、座家中へ呼び出しを遣わし、皆々様が集まり来たり、宵宮の箸けずり等首尾よく勤まり、明くる九月朔日早朝、曽我大神宮様をお迎えに、当人の小八郎と私が神社に参り御機嫌よく御仮屋に移られ皆々有難く御礼申し上げました。
四ツ時分(午前10時頃)に座中衆に本膳を出したところ、おすゑも重き枕を上げいう事には「今日は目出度い小八郎様の御膳ですので私も御膳に座りたく」と申し、皆々悦び
早速に本膳に座らせました。病人殊の外機嫌よく、少しずつ食べ、私共も大喜びでしたが、明くる二日に容体が重くなり、医者衆も色々とお薬を加減されましたが、元気なく、気の毒千万に案じくらしておりましたが、四日八ツ(午後二時頃)時分、病人のおすゑが申すに「曽我大明神様がご機嫌よくおいでなされている間、この間は阿弥陀如来様を拝むことは遠慮しておりましたが、心に掛かっておりますので、恐れながら、阿弥陀如来様を拝まして下され、と枕を上げ願ったので、この事は有難い事と、早速屏風を引き回し、御机を直し三ツ具足、香、花を用意し勤行をいたしましたら、病人おすゑも有難くも殊の外なる悦びで「かようなる浅ましき者をお助け下さる事の嬉しさ、病人おすゑ、涙かぎりなき悦びでございます」と申し、皆々有難くご報謝、お念仏の悦び、筆にも尽くされません。
然るに明くる五日に御供になり、この家の内で湯神楽を上げるが神様の御機嫌は如何かと案じておりましたが、殊の外なる御機嫌でご満足に思し召し、一同の者、皆々喜びました。
明くる六日八ツ時分に曽我大神様御榊を神主四郎三郎殿が神輿に移し。送り御供当人の小八郎が御幣を持ち、酒・さん米等を下女に持たせ、喜太郎も御供で装束を改めて出立するところ、病人のおすゑも大病の枕を上げ、見送りましたこと、この悦びは鍵なくうれしい事でした。
然るに明くる七日は当村神事のところ、段々病人弱り衰え、もはや臨終も間近と相見える状態となりましたが、いまだ曽我大明神様、御仮屋にいらっしゃり、御幣も当方にある状態で、さてさて心配な事。そこで神主四郎三郎殿を当方へ呼び、病人が心もとない状態であることを告げたところ、四郎三郎殿、それならば今晩に御幣を神社に移しても良いでしょう、と仰せられ、早速にお神酒、さん米等を拵え、神主に渡しその夜に神社に帰られました。
そこで、その夜に御仮屋を解きかけましたが、あまりに夜更けで近所への聞こえも如何なものか、という事で差し控え、明くる八日、明け六つ時に仮屋を解き、後仕舞い掃除などをしていたところ、時を同じくしておすゑの様子が変わり、「皆々様へ暇申し上げます。喜平次様、小八郎様の事頼みます。喜太郎様はおとわ様もこと頼みます。」と申し、その日八日五ツ(午前八時頃)時、お念仏とともに、おすゑ、有難く往生いたしました。
※注 当時の祭りの時の段取りなどがよくわかります。また危篤状態の病人を抱えながら一方で祭りの当家になり、長玄さんの心労がよく伝わってきます。それにしても
意識もあり、別れの言葉もちゃんと言える状態から亡くなるなど、現代では考えられませんが、当時の臨終はこの様なものだったのでしょう。

 

堀内長玄覚書(第二十八集)百七十五番

堀内長玄覚書第百七十五番
明和三年(1766年)戌の六月に南都(奈良)御番所のお奉行様が代わられました。
酒井丹波守と申すお方で、着任されて五十日ほどの間に、諸役人や在在の町方役人や百姓方、其の外、下々番人に至るまで、結構なお殿様と申しております。
如何様なる難しき事が発生しても事やわらかくお捌きされ、そのお捌きも全く隙がございません。
これまでは、御番所の役人衆や町々村々の番人で犬と言う人、猿と言う人(最下層の番屋の役人、役人と言うより中間で有体に言えばゴロツキの様な感じで、有ること無い事を言い立て、金にしていた様な輩)随分と気まま勝手に動き回り、御番所のお殿様も知らぬ顔で、犬ひと、猿ひとから長吏、村々の番人は鼻高になり、例えばの話ですが村に非人の行き倒れが有っても、無宿人の行き倒れにて、簡単に処理できるところ、殊更に難しく南都の長吏に届け、それを受け、南都の御番所からはお目付け役人同心衆が南都井上町から駕籠に乗り、其の外、長吏と番人と上下十二三人も出て
道中の飯酒、行き戻りの旅銭も村方持ちで庄屋年寄が付き添い、南都御番所前の宿まで行き、早速に御番所に書状を提出しても一向に沙汰が無く毎日毎日、宿屋で寝起きで金もかかり、仕方なくその役人にも金を包み、この役人にも金を包み、ようように
吟味が始まる有様で、非人の病死行き倒れごときで物入りになり米に直せば三十石ほどの掛かりになることです。そこで、先年より当国(大和)質屋仲間できましたが、八木出身の味噌五郎と申す質屋頭がおり、質屋仲間の株一株につき銀八匁づつ出して、
この者に渡しておけば、そこから金が役人衆に渡り、容易に事が運び、早速に相済むこととなります(こうやって質屋の株仲間も袖の下の一端を担っています)
また、少々の金持ちの人で、質屋の切手を持たない人が少しの質物で銀銭を貸すことが有りますが、それを咎め、失せ物吟味と称し、十五六人の役人が出張り、その人の家財を付け立て、帳面等も取り上げ、土蔵を封印し、殊更難しく話を持ち掛け、結局袖の下を二両、三両、五両、十両と役人銘々の心次第に出し、またその様な役人が来ないように下役の長吏、番人に内証にて渡したり、そういった賂い銀が当国(大和)中でおよそ二千両ほどにもなった由でございます。
南都御番所役人、其の外長吏、番人、いぬ人、さる人、皆々悦び油断していたところ、今回の酒井丹波守様、打ち換えるようなご吟味にて、八月上旬に番所役人、長吏いぬ、さる、番人を召し出し、在々の質屋吟味に付き内証にて過分の金銀を袖の下として取っていないか厳しく吟味されました。
さて、皆々お役人、其の外の人々皆な目を覚まし、長吏、村々番人等これまで、ゆすり取りにしてきた金銀を内証にて戻したり、其の外、役人の遠慮もあり、閉門もあり長吏が一人入牢になりました。
それより、村々番人共、倹約になり、世上事納まり、有難く、この度の南都お奉行様は広大の御慈悲なる方でお捌きの次第有難く、皆々南都には足を向けて寝ない(原文は南都之方へ寝伏致スにも、心をつけ寝候様・・)ような、諸人の悦びでした。
それより、南都奉行所に告げ口をする、いぬ人、さる人もいなくなり、世間静かになり、国中の人々、大いに悦びました。
※注 名奉行で知られる酒井丹波守忠高が赴任してきた時の話です。
当時の役人の袖の下の有様や、嫌われ者の番人の有様がよくわかります。
なお、この酒井忠高は上方落語「鹿政談」に登場する名奉行のモデルになった人と言われています。

堀内長玄覚書(第二十七集)百五十八番百六十番百六十一番

堀内長玄覚書第百五十八番
明和二年(1765年)四月十五日、大雨降り大高水(洪水)となりました。当村新地の孫七水車が大きく壊れ半流れになり芝ノ後(サッカー場の西、堤防のさらに西、川との間の河川敷の所、河川改修の前はこの辺り一帯は畑地でした)の堤切れ(江戸時代の堤防は今よりも川寄りと推測されます)十二三間の方に菜種をかり干ししていましたが全部流れ、堤もあちこちで切れ、大乱水でした。

堀内長玄覚書第百六十番
明和二年、六月大日照りで、用水は一切なく、さてさて百姓は難儀いたしました。
土用まで照り抜き植田はどうにもならず、草が茂り株は細く不作でございます。

堀内長玄覚書第百六十一番
明和二年八月三日、朝五ツ(午前8時頃)からの大雨で田も綿畑、たばこ畑も水でやられました。百姓方は大難儀なことでした。
その時の相場は、実綿百十五六匁かあら段々上がり百三十四五匁になり、米は六十匁から六十四五匁になり、百姓方随分いたみ、十月、霜月に至って行き詰まりとなる有様でした。
※注 洪水と日照りが同じ年に交互にやってきます。領主の借金が増大し、御用金の要求も激しく、村人の困窮はますます増大していきます。これが三年後、明和五年の一揆へと繋っがっていきます。郡山や田原本、今の広陵町や畝傍、吉野方面はもっと酷い状態であった様です。

堀内長玄覚書(第二十六集)百五十五番百五十六番

堀内長玄覚書第百五十五番
明和二年(1765年)光専寺の本堂の登り段橋が今年になっても出来ておりません。
私も親の玄信様の享年と同じ年になり、ここまで生きてこられたのも御縁と思い、
せめて少しでも御礼ご報謝させていただこうと思い、いわれの宮(中曽司の磐余神社か)で大松一本買い受け、坊城村の大工伊右衛門により、完成いたしました。
これもご両親のお陰と思い、有難い事でございます。

堀内長玄覚書第百五十六番
明和二年、曽我の森の石灯籠を再興いたしました。
これは、以前に先祖の長玄様が万治元年(1658年、106年前)にまた、先祖の寿意様が、元禄九年(1696年68年前)に寄進された物ですが、近年粗末になり、崩れて台と竿と、屋根とが森の中にあると言った状態でした。
そこで、今回私が新たに寄進いたしました。
(添付書き 毎年十八夜に灯りをともし、さてこの後は粗末に致すまじく候)
※注 この石灯籠、今も宗我都比古彦神社の参道脇に立っています。

堀内長玄覚書(第二十五集)百五十二番の二

堀内長玄覚書第百五十二番の二
二十両の目くされ金ようもおのれの口から吐き出しおったは、と申し私の一生の無念、筆にも尽くされません。
川原氏が申されるに、いよいよ百両が出来ずば内六両三歩は了見してやるが残りの
九十三両一歩はきっと請けるか、もし不心得ならば今夜からでも江戸へ下って御前にて申し訳いたすか二つに一つじゃ、返答せい、
と私の頭の上に立ちかかり大声にて厳しく申され、さてさてこの時の難儀、泣くにも泣かれず立つにも立たれず大難儀でしたが心を強く持って
お願い申し上げました。すると川原氏は、然らば是非に及ばず、これよりおのれが家に行って家財一切売り払い百両にならないなら、
それで了見してやる、もし百両が五百両になろうとも、成り上がり次第に取り上げる、いかにいかにと大音にて立ちかかり、申されました。
その時、居合わせた村役人の半兵衛殿と庄屋助七良殿とが取り成しをされましたが聞き入れられず、私はこの時、もはやこれは私一生の
難題と心を据え、私の家財を売り飛ばすとされるなら一家中呼び寄せ、如何様にされても致し方なしと申したところ、
惣右衛門(この辺りから敬称の殿がなくなり、氏または呼び捨て)身拵えにて、下役人藤井伊兵衛に矢立を持たせ供連れに提灯を持たせ
庭まで降りかかり、私を引き連れ我が家に行こうとするところ、助七良殿、半兵衛殿が両方から私の羽織の裾を抑え申されるに、ここの所はひとまず印形され、その後で如何様にでもお詫びなされては、とのこと。差しうつむき思案をしたところ、これ以上大騒動になってもと思い、また五人の者、私に相談もなく印形したのも心外ではあるが九十三両一歩印形致しました。さてさてその時は心外とも腹立ちとも申す方もございません。倅、喜平次が迎えに来てくれて、その肩に寄りかかり、会所へ戻ってまいりました。その時、上記五人の者、会所の東北の方で心良く遊んでいるのを見ると大金の私の難儀を喜んでいるのかと、恨みに思ったものです。
それより極月十五日に内金五十両を上げ、残りは酉の二月に上げることと致しました。二月に残り金を上げる際に、上記九兵衛殿と川原氏は内外とも昵懇なので、今まで度々上げてきた御用金は年貢時に決済下さるように、また今回の九十三両一歩も私にとって大金なので、十三両一歩は酉の極月にまた残りは戌の年から四年の各年貢時に決済していただくべく証文をお願いし、結果受け取り証文を下されました。
この御礼に九兵衛殿に生鯛二枚を進呈いたしました。
然るに、上記八十両はいまだに決済されていません。
これより今年に至るまでの御用金は銀一万四千四百十七匁(一両はだいたい銀60匁なので約240両、約2400万円くらいか)にもなります。
身分不相応な御用金で迷惑とはこの事です。
※注 曽我村・大福村は旗本多賀氏の領地ですが領主の多賀氏は江戸暮らしで、領地の行政は郡代(代官)が行っていました。普通に考えれば郡代は多賀氏の家来と思いがちですが実際は違います。江戸初期から下市の浪人の庄田氏が代々雇われその職に就いていた様です。時々は川原惣右衛門のような、自薦の渡り役人が就いたようです。
この川原惣右衛門は長玄覚書を見る限り非常に無能で、渡り役人の性として領主の前では大見えを切り領民に、ただただ力押しに苛斂誅求な要求を突きつけ、ついには、一揆を惹起する事になります。

堀内長玄覚書(第二十四集)百五十二番

堀内長玄覚書第百五十二番
明和元年(1764年)申の十月上旬に川原惣右衛門(注 多賀氏の郡代(代官)で曽我村大福村の行政を行う総責任者。但し多賀氏の家来ではなく丹波もしくは丹後出身の渡り役人で、渡り役人とは自らを売り込んで大名や旗本のブレーンとなる人物で、多賀氏の場合たいていは下市の浪人の庄田氏を郡代として200石の家格で雇っています。200石の知行もしくは切米(現金支給の給料)を与えていた訳ではなく、あくまで格で、江戸時代の武士はこの格によって例えば外出の際の供の人数や、騎馬、槍持ちを付けるとか色々な特典がありました。この川原氏の就任以後、村では苛政が続き、ついには一揆へと繋がっていきます)殿、江戸へ登られ霜月中旬に曽我・大福の両村の村役を呼び付けられました。そこでの話は江戸のお殿様は物入りが多く、お手元不如意につき大福村又作に二十両、平兵衛に三十両、同村庄屋藤助に六十両、曽我村九兵衛に
二十両、庄屋助七良に七十両、新兵衛(長玄さん)に百両を差し出す様にとの事でした。
急な事で甚だ驚き入りました。今までも御用金や先納金など度々差し出しているのにこれは如何なる思し召しか、これはお詫びの上お断りするしかない、という事でその場はお断りを入れ、皆々立ち帰りました。
ところが極月十日にまたまた上記の六人の者が陣屋に呼び出され、川原惣右衛門殿が申されるには、先だっての御用金都合三百両、この十五日までにきっと差し出す様にとの事で、甚だ困り難儀迷惑なことと六人の者、会所にて色々と相談するも致し方無く、当村光専寺の御住職様にお頼みしようとなりました。ご住職様、色々と申し入れなされましたが川原氏一向に聞き入れず、ようよう、三百両の内、五十両は来年酉の二月まで引き延ばすが残る二百五十両はすぐ差し出せ、との事でまたまた光専寺の
ご住職さまの頼みお詫びをお願いいたしました。その結果、ようよう二百両はすぐ差し出せ、残り百両は来年の二月まで引き延ばす。また利息は月三朱(一朱は一両の十六分の一、従って月約16%)のところ、年に五朱まで引き下げる、これ以外は如何なる要望も聞き入れない、と川原氏、ご住職に申し切りに申され、ご住職も致し方なく、これきりにて引き上げなされました。
さてさて、六人の者難儀迷惑、わけても私一人に百両もの大金を申し付けられ、途方に暮れておりましたがその日七つ時分に(午後四時頃)川原氏より六人の者すぐに陣屋に来るようにと厳しく呼び出しがあり、六人の者、一緒に陣屋へ出向きました。
そこでの川原氏の話ですが、その方共、今回の御用金について不承知の様だから、 一人づつ呼び出し吟味いたす、残りの者は会所におれ、との事で足軽の藤井伊兵衛を番につけられました。
先ず初めに大福村の又作が呼び出され、上記の二十両について早速請合いの印形をいたされ陣屋より下男一人を付け会所に送り戻られました。
さてさて腹立たしいのは、まるで我々を咎人のように扱い、残りの五人にはどのような様子であったかは口止めし、次に大福村の平兵衛が行き、同じ様に印形し、その次に当村の九兵衛が同様に二十両の請合い印形をし、その次に大福村庄屋藤助が同じように六十両請合印形され、その次に当村庄屋助七良も同様に七十両請合印形されました。その後、私が呼び出され、川原惣右衛門殿がおっしゃるには、上記五人の者、
皆この度の御用金、相違なく請合印形致した。その方も百両、相違なく請合印形致す様にきっと申し付ける、との事。
私は嘆きながら、私は近年不幸続きで妻子共、大病が続き、その上、相果て不幸せな事で、これまで何度か御用金を差し上げ、殊の外金回りが悪くなっております。どうかこの度の御用金については、ご容赦下さいます様と申し上げました。また恐れながら私は先年戌の七月に村方御用で江戸に下向した際にお殿様から、新兵衛その方はこれまで度々御用金に精出しし誠に神妙である。今に返済しておらず、その方が難儀していることは尤もである。勝手向き持ち直し次第、返済いたすので、今少し待って欲しい、左様心得よ、と有難いお言葉を頂戴いたしました。
そう言う事もあり、また度々これまで御用金を差し上げております故、今回の御用金は何卒、ご容赦下さりませ。とは言いましてもこの度はわけても御大切な御用と心得ますので二十両はご用意させていただきます、と申し上げたところ、
続く

堀内長玄覚書(第二十三集)百五十番百五十一番

堀内長玄覚書第百五十
明和元年(1764年)申の三月より、殊の外、天気は雨が続き百姓方随分と勝手が良く
植田は五月中旬までに植付ができ、その後段々と雨が続きこの年は川ばり、水替え等一度も無く、さてさて珍しき年で野作の廻りも殊の外よろしく、有難いことでした。
別けても近年難儀していた京都名目金も(幕府から今なら約4億円の借金をしており、この利払い等で大変難儀をしていました)三十年賦になり、御公義の御慈悲と有難く当村の百姓も今年は少し心の休まることでした。
そこで、この年の七月晦日に町々に分かれ当村六ヶ所にて日待ちを行い祈祷をいたしました。
※注 日待ちは、今は正月明けの行事のようになっていますが、元々は何か喜びごとや悲しみごとが有ったとき、神社等に集まり、夜を徹して祈祷をし夜明けを待った、即ち日を待ったのが始まりと聞いたことが有ります。

堀内長玄覚書第百五十一番
明和元年申の八月二日夜、七つ(午前4時頃、今風に言えば三日の午前4時)頃から明くる三日明け六つ(午前6時頃)まで今まで覚えが無い様な殊の外なる大風雨で、丑寅風が吹き、その後、未申より吹き返し、大風雨で、さてさて恐ろしき大風でした。
当村の西養寺(今の東楽寺の所、元々東楽寺は今の真菅小学校の所にあり、明治41年に小学校建設のため、西養寺と合併し今の場所に移転しました)の大松を吹き倒し、
太子堂と庫裏とがこの松にてつぶれ、東口制札等(お触書を掲示した場所か)も吹き飛ばし、西口の藤四郎の家がつぶれ、北の文四良の家がつぶれ、其の外、村方の屋根の瓦家々に吹き飛ばし、曽我の森の神木おびただしく吹折れ、二抱え程の櫟の木が中頃より折れ、枝木は殊の外なる量になり、神主四良三良へ取り入れ、残る木や枝を十二日に宮で売り、村方で買い入れ、新町座の方々が残らず売りに行かれました。曽我の森の分で銀五百匁(九十万円ほど)ほど売り出し、また、八幡さんの神木は銀七八十匁程になり、また東楽寺神社(真菅小学校の所に東楽寺があり、そこに鎮守の森があり、そこに秋祭りの御旅所を拵えていました)の杉が中折れになっており、これは七匁で売り、その三か所の売上金の半分を四良三良に渡し、残りは宮に渡すことになりました。
然る所、東楽寺の住持から、前述の吹き折れた杉の木を庫裏の修理の普請に使いたいとの要請があり、曽我座中で相談のうえ、東楽寺に渡しました。
当国(大和)のいたる所で宮々の神木が夥しく吹き折れましたが、不思議な事に宮々の
社(やしろ)は無事で神力相見え、有難く、当村西養寺の太子様(現在、東楽寺所蔵の、橿原市指定文化財の聖徳太子像)は御座所ともども無事で、其の外、仏具等にいたるまで、少しも損害を受けませんでした。しかしながら、大和の国の在々の古い家は多くが吹き倒され圧死する人も多かったようです。
そういった折、三日朝から諸方の米商人が来、今井八木の米相場が大いに上がると読み、大坂へ飛脚を仕立て、米の買い取りの手を打ちました。ところが四日朝になって、米相場は下落し、米の買い占めを画策した人々は大変な損害を出しました。
と言うのは、西国北国は悪風は一切なく、また大阪も少しの風で、米相場も段々下がり、加賀米で三日四日頃は一石あたり五十四匁であったのが、十五六日頃は四十八九匁まで下がりました。
私も大不覚で、世上、今回の大風は一時は強く吹いたものの、極めて短時間で収束した故と申し、田畑の被害も少なく百姓方は大いに喜びました。
※注 東日本大震災の時も、地震直後に建設関係の株が高騰するなど、いつの時代でも災害を横目に金儲けに走る輩がいるものです。長玄さんも一口乗ったものの、大損したと反省されてます。
米の価格ですが、基準となる米があった様で、今回は加賀米換算での価格ですが、時によっては筑前米などが出てきます。今でも、コシヒカリ、ヒノヒカリ、キヌヒカリでは微妙に値段が違いますが、江戸時代も産地により価格差があった様です。

堀内長玄覚書(第二十二集)百二十七番百二十八番

堀内長玄覚書第百二十七番
宝暦十二年(1762年)午の極月に、京都の荒木へ(京都の荒木が何かは不明ですが、そこから村は借金が有った様です)利息の銀千匁を支払う約束でしたが、村にはその金が有りません。そこで、当村のかご屋藤助を通じて、小槻村の岡橋清左衛門に八月末を期限とする証文を庄屋年寄が印をついて借金を申し入れた所、曽我村の村役人の連判では金は貸せない、長玄さん一人の印なら貸しましょう、と藤助を通じて申されました。そこで私は、私一人の印で岡橋清左衛門から借り、村役人の連判は私の方に取り置き、京都の荒木への支払いを済ませました。
※注 岡橋清左衛門としては、村役人は人が変わると証文の確実性が薄くなる心配がある、そこで今風に言えば長玄さんの個人補償が欲しい、という事でしょう。長玄さん自分個人の信用度の高さを、ちょっと誇らしげに言ってる様に思います。

堀内長玄覚書第百二十八番
百二十七番で述べた通り、私は借受証文を書いて岡橋清左衛門から金を借りました。
ところで、五十年あまり前ですが我が家の先祖の喜右衛門さん後に玄信と称されましたが、この方、綛商いや米の小売りなどをされていました。
その頃、岡橋清左衛門に米を十石渡し、その預かり証文と手形が手元にあり、そこには、この手形を持ってきてくれたら、いつ何時でもお支払いいたしましょう、との旨が書かれています。その証文の日付は宝永戌(1706年、56年前)の十一月、預り主
小槻村岡橋清左衛門、曽我村喜右衛門殿となっています。
今回、岡橋清左衛門から借りた金は銀千匁ですが、この貸した米はこの数十年の利息を計算すれば、五年でおよそ倍になり、五十年余りでおよそ五千三百石になりましょう、この長玄、六十四歳にもなり家名も無事相続し、何不足も無く安心に暮らしているため今までこの証文は着に掛けずにいましたが、今回この証文の件お伝えしますとかご屋藤助を通じて岡橋清左衛門に伝えましたが、何の挨拶も有りません。
さてさて不届き千万な事、岡橋清左衛門の家柄に合わず、心外な事です。
※注 小槻の岡橋清左衛門からは度々借金をしています。今回の借金を機に長玄さん五十年以上前の古証文を持ち出していますが、岡橋清左衛門にすれば、今更そんな古証文を出されても、今風に言えばとっくに時効になっている、と言う心境でしょう。

堀内長玄覚書(第二十一集)百十八番百二十一番百二十三番

堀内長玄覚書第百十八番
宝暦十一年(1761年)巳年の極月中旬に、ご公義より大坂中の金持ち人に御用金を申し付けられました。最も金持ち人十人ばかりには五万両づつ、その下の中くらいの金持ち人には二万五千両づつ、その下には一万両づつ、その下五千両、その下三千両、
二千両、千両もあり、大坂中にておよそ百五六十万両ばかり仰せつけられました。
極月に至り、大坂中殊の外厳しく相なり、正月の餅つきも少なくなり、諸事の相場も高下し、前代未聞の珍しい事でございます。
※注 西暦1761年と書きましたが、十二月は実際は1762年になっています。
年号年と西暦年の照合は大部分の一致する年に合わせていますのでご注意願います。

堀内長玄覚書第百二十一番
宝暦十二年(1762年)二月二十六日昼九ツ前(午前11時頃)南都(奈良)で大火事が有りました。火元は芝辻で、御番所様(奈良奉行所、今の奈良女子大の辺り)五間屋敷焼け、それより南北広く焼け手貝町半分焼け、押上町から東の方へ吹き飛び東大寺の大仏前より水屋へ焼け抜け、出茶屋ども焼け、つづら尾山焼け抜け、この東に民家が有りますがこれも焼けました。当国(大和)にてこの様な大火は聞いたことがありません。

堀内長玄覚書第百二十三番
宝暦十二年午の六月、大日照りで、南川(高取川と思われる)より水を回すよう、村役人惣代組頭等が寄合い相談いたしました。私が以前から聞いていたところでは、光専寺の込山の後ろに古い樋があるとの事です。またそれに関し、以前に土橋村・妙法寺村からの書付が庄屋の所にあるとの事で、それらを吟味し、両村立ち合いの元、水廻しを相談し、掘り分けた所、五十年以前前から埋もれていた樋を掘り出しました。
本川(高取川と思われる)かかりの(川の水の水利権のようなものか?)出作本作の田を潤してもなお余り水があるので、それを下の両村(土橋・妙法寺)にも廻し、大変喜んでいただきました。この事、私が同役人中に相談を申し入れ、常駐になり(新たに掘り出した用水路を今後も恒常的に使うという事か)大喜びいたしました。
※注 今も光専寺の南側の用水路は非常に大切な農業用水路ですが、江戸時代初期から有ったものの、長らく埋もれており、上記の年に再整備し、今に続いていることがわかります。

堀内長玄覚書(第二十集)百十一番百十四番百十五番

堀内長玄覚書第百十一番
宝暦十年(1760年)二月二十三日より、親鸞聖人五百遠忌で吉野の飯貝本善寺で二十八日までご法要をされるという事で、妻子を連れ参詣にまいりました。
その日の八ツ(午後二時頃)の法事に間に合い、その日は飯貝に泊まりました。その夜は
初夜参りし、明くる朝に参詣し、四ツ時分(午前十時頃)に吉野山に行きました。折から一目千本花盛りで、あまりに嬉しく桜の下で弁当を広げ、一首よみました。
五百年(いもとし)の祖師の御影で見吉野の花の下得てのミ込ぞする
※注 この頃には吉野の桜の一目千本と言う言い方があった事がわかります。長玄さん結構よく短歌を詠んでいます。掛詞などを多く取り入れ、洒脱な作品が多いです。

堀内長玄覚書第百十四番
宝暦十一年(1761年)六月十五日から八月五日まで五十日の間、鳴り物・音曲、御停止(ちょうじ)のお触れがでました。これは御公義様の儀で、世上誠に静かな事でした。どこの国でも盆踊りなど一切なく、大坂では米相場もなく、十五六日のあいだ相場状も参らず、諸商いも静かな事でした。当村にも役人が来て、夜回りをいたしておりました。
※注 前年に九代将軍家重が死去しています。その喪に服した様子が書かれています。また、大坂では米相場が盛んで(これは世界初の先物取引と言われています)その状況を知らせる、今風に言えば株価速報みたいなものが通常、長玄さんの手元に届いていたようです。

堀内長玄覚書第百十五番
宝暦十一年巳年、当村の中土橋が石橋に替わりました。これは大坂伊勢屋道寿老が再興されたもので、人足は残らず村方より出し、石屋は寺口村で、殆どの石は当村から寺口村まで取りに行きました。
※注 今に残る中橋町の橋です。今も一部、この時の石材が残っています。将来何らかの形に架け替えられる事もあるでしょうが、この石材部分は何かの形で、その由来とともに残しておきたいものです。